第一章 生い立ち/引揚げ一家 目次前へ次「ボロ屋でターザンごっこ」

 引揚げ一家

 私が生まれたのは昭和16年5月22日、現在の地名でいえば岡山市長岡である。

 父江田三郎と母光子が結婚したのは昭和10年4月1日で、祝賀会を5月1日に開いたところ、メーデーの行進で新郎が検挙され、会が遅れるという時代だった。父は昭和12年、県会議員に当選したが、13年2月1日に人民戦線派事件に関係しているとして逮捕された。警察でのタライ回し、未決拘留が長引いた後、2年8月の懲役刑を言い渡され、出獄したのは昭和15年9月4日だった。

 生活に困った父は神戸に移り住んで葬儀屋を始める。私の生まれた時も神戸で暮らしており、母は出産のため岡山に帰っていたわけだ。

 夫婦揃って暮らせるようになった直後に長男が誕生したことを、父はたいへん喜んでくれたようだ。しかも五月は、社会主義者にとって特別な意味をもつメーデーの月だ。父は「五月に生まれたので五月(さつき)と命名したところ、大阪の椿繁夫(元国会議員)から、おめでたいことだが、いったい男なのか女なのかと問い合わせてきた。僕は五月は男の月、メーデーの月、男に決まっているではないかと返事を出した」(日本経済新聞社「私の履歴書」)と書いている。

 葬儀屋もうまく行かなかった。社会主義者は次々と南方の死地に送られていた。父は生きのびるため、昭和18年秋、北京へ向かう。当時北京の日本大使館建設課長の深谷克海氏が呼んでくれたのがきっかけだ。

 日本軍が中国の農民からソッポを向かれている状況を改善するため、農民運動の経験のある父を呼んだのだという。この深谷氏が私の妻、京子の父である。

 母も私を連れて追いかけるように北京へ向かい、中国での暮らしとなる。私自身、神戸時代のことは何も知らない。中国では二、三ヶ所転居したようだが、覚えているのは、庭に草が生えていて、大きなバッタが跳んでいたこと、ニワトリを飼っていたが、イタチに食べられてしまったこと、二本に分かれているダイコンを珍らしいと思ったこと、母が家でヨウカンのような菓子を作っていたこと……など断片的なことばかりだ。

 家の近くを一群の軍隊が行進していたこともあった。また父がムチでたたかれたらしく、背中に真っ赤なミミズばれを作って帰って来たこともある。この加害者は、中国の八路軍だったろうか、それとも日本軍だったのだろうか。八路軍について、父は後年、よく思い出話をして誉めるのが常だった。父が八路軍の依頼で利水事業に協力するため、八路地区に向う途中、地雷が仕掛けてあり、便衣隊が襲って来た。すぐ捕まり、万年筆や時計を取られてしまった。帰ってから抗議すると「統制のきかない土民軍だから許してほしい」と謝罪し、品物も三、四ヶ月後に全部返って来たというのだ。「戦争中でも折り目正しい八路軍に、略奪ばかり繰り返した日本軍が勝てるはずがない」というのが、父の結論だった。

 終戦の時は満四歳、何も記憶にない。家族で渡っていた日本人は帰国が遅れ、しかも十一月には弟の拓也が生まれた。天津から上陸用船艇母艦で佐世保沖に着き、小舟で日本に上陸したのは二十一年四月のことだ。柳行李一つに、リュックサック二個、佐世保で渡された新円千円だけが、一家四人の全財産となってしまっていた。

 母はよく「本を沢山集めていたのに、全部棄ててしまった」と口惜しがっていた。父の方は「物を大切に持っていてもしようがない」と思ったらしく、その後は何でも気前よく人に与えてしまう癖がついてしまった。

母光子に抱かれて(満9ヶ月) 引揚げの時、私はリュックの一つでも背負っていたのだろうか。母は拓也につきっきりであったろう。船底のような所に、人がたくさん詰め込まれていたことをおぼえている。私は船内で熱を出してしまったという。伝染病予防がやかましかった時代で、病気の乗客は上陸許可に手間取る。私の発熱を隠すのに、一苦労したらしい。

 私の戦争体験というのは、その程度のものだ。両親はもちろん、近い親戚では、戦争で死傷した人を知らない。戦後、従姉が疫痢で死んだ程度である。もの心ついていろんなことがわかるのは、戦後になってであり、ことさら強く戦争を意識することはなかった。


第一章 生い立ち/引揚げ一家 目次前へ次「ボロ屋でターザンごっこ」