第八章 裁判官の姿勢 目次前へ次「あてにならない認識や記憶」

  被害者の立場で

 四十八年四月から少年事件とあわせて刑事の単独事件を担当することになった。その後一年三ヵ月が、私の短い刑事裁判歴である。刑事裁判ではまず被告人が本当にその犯罪を犯しているのかどうかを判断しなければならない。日本では検察官の判断が慎重であるから、起訴する事件はほとんど有罪だ。しかし裁判官としてはどの事件でも「これは無罪ではないか」という目で見てチェックするのが、基本的な作業だ。残念ながら私が扱った刑事事件で無罪はなかった。起訴された事実について、それ以前に一回刑の言い渡しを受けているため、免訴とした珍しいケースが一度あっただけである。

 このチェック作業が終われば、被告人に言い渡すべき刑の重さをどの程度にするかという量刑の問題がある。少年事件では本人の立直りのために何が必要かを考えたが、刑事事件では犯罪の内容からみて、どの程度の刑が社会的に妥当なのかを判断することになる。刑の重さとともに、執行猶予をつけるかどうかも、重要なことだ。刑を直ちに執行せず、本人が自力で更生し、正常な生活を営むことを期待した方が良いかどうかを判断するのである。刑法学では、応報刑か教育刑か、根本的なところで対立があるが、現実にはこの二つの考え方について、うまくバランスを取っていくしかない。

 刑事裁判の現状で私が問題だと思うのは、被害者がその犯罪によっていかに苦しんだかが法廷に十分現われないことである。検察官は起訴した事件について有罪判決を得れば、それで一応の職責は果たせる。求刑のある割合の刑が言い渡されれば、それで満足する。忙しいせいもあって犯罪に対する個人的、社会的怒りとか憎しみとかを、生き生きとした形で立証していくことに力を注がない。その逆に弁護士は被告人について、いかに気の毒な事情にあるか、いかに可哀そうな境遇にあるかを一生懸命立証する。法廷をそのまま見ているとどうしても被告人サイドの見方に傾きがちになる。世の中の被告人はすべてあわれな善男善女になってしまう。それも一つの立場だが、刑事司法がそれですむだろうか。私は量刑を決めるときには、被害者の苦しみ腹立ちの気持を想定し、その気持を忘れないように気をつけることにしていた。

 有罪か無罪かを決めるときには、捜査から起訴に至るまで警察、検察が圧倒的なカを持つから、被告人の立場に立つ。しかし、量刑では被害者の立場も十分考慮するわけだ。そのため刑の重い、タカ派の裁判官といわれたりした。

 裁判官によっては、自ら裁くという意欲を失い、常に求刑の七〇%程度といった刑を言い渡して処理している場合もある。私はこれはもはや裁判ではないと思う。大げさにいえば、裁判官は一件一件について自分自身の生存をかけて判断しなければならないのだ。検察官の意見といつも同じで、求刑を水で薄めたような判決ばかりというわけには行かない。私は量刑では、求刑の半分に減らす場合もあり、ほぼ求刑どおりという場合もあった。事件により、被告人によりそれぞれ個性があるからそれに従って判断したのだが、誰からも「不安定な判決」というような批判は受けなかった。

 暴力団については厳しい目を持っていかなければならないと思った。暴力団の組員の傷害事件があった。前科はなく、事件そのものもたあいないものだ。法律実務家の「常識」では、初犯なら起訴猶予か罰金程度、二回目は執行猶予付きの懲役刑、三回目で初めて実刑ということになる。この常識に従うなら、この事件はせいぜい罰金程度で懲役にしても執行猶予付きだっただろう。しかし、被告人の年齢、組員としての経歴などから、前科がないということは暴力団の中枢幹部であることを示しているともいえる。傷害事件の背景をみると、単純に見すごすことはできない。求刑の半分ではあったが、実刑とした。

 判決言渡し後、法服を脱いで廊下を歩いていると、被告人と弁護人とが連れだって歩いているのとすれ違った。何の気なしに会話を耳にはさんだが、弁護士がおどおどして「どうしましょうか。早速控訴の手続き取りましょうか」と被告人に平身低頭しておうかがいを立てている。被告人は平然と「そうねえ。控訴ねえ」などと応じている。こういう弁護士は社会正義実現のためにいかなる役割を果たしているのだろうか。結局、被告人の方が良識があったのだろうか、控訴はせずに実刑判決はそのまま確定した。彼は弁護士の追従にのらず、あえて刑務所へ行った。

 赤軍派の事件もあった。すでに他の事件で服役中であり、早く裁判を終わって刑の執行を受け、服役も終わりたいとの希望だった。判決の内容は実刑以外にないという性格だった。私は若干口はばったいが以下のような説諭をした。

 一般には身柄を拘束されている状態は不自由であるといわれ、拘束されていない状態を自由という。それは否定しないが、もう少しレベルの違った考え方もありえよう。身柄拘束による人身の不自由に反比例して、精神の自由が増すと考えられないだろうか。拘束されていない状態では、社会の中で生きていかねはならず、一定の制約、緊張関係が常にあるわけだ。拘束されている場合は生活の隅々まで決まっている。それは全面的に従わなければいけないものであって、それと自分との緊張関係など存在の意味がない。諸規則、タイム・スケジュールにさえ従えば、精神的に完全な自由が確保できる。今後送る服役生活をそういう視点でとらえ、人生のこと、社会のことなど、じっくり考えてほしい ――

 というような内容だ。被告人や同調者がどんなふうに聞いてくれたかわからないが。

 業務上過失致死傷事件として起訴される交通事故の裁判も多かった。日本の道路交通についてはいろんなことがいえる。自動車メーカーについては、ほとんどの道路が六十キロ以下に制限されているのに百キロ以上、百五十キロもスピードが出る車を作っている。七五〇ccものオートバイをいくらでも作って、子どもにまで売りつける。ひんぴんとモデルチェンジして購買欲をそそる。こういう売らんかなの商業主義丸出しの姿勢が、車に取りつかれたような若者を作り出し事故多発の原因になっているのではなかろうか。さらにまた道路事情を劣悪なまま放置している道路行政はこのままで良いのか。標識は今のままで良いのか、横断歩道の設置状況はこれで良いのか等々。こういう主張、疑問をすべて認めた上でなおかつ、運転手一人一人が交通道徳をきちんと守ることが必要だと私は思っている。これはどんなに強調しても強調し過ぎることはない。酒酔いの事故や横断歩道上の事故については、かなり厳しい量刑をした。

 刑事裁判ではいろいろな人生模様が現れる。極めて人柄高潔で立派な人を裁かなければならない場合もある。大きな交通事故を起こしたのだが、以前から熱心なクリスチャンであり、事故後の悔い改めようも尋常でない被告人がいた。もちろん裁判官である私自身も含めて、法廷にいる誰よりも、被告人は人格前潔で品行方正、生活態度は立派だっただろう。しかし事件の重大性のため、実刑にせざるをえなかった。

 裁判が権力作用であることは、刑事事件で最も端的に示される。裁判官自身も、自分が権力を行使していることを忘れてはならないだろう。そういう冷徹な意思がなく、被告人のため、弱者のためといった社会福祉的な気持で裁判をするのでは偽善、欺瞞の裁判になってしまうと、いつも思っていた。良い意味でも、悪い意味でも「権力を行使している」という自己認識は絶対に必要なのだ。

 千葉ではその後、木更津支部を含めて、民事単独事件の担当となった。五十年四月には横浜地裁に転勤したが、横浜でも民事を担当した。私の裁判官歴では民事事件の担当が圧倒的に長いわけで、私自身民事事件は非常に面白いと思っている。

 民事事件というのは私人間の紛争で、それを法律を用いて解決するのが裁判所の役割である。通常は一つ一つの紛争が公的性格を帯びることはない。私的紛争についてなぜ国家機関が裁くかということについてはいろいろの考え方があるが、紛争があることそれ自体が社会、国家にとってマイナスであるから、国家機関が解決に乗り出すというのが最大の理由だろう。つまり解決の内容ではなく、解決すること自体が裁判の目的なのだ。

 もともと紛争自体が私的なのだから、あえて国家が権力を発動し裁判で解決しなくても、当事者同士で解決がつけはそれで良い。紛争の実態から見ても、判決によって解決するというのは極めて拙劣なやり方だ。民事の紛争は、大部分が、法律的にどちらが正しいか黒白がはっきりしないために起こる。判決による解決は、紛争の実態としては黒白を明確にし難いのに、無理に黒白をつけることになるのだ。

 訴えが起こされた後、双方の話を聞けば、誤解もあれば、認識の相違もある。ちょっと見方を変えれば、相手の主張にも一理あるということがわかる。そういう場合には、双方が誤解をとき利害を調整し、妥協しあって解決の方向を探ることが可能だ。こういう双方の努力がないまま、法律の枠内に押し込めて判決の形をとると、どうしても後にしこりが残ってしまう。そういう理由で私は和解を非常に重視した。

 こういう考え方に対し、国民の権利主張、権利意識の発達を阻害するとの批判がある。私も権利意識が重要であること、今の日本でさらに高めていく必要があることを強調する点で、他の法律家にひけを取らないつもりだ。しかし権利意識の主張と、私人相互間の紛争を互譲で解決することは次元が違う問題で、両立しうる。自分の権利をあくまで主張することは、相手の権利主張もあくまで認めることであり、通常民事事件では双方とも権利の主張をある程度しうるケースが法廷に持ち出される。和解が権利意識を侵害しているというのは、自分の権利主張のみが正しく相手の権利主張は理由がないとあらかじめ決めつけることではないだろうか。もちろん、そのように決めつけうる場合には、権利者に譲歩を強制してはならない。


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