1981/03/15 社民連十年史/明日の連合にむかって |
夢が決意を生み、行動を起こし、そして大河の流れをつくりだす
江田三郎を偲びつつ、佐々木良作・矢野絢也、新しい“連合論”を語る
昨年の同時選挙以降、連合は“冬の時代”に入ったといわれている。政権交代の可能性も遠のいた。果たして、八〇年代を通じてこのトレンドが続くのだろうか。傍観と諦めの支配しがちな野党になにかが欠けてはいないか。政治が生きものであるかぎり、あらゆる可能性を追求する人間のひたむきな情熱が、新しいドラマをつくりださないはずはない。
“江田三郎氏の蒔いた種子は実るか”――生前からの盟友、佐々木民社党委員長と矢野公明党書記長に縦横に論じていただいた。司会は岐阜経済大学教授・佐藤昇氏。
佐藤 亡くなった江田三郎さんが、社会党を離党されたのが四年前の三月二十六日でした。そして社民連ができてから今年で三年ということになります。
今日は、志なかばにして他界された江田さんを偲んで、生前の江田さんと“トリオ”を組んで活躍されたお二人にお話を伺いたいと思います。話題は大きく二つに分けたいと思います。最初、連合問題の第一ラウンドをふりかえってみて、そこでの反省とか感想、評価といったことをお伺いしたい。
佐々木 ふり返ってみると、第一ラウンドというのは約十年間ですね。相当に長かった。
十年間を顧みての反省なんですが、部分的努力の積み重ねをしてゆけば、やがて“統一”なり“連合”が実現するという方法が果して正しいのか、ということです。選挙やその他の課題で、共同闘争を積み重ね、その実績の上に統一を、というのが当時の共通の認識だったんです。だが、この努力だけでは統一への気運はでてこなかった、と私はみています。
社会党改革を通じての連合を模索
最初、私たちが江田さんと話し合ったのは、中道の結集ということではなく、社会党をなんとかしようということだったんです。
民社党の西村委員長の提案(1970年し8月15日、72年までに社公民三党を統一した“民主的革新政党”で政権を、と提案した)を受けて、江田さんとお二人の活躍が始まり、「新しい日本を考える会」がつくられ、やがて江田さんの離党、社市連結成へと進み、社会党の小分裂、社民連の結成へとつづいたわけです。
一方、連合の方は、公民政権構想、社公政権構想ができ、連合の気運を盛り上げましたが、昨年のダブル選挙で野党が全体として敗北し、連合も挫折した。
江田さん自身は、社会党改革論者で、新党樹立論者ではなかった。私たちは、この江田さんの社会党改革を助太刀しようという気持ちだった。江田さんを助け、社会党の改革を進めるためにとられた方法が共同闘争の積み重ね方式だった。この方式は遂に成果を上げえず、社会党はどうしようもない状態にズルズルとはまりこんでいったんです。
むしろ、その後、中道に位置する民社、公明党間での協力では成果をあげてきたと思う。この点が重要だと思うんです。
佐藤 それにしても江田、佐々木、矢野という組み合わせができたのは……。
佐々木 なによりも江田さんのもっていた“人間的な社会主義観”が魅力を感じさせたんです。
矢野 いまの野党を見渡して、政権をいざ取るというとき、総理大臣候補としては、最も適任者といえる、そんな際立った個性をもった人だったと思います。逆にいうと、だから社会党にはいられなかった。組織内部にばかり目をむけるんじゃなく、国民全体に目をむけ、市民の潜在的な力を信ずることができる人は少ない。
あの方は、構造改革論とか、社会党の改革とか、そして最後に離党という、できそうもないようなことを一生懸命にやってこられた。
社会主義なり、日本の野党のもっている矛盾、ジレンマを江田さん自身が体現していたともいえる。それだから、離党から、病死という劇的な過程は、国民に大きな共感を与えた。
矛盾をかくすことなく、そのまま受けとめ、体現していたということが、正直な政治家と見られ、国民的人気の元になっていたと思うんです。
社会党は、こういうスケールの大きい江田さんを受け入れなかった。最近は、社会党が江田さんのいっていたような方向に少しずつ変わり始めたようですし、また変わらなくては時代遅れになるでしょう。
理想を失ってはならない政治
佐藤 社会党も以前に比べたら確かに変わってきました。いまぐらいの状況なら江田さんも離党しなくてもよかったと……(笑)。
佐々木 ちょっといいにくいんですが、いまの矢野さんの意見と少し違う。いまのように社会党が変われば、江田さんが離党する必要がなかったというんじゃない。
江田さんにわれわれが魅力を感じたのは、社会党が、現実路線に行くことではなくて、むしろ、人間的な社会改革の夢を追いつづけたところなんです。
いま社会党は、確かに、一方に教条主義があり、他方に民社党的現実主義があり、後者の方に変わりつつある。これ自体は悪いことではない。しかし、現実主義になることと、将来に魅力ある集団に変わるということは別です。
江田さんのもっていた最大の特徴は、現実主義にあったのではなく、教条的ではない、いかにも人間的理想社会を考えようという姿勢にあった。だから、社会党は、現実主義に変わろうとするとき、下手をすると大変なことになる。
私自身のいうことも矛盾しているんですが、江田さんの志を継ごうというのなら、民社党的現実路線にのみなろうとするのでは少し違うんじゃないか、と感じます。
佐藤 おっしゃる通り、政治の基底には理想がなくてはならないと思います。この点からみて、いまの民社党の路線、あり方は、民主社会主義の理念を体現しているんでしょうか。
佐々木 いま考えている民主社会主義というのは、現実主義的路線だけではなくて、未来に理想社会を実現してゆくという夢をもたなくてはならないし、私はもちつづけたい。
佐藤 いまの民社党のイメージには、どうも佐々木さんのおっしゃっていることが、通ってないように見うけますが。
佐々木 通っていないと思いますよ。いまの民社党は社会党的なものではないという「否定」の方が中心なんですね。こちらの方はある程度成功したと思うんですが、もう一つの方が……。私はその点で責任を感じているんです。
矢野 西ドイツの社民党のブラントは、大胆な転換をして大連合を組み、政権をとり、政権党として初めて、佐々木さんの言われるような社民的な社会実現に向うことができた。そういう考え方が民社党のなかにはあるんじゃないでしょうか。だから佐々木さんも、社会民主主義という大きな将来展望をもちながら、それに至る道程として政権に積極的意欲を示していると思うんです。
まだできていない政治の未来像
佐々木 援護射撃はありがたいんですが、もう少しはっきりさせておきたいことがあります。
社会党の観念的で架空な改革路線を、現実路線で変えてゆかなくちゃならない。ところがそれを進めてゆくと、その反動として現実主義にだんだんのめり込んでしまう。現在、党に余裕がないために、現実にはまり込んでしまって、本来つくらなくてはならない未来像がまだつくられていない。
佐藤 西ドイツ社民党が政権について着手した外交政策は、東方政策ですね。あれがデタントの基礎を築いた。日本的な東方政策ですね。
佐々木 まさにその点を私は強調したいんです。今度の党大会でも“平和戦略”をうんと拡大し、強調した挨拶をしたんです。ところが日本的政治土壌、マスコミも含めてですが、どうもそれをわかってくれない。
佐藤 第一ラウンドで挫折に終わった問題点は何だったのですか。
矢野 この十年間をふりかえってみると二つの考え方の間をさ迷ってきた感じです。
社公民的な幅の広い、数の多い方向を目指すか、それともそれは時間がかかるから、できるところから手っ取り早くやろうか、という二つの考え方ですね。
結果からいうと、社公民路線は、江田さんの離党、社民連の結成ということで、大きな路線という点からいうと十分じゃなかった。じやあ、できるところからやるという立場に徹しきれたか、というとこれもできなかった。
佐々木さんは、明確な論理をお持ちだったんでしょうが、私の場合は、二つの考えの間をうろうろ迷いつづけてきた感じです。この問題はそろそろ決着をつけなくては、と思っています。
佐々木 さきほどもいいましたが、社会党改革論という点から総括すれば、失敗に終わったといえます。
パートナーとしてまだ棄て切れない
矢野 佐々木さんは社会党におられただけに、その体質を知っており、いわば卒業されている。僕らはなかなかそういう立場に立てないところがある。社会党というと、学生時代のイメージがあって、よくわからないところがあったが、なんとなくいい雰囲気があった。
それともう一つ、政界再編というとき、同盟と創価学会が支持してくれるような雰囲気がなくては因る。そうするとなるべく横の広がりのあるものを求めるということになります。
江田さんが離党されたとき、爆発的ブームが起きたし、これを起爆剤にして、次の展望をたてようと思いました。不幸なことに江田さんが急死なすって、その望みも絶たれました。
そのとき以来、私は個人と個人のつながりでは弱い、機関と機関で関係をつけなくてはまずいと反省し、公民協定、社公協定という形で合意をとりつける努力をした。
もちろん不完全なものではあったが、少なくとも江田さんが党大会でぼろくそにやっつけられた当時の社会党にはありうべからざる協定だったと思います。多少自己弁解になるかもしれないが、私はそうみています。
しかし選挙の結果、国民はノーと答えたわけです。ただ、社会党もいろいろ回り道をしてきたが、そろそろ決算期にきているんじゃないか、と考えてもみる。ちょっと甘いかもしれませんが。
佐々木 「考える会」をなぜつくったかというと、当時、江田さんの党内改革は非常に困難になってきて、第三の道を考えざるをえなかったからです。江田さんが党内でヘゲモニーを握り、それを紬にして改革を進める、つまりフランス社会党のミッテランのような道が望めなくなった。
そして、その延長線上に江田離党となったんですから、社会党改革路線では駄目であることが立証されたのが、第二ラウンドの結論だと思うんです。
矢野 そこには、総評が、社会党をじっとにらんでいたという事情もあったと思うんです。当時は、東京にでてくると政界再編派になるが、地方へ行くと協会派というような人があの党には多かった。労組のプレッシャーは相当にきつかったと思いますよ。
無風、無気力のなかに新風を起こしたい
佐藤 第一ラウンドはこのくらいにして、次へ進めさせていただきます。
今度の大会で、佐々木さんが、新しい提案をなさったとき、マスコミなどは、佐々木さんは少し焦っているんじゃないかとの声も聞かれました。その辺の真意を……。
佐々木 私は事実焦っていると思います。焦りの最大の原因は、政党、政治家をみている限り、そこからはなにもでてこない。それは社会党が変わらないだけではなく、民社党も内部をみている限り、なかなか変化は生じない。
しかし、十年前といまを比較した場合、非常に大きな変化は国民の側に起こっている。これからはそっちへ向かってものをいわなくてはいけない、それが一番可能性を追求する方法だと思う。政党は遅れすぎている、だから焦るのは当たり前という感じです。
それから、あれだけ具体的に問題提起をしたことはまだ一度もないんです。
基本的には二つの条件、一つは勢力結集問題と、もう一つは政権党として取るべき基本的政策路線を出しています。
第一の点では“政権交代の一翼を担うだけである”という限定的規定です。したがって、始めから複数政党が前提であり、政権交代を前提にしています。
民主主義ルールの根本である“民主主義政治とは国民の側に政権選択の自由を確保することである”という前提にたって、政権交代の一翼を形成する、したがって議会制民主主義者集団の勢力結集でなくてはならない。その点を強調しました。これまでは常に“反自民勢力集まれ”というスローガンであるために、レーニン主義的統一戦線論と区分がつかなかった。
もう一つの問題は、政策的問題ですが、いま選挙のたびにだされる選挙政策などは、各党ともほとんど変わらない。重要なのは自民党と政権交代をするときに必要とされる基本的政策です。
それは、一つは平和と安全保障の問題、それから経済運営の基本路線の問題、第三にわれわれが強調しなくてはならない福祉社会像の問題、この三つに限定してよい。そのかわり、三つの基本政策を明示しなくてはならないと思うんです。
佐藤 佐々木提案では、連合だけじゃなく新党をつくる構造があるんですが……。
そろそろ決断のタイムリミット
矢野 さし当たりは党の主体性強化というところです。弱いもの同士集まるという再編では意味がないんで、お互いに足腰をきたえた上で連合を考えてゆくのは前提だと思います。
昨年のブリッジ政権構想は未完成ではあったが、従来、バラバラだった野党が重要政策について一定の合意ができた。
社会党についていえば、共産党との長年にわたる関係が切れたわけですからかなりの前進だ、という評価もできると思う。この方向への模索をあながち捨てる、という決断はまだしていません。しかし、同じことを二度繰り返すつもりもありませんね。
江田さんのもっておられた抱負は、なんとか実現しなくてはならないと思い、責任を感じています。こんなことをいうと怒られるけど、佐々木さんまで第二の江田さんにしてしまうわけにはゆかない。ご存命中になんとかしなくちゃと思います(笑)。その意味では私も焦っています。
佐々木 ご存命中に頼むよ(笑)。
佐藤 最近、自民圧勝後、各野党は再び足腰論に埋没してしまっているなかで、あえて佐々木さんは新しい提案をだされました。しかし、また防衛問題で右よりになる、との印象を与えがちですが……。
民社党の防衛論は唐突か
佐々木 まさに両刃の剣のような矛盾だと思います。連合をつくる場合、なるべく摩擦の起きないような政策でまとめておけばよいという面があります。ところがそれではどうもあいまいでわけがわからない、国民に対するイメージも定まらない。
民社党の場合、防衛問題では憂国の士がいるんです。彼らは、自民党が防衛問題で重要と思われることを避けてしまって、いつの間にか社会党と取り引きしているというやり方に腹をたてている。どうも憂国の士の気持ちが、かなりきつい言葉となってでるから、そういう印象をどうしても……。
“防衛大綱見直し” のときもそうです。まず言葉としてこれを使ってしまった、その直後に理屈を私が考えたんです。
“大綱”は、独立国としての格好を備えたバランスをとった自衛力をもつということですから、それには上限がなくなってくる。この方が危険であって、この論法でゆけば、ソ連に脅威を感じたらこれと似たような装備をもたなくてはというところまでいきかねない。
大綱はこういう危険な側面があるので、もう少しバランスをとるようなことが必要で、私たちは“陸上自衛隊は本当に必要か”という議論もしているんです。ところが“見直し論”は、自衛隊拡大論として自民党タカ派に利用されてしまったんです。
国民に不安を与えない政権交代の道
矢野 細かなことに、いちいち理屈をつけなくてもいいんじゃないかと思いますね。
政権交代に対する、国民の不安感を解消するための努力をすることはきわめて大切です。しかし、どんなに接近しているようにみえても、将来展望としては違いがある、こちらの方が社会はよくなるということがはっきりしていればよいと思うんです。ただ、政権をとるということと切り離して議論すると、誤解される恐れはあります。
佐藤 非武装・中立のようなものでは政権政党にはなれない、ということは徹底的に明確にしなくてはならない、しかし、民社党の場合、少し唐突すぎる……。
矢野 佐々木さんには野党の虚構性に対する怨念に近い挑戦精神があります。それは異常なほどですね。
社会党の方には、民社党の右寄り傾向についていけないという人がいますが、そんなことばかりいってこの十年無駄骨を折ったんじゃないかという感じもする。
そんなことをいうのなら、なんらかの行動を起こしてから、民社党を引き戻しなさい、といいたい気持ちもあります。“わしらが行動を起こすに当たって、民社党のやっていることは邪魔になる”というんならわかる。
限られた時間のなかでの連合構築
佐々木 私は新提案をするに当たって、時間的な展望は、八〇年代中期と説明しておきました。
その意味は、政権へのアプローチを中期とすると、八三年の総選挙にはおよその輪郭を示し、ある程度の勢力結集ができているという状況にもっていきたい。八三年にそういうレベルにもってゆくには、あと二年しかありません。
今期の通常国会から来年の予算編成期に、鈴木内閣は内圧、外圧をうけ最大のピンチに見舞われると判断される。この時期に外野席からワイワイいっているだけじゃなくて、政府が増税など強行するなら、自民党政権にかわるものが芽生えつつあるぞ、というものをつくってゆかなくてはならないと思います。
この意味で、今年はとても重要な年で、無為に過ごすとタイミングを失する。
それから、矢野さんのご指摘のように二つの方法があると思う。つまり、新党方式と連合方式ですね。二つあってよい。
ただ新党ということは、各自の党の自己否定ですから、よほど熟さなければ、各党とも大混乱になるだろう。
佐藤 第二の江田さんになってしまう。
佐々木 どっちかに、いまから割り切る必要はないと思うんです。
主体一性強化輪だけでは生まれない
矢野 次の社会党大会が一つのタイムリミットだと思います。社公政権合意以来の関係がありますから、いますぐ止めてしまうということはしませんが、大会の動向いかんではある決断をせざるをえませんね。いたずらに決着を延ばそうとは思っていません。
佐藤 この点は社会党の出方いかんですね。
佐々木 主体牲強化論を一概に否定するつもりはないんですが、戦後の歴史をふりかえってみると、各党ともそれを強調しつづけてきた。ところが主体性がある程度強化されたとき、その上に新しい展望をだした政党はいなかった。ある程度大きくなるとその上にあぐらをかく、小さくなるとまた主体性強化論です。
同時にいまの社会党をみてつらいのは、この党に露頭がないということです。江田さんが生きていた時代は、あの人となら腹を割って話し合えた。いまは全くバラバラで、一人ずつですね。このような状態では、タイム・テーブルをつくるのに、この党との関係を中心に方向設定はできないんですね。
佐藤 本日は、ご多忙のなかを長時間ありがとうどざいました。(1981年3月15日)