第四章 東欧への旅 | 目次/前へ/ 次「法学部へのコース」 |
気ままな貧乏旅行
その後の英国旅行の経験も含め、日本というのは全く特異な国だということがわかった。一応、単一民族国家であり、地域的にも島国で、誰が見ても当然という一つのまとまりになっている。複数の民族がまとまって一つの国家を作り上げるのでないから、国家が、社会のあとにできた人為的なものだという考え方は、なじみにくいのだろう。しかしユーゴのような国の方が、国家とは何か、国家の機能は何か、何故こういう国ができているのか――などの問題について、国民が肌で感じる共通の意識の基盤はあるのだ。日本人の 「国家」についての論議は。あまりに感情的側面が多すぎる。国家について合理的な考え方をしていった方が良いのではないか。
いずれにせよ、ユーゴは政治的に安定している、成長しつつある国という気がした。外国の出版物もイタリアからどんどん入ってくる。そのこと一つだけでも、他の共産圏諸国のような「閉ざされた社会」ではない。ただ「建国の父」ともいえるチトー大統領が死亡した後のことを考えると、私が見て来たような社会が維持できるのかどうか、不安が残る。偉大な指導者であればあるほど、亡き後の問題も含めて考えているのだろうが、その胸中を聞きたいような気がする。
ユーゴには約二ヵ月間で別れを告げ、リュブリアナからアルプスを通る山越え列車でウィーンに向かった。ウィーンは電車で通り抜けただけだが、きれいな街だと思った。それだけですぐにプラハ行きの列車に乗り込んだ。国境の小さな駅で列車が停り、パスポートと荷物をチェックする。これで「鉄のカーテン」を越えるわけだが、それにしてはあっけない形式的なチェックであった。
プラハでは国際学連の日本代表のお世話になり、四、五日滞在した。観光客並みの見物で、モルダウ川を見たり、博物館に入ったり、スメタナ歌劇場でオペラを見たりした。しっとりと落ち着いた建物が並ぶ良い術で、さすがボヘミヤグラス、チエコ銃など高い技術水準を持つ国だと感心した。当時ドプチェクの「人間の顔をした社会主義」政策が押し進められていただけに、自由な雰囲気も感じられた。
次はポーランドで、青年同盟のお世話になった。ワルシャワでびっくりしたのは、第二次大戦で破壊された古いレンガ作りの街が、破壊されたまま残っていたことだ。その跡を片付けて新しい街を作るより、その隣りで街作りをした方がずっと安上がりで合理的だということで、大戦後のワルシャワ市建設をしたらしい。国土に余裕があるということはたいしたものだと思った。ショパンの生家にも行った。クラカウの大学、カトヴィツェの製鉄工場なども見学した。
ワルシャワではジャズの演奏も聞いたし、青年が深夜まで酒を飲める場所もあった。しかしユーゴほど自由な雰囲気はなく、私の行動そのものも管理されているという感じが強かった。
アウシュビッツの収容所跡も見学した。人間の皮膚で作った電灯の傘とか、ブックケース、殺された人たちのメガネの山、クツの山、ガスで殺した部屋、焼き殺した部屋など次々案内された。直視するに耐えないようなものばかりだが、私はアウシュビッツで行われたことも人間性の一面を示す真実だと思う。あり得べからざることといっても、現実に起こったことだ。たしかに人間の中には残虐さがある。それを道義的に批判するばかりでなく、個人でいえば自己規制し、社会の次元では有効な社会統制によって、こういう残虐行為を再び起こさないよう保証していくことが大切だと強く感じた。
ワルシャワからモスクワへは飛行機で行った。当時からソ連は階級対立のない「全人民国家」への移行をうたった憲法を作ろうとしていた。そういう「前進」を誇示しようとしたのだろうか、全世界から約二百人の青年を集めてゼミナールをやっていた。日本からは民主青年同盟の諸君が数人と、日本青年団協議会の代表三人が参加していたが、私も参加者の一人となった。私はほとんど日青協の人たちと一緒に行動していた。
ゼミナールでは各国代表の官許の演説を聞くだけで、退屈なものだった。私も演説する機会があったが 「階級対立がなくなって全人民国家に移行するとはいっても、すべての矛盾や問題がなくなるわけではない。大勢の人間が生きている社会では必ずさまざまの問題が発生するのだから、それをいかに解決していくかが大切だと思う」というような内容にした。客分として来ているのだから、あまり悪口は言えないが、私は「全人民国家」などという言葉はおかしいと思うし、とても「全人民国家万歳」という気にはなれなかった。
他国の代表とも話し合うことがあった。アイスランドやアフリカの女性と話し合ったりしたのを覚えている。私が「社会主義革命なんてものは、マルクスやレーニンを勉強していなくたって、いろいろ運動して結果的に社会主義革命だったということだってあり得るんだ」といったら、アイスランドの女性は「そんなことはありません。マルクス・レーニン主義を学ばなければダメなんです」と教条主義的に反発していた。「キューバ革命をやったカストロは、そんなにマルクス・レーニン主義を勉強したんですかね」などと皮肉をいったものだが、たぶん各国とも党組織のホープと目される人を派遣しているのだろう。私なんかは異端者であったらしい。
宿泊したのは「ユーノスチ」(若者)というホテルで、青年団体委員会の人たちが面倒をみてくれた。「ボルガ」という高級車でいろんなところを案内してもらった。学校、工場、博物館、クレムリン、レーニン廟などだが、どれもバカデカイということだけが印象に残った。ワルシャワの中心部に、ソ連人がやはりバカデカイ塔を建てていた。ワルシャワ市民は「あれを見ると“ロシア人の野郎”とハラが立つ」といっていた。ソ連による「革命の輸出」や、その後も続く政治的、経済的支配の象徴のように、ワルシャワ市民は思っているのだろう。しかもそれが。ハカデカイことが、なおさら強い反発の原因になっている。ただ私の印象では、そういう塔を建てて残すことそれ自体の意味はともかく、バカデカイものにすることはロシア人の国民性であって、特別な意図はなかったと思う。
常設の博覧会があり、それも見せてもらった。ソ連邦を構成する各共和国が名産、特産物を展示しているのだが、これもキンキラキンの満艦飾である。プラハの町にあふれている渋い感じ、落ち着いた文化の香りなんかどこにもない。ソ連と東欧では、国民性そのものが全く違うのであろう。ソ連はむしろ米国に近いのかも知れない。
ソ連の市民生活もうかがい知ることができた。ホテルの食事では、極端に野菜が悪く、かさかさに乾いたレタスなんかを食べさせられる。青年団の人たちも含めて野菜が恋しく、自由市場でトマトを買って来て、シオをふりかけて食べるようなことをしていた。その帰りに呼びとめられ「シャツを売ってくれ」といわれたのにはびっくりした。「今着ているのでいいのか」というと「それでいい」という。しかしあまりおかしな格好でホテルに帰るのもどうかと思い「別のシャツを持って来る」といってホテルへ戻った。余分のシャツも見当たらないので、すり切れたポロシャツを持っていったら、それでも二千円程度の代金を支払ってくれた。「君の時計を譲ってくれ。お礼に、俺の女房を世話する」との申込みを受けたこともある。それはさすがに断った。両方とも相手は普通の労働者、市民のようだった。日用品が不足していることも、こんな行為の理由だろう。しかしユーゴでもポーランドでもこんなことはない。ソ連の場合、西欧諸国と極端に切り離されているということから、市民が外国商品に対する「信仰」のようなものを持っているのではないだろうか。公式には「素略しい社会主義国家」ということになっていても、他国との比較は許されないのだから、国民の心には「外国は素晴しいらしい」というあこがれが、ますます強まるのだと思う。
一般市民と話すチャンスも少なくなかった。キエフの近くの炭鉱で働いた後退職して年金生活をしているという初老の人と話したことがある。「労働はきつかっただろう」と聞くと「そりゃきつかったさ。だけどきつい労働に耐えてきたから、他の労働者より早く定年となり、年金生活を始められたんだ。私はこの道を選んだんだ」という返事だった。確か炭鉱夫の場合、四十五歳くらいで労働を終え、年金生活に入れるという。こういうシステムは評価すべきだろう。もっとも青年たちと話していると、オリンピックの選手というのが最高のあこがれの的であり、学者、学校の先生といった職業を望んでいる人たちが多かったが。
案内の人に「普通の市民のアパートを見せてくれ」と注文したが、それは実現しなかった。そのかわりかどうか、党幹部の家に招待されたことがある。じゅうたんを敷きつめ、ピアノもある結構な暮らしだった。これはおそらく党幹部だからだろう。
東欧旅行の帰途、モスクワ郊外でピオニールの少年たちと水泳(前列左端) 夏だったので郊外のモスクワ川で水泳したこともある。モスクワ川といえば、夕方になると川のほとりをアベックが歩き回る。ユーゴでも公園のアベックは良く見た。ユーゴのアベックの方が大っぴらで、人目を気にしないで接吻している。それに比べれは、モスクワでは控え目だった。このあたりも体制の「自由度」を示すものではないかと思うが、どうだろうか。
モスクワから見学旅行コースが二つ用意されていた。一つはレニングラードで、もう一つは黒海沿岸に近いクラスノダールのコルホーズである。私自身農業問題に関心があり、青年団の人たちも同じで、クラスノダールを選んだ。なるほど大規模農業であることは良くわかった。ソ連の中では気候が良く、豊かな地域である。しかも泊まるのはホテルだった。こういうお膳立てされた旅行では、ソ連の実情など何もわからない。
行く先々で歓迎してくれるのはピオニールの子供たちである。揃いの制服に赤いネッカチーフを巻いたりして、実に可愛い。子どもたちが全員加入するというピオニールから、ほぼ全員加入のコムソモール、そして共産党と、ソ連の党組織は一つのライフサイクルになっている。ピオニール、コムソモールの優等生が、党幹部への道を歩むのであろう。一生を支配するともいえる党組織の系列のことを考えると「可愛い」などといってすまされないのかも知れないが。
クラスノダールからモスクワへもどり、モスクワからハバロフスクヘと、帰国の途についた。飛行機でモスクワを夕方出発すると、八時間しか飛ばないのに、時差の関係でハバロフスクに着いたのは翌日の昼前である。午後は市内を案内され、夕方はパーティー、それもウォッカをやたら飲まされる。機内ではほとんど寝ていなかったから、このウォッカ攻めにはまいった。
ハバロフスクで一泊し、夜行でナホトカヘ向かった。朝になると、周周の景色が一変し、日本とほぼ同じになっていた。長野県あたりを汽車で走っているのと似ており、周囲の山には緑の木が茂っている。長い間、ヨーロッパの景観ばかりだったので、「ああ日本は近いな」と思ったものだ。
ナホトカでは出国手続きでトラブルがあった。ポーランドからソ連へ入国したときの手続きを他人まかせでやってもらった。ソ連ではこのとき、どこから入国したか、どこへ出国するかを書かせるらしい。私はポーランドから入国し、ポーランドヘ出国することになっていた。係員がこういう事情を説明し「あなたはダメですよ」という。一瞬「ソ連のことだから、ポーランドまで戻されるかな」と思った。しかしモスクワへ電話したりして、ようやくOKとなった。いかに形式的手続きがうるさいといっても、文無しの旅行者をナホトカからポーランド国境まで、ソ連政府の負担で連れていくことまではしないだろう。いっそ、日本に強制送還した方が安上がりだ。私はたかをくくっていた。
ナホトカから船で出発、横浜へ着いたのは八月下旬だった。ドルが少し残っていたと思うが、日曜で両替えもできず、家までの電車賃さえない。ソ連で一緒に行動していた日青協の人たちが「一緒に行きましょう」と都内まで送ってくれ、電車賃までめぐんでもらって、ようやく荻窪の家にたどり着いた。旅行中の費用は各国の団体のお世話になっていたわけだが、日本に帰ってまで人のお世話になる貧乏旅行だった。
日本では車は多いし、人も多い。空気も汚ない。懐しいというよりも「ああまたここで暮らさなければならないのか」とがっかりした。旅行中はまったく拘束されず、勝手気ままに過ごしていたが「人間関係がネチネチして、難しいんだったな」などと、心を引き締めたりもした。
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