永年勤続表彰の謝辞
ただいま、本院議員として在職二十五年に当たり、院議をもって永年在職の表彰をいただきました。まことに光栄の至り、感激の極みであります。ここに謹んで、遥かふるさとの皆様ならびに陰に陽に私を支えてきていただきましたたくさんの方々に対し、心から深く、厚く御礼を申し上げたいと存じます。
なお、高いところから、個人ごとではございますが、皆さん方のお許しを得まして、過ぐる三年前に黄泉のかなたに旅立ちをいたしました亡き妻に対し、本日のこの晴れ姿の喜びを分かち合いたいと存じます。
私は、九州博多の古い呉服商、老舗でございますが、「紙弥」の次男坊として生まれました。
私の学びました中学校は、福岡県立修猷館という黒田藩につながる歴史と伝統を持った由緒ある学校でありましたが、皆さん方にとっても先輩議員であります、あの戦争中、東条軍閥に抗して自刃した中野正剛、「落日燃ゆ」の悲劇の宰相廣田弘毅、爛頭の急務と叫んで総理・総裁の座につく寸前に惜しくも倒れました当時の自由党副総裁緒方竹虎、日本社会党創設の重鎮三輪壽壯、これすべて我が修猷館の私の先輩であります。
楢崎弥之助、とてもこれら大先輩の足元にも及ぶべくもございませんが、ただ一つ、その反骨の精神、反権力の気風だけは学び取ってきたつもりであります。そして、義理と人情に厚い九州男児の情熱と純粋さだけは失わないように自らを厳しく律してまいりました。
昭和二十年十一月二日、あの敗戦の瓦れきの中に日比谷公会堂で産声を上げました日本社会党の結党に参加して、政治運動に身を投じて以来、今日まで四十三年。その間、昭和三十五年秋には、浅沼稲次郎社会党委員長のかばねを乗り越えて初めて本院に議席を得ましてからも二十五年がたちました。今思えば、はるばる遠くへ来たものだという感慨で胸がいっぱいであります。
およそ世の中の常識と隔絶されたこの赤じゅうたんの世界の中で、私はいたずらに試行錯誤の年輪を重ね、悔い多き風雪の日々を送ってまいりました。もしこの四半世紀の間におまえは一体何を得たかと問われるならば、私は、何のためらいもなく即座に、それは人の心でありました、そして党派を超えてよき先輩、すばらしい仲間にめぐり会えたことだと答えるでありましょう。
風誘うままに花落ち、雲流れるままに人は去る。たくさんのすばらしい出会いがありました。そして悲しい別れもありました。これから先、もし楢崎弥之助自らの生きる証を求めるものがあるとするならば、それは日本の政治と議会制民主主義活性化のために、自民党一党支配にかわり得る新しい政治勢力をつくる以外にないと深く心に刻んでおります。
かの動乱の幕末期に、薩長土肥四藩の連合を果たし、維新の夜明けに身を投じましたあの土佐藩下級武士坂本竜馬の生きざまに、今私は限りない政治へのロマンをかき立て、この命生きる限りおのれの務めを最後まで果たす存念でございます。
どうぞこれからも皆さん方の御指導をよろしくお願い申し上げ、謝辞にかえたいと存じます。きょうはまことにありがとうございました。 |