1980年 ’80参議院選挙〜ダブル選挙

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選挙総括(案)

一、「選挙戦の全体状況

(1) 衆・参ダブル選挙という異例の選挙戦は、連合時代の幕明けが期待されたにもかかわらず、自民党の圧勝に終わった。

 自民党は衆議院で二八四議席、参議院で六九議席(非改選六六)を獲得し、安定多数を確保した。得票率においても衆議院選挙で四七・九%(前回四四・六%)へと上昇させ、その圧勝を裏付けている。

 他方、野党側は、社会党が衆院でこそ議席数の現状維持を保ったが参議院で五議席を失い(全国一、地方区四)、長期低落傾向は依然つづいている。公明党は衆院で二四議席(得票率で〇・八%)を失い、参院地方区で二議席を減じ惨敗した。

 民社党は衆院で三議席(得票率で〇・二%を失い、参議院では議席数が変わらず現状を維持した。共産党は衆院で一〇議席(〇・六%)を失い、参院でも三議席(地方区一、全国区二)を減じて惨敗した。

(2) このような自民党の圧勝をもたらした原因はなにか。

 まず第一に、今回の選挙が異常事態の連続であり、このことが有権者の高い投票率を誘い出し(七四・五%)、保守的浮動票を動員する結果となった。

 自民党の内部紛争の結果、大平内閣不信任案が可決され、選挙は一挙衆・参ダブル選挙(しかも同日投票)にセットされるに至った。与党の内紛による不信任案可決も政治の異常さを示して余りあるが、衆議院選挙と参議院選挙を同時に行うことは憲政の常道として暴挙というべきであろう。

 何故なら、両院の同時選挙は、性格の異なる両者を故意に一本化させ、二院制を否定することになりかねないからである。さらに同時選挙は国政に空白を生じさせ、緊急課題を処理しえないという重大な障害を生むからである。

 このような異常事態につけ加えるに大平首相の急死が重なり、大平内閣の信を問うという選挙のターゲットを失い、正常な政権論議や政策論争は後景に退き、“弔い合戦”とか同情という国民の情緒的要素が最大限に動員されるに至った。自民党は意識的に政権問題や次の首班についての議論を避け、有権者の情感へのアピールに終始した。

 他方、野党側は参議院選挙に備えて、社公間政権構想合意、公民間政権構想合意などかつてなく連合政権にむけての話し合いは進んだが、いかんせん、それはほぼ三年後に備えた話し合いのスタートにすぎず、短時日の間に一挙に完了するという情況にはなかった。

 その証拠に社公民間、それにわれわれ社民連の参議院選挙協力はかつてなく進み、大きな期待を抱かせつつあったが、自民党は野党側のこの動向を直視し、衆議院選挙をぶっつけることによって一挙にこの協力関係を崩し、連合時代への接近を食い止めようとはかったことは明らかである。衆議院選挙となれば野党側は政権構想を否応なく迫られるのであり、それなしに選挙戦を闘うことは画竜点描を欠くばかりか、国民に対しても無責任となりかねない。

 だが野党側、とくに社会党にこういう責任感が乏しく、最後まで野党側の責任ある政権構想はまとめえなかった。部分的な努力として、非武装中立を棚上げする態度を表明したり、「緊急・民主主義政府」掲案をしたが、野党党首会談には終始積極的ではなかった。

 公明党は要党として、社会党、民社党の中間にたって両者のまとめ役を演じようと努力はしたが、力不足であり、民社党の終盤における態度硬化によりその努力は遂に実らなかった。

 野党間のこの情況は選挙戦中盤までは国民には不協和音として聞えたが、終盤戦ではむしろ、社会党と民社党との対立、いがみ合いと映ずるに至った。

 われわれはこのような情況を憂慮し、社公民が連合政権構想を一刻も早くまとめること、そのための党首会談の提唱などを連続的に提言した。だが、われわれのこれらの活動も激しさをます社、民間の対立の喧騒にかき消されていった。

 この野党側の不一致は、共産党の手段を選ばない他党攻撃によって騒音を増幅させ、国民にいよいよ不安感を与える要因となった。およそ政権交代を問おうとするならば、来るべき政権構想が国民に不安を抱かせないことは最低限の条件であり、さらにその政権が国民が支持するに足る魅力あるものでなければならないはずである。

 だが情況はこれとは余りにかけ離れたものであったといわなくてはならない。

(3) このような選挙のなかで国民の動向はどうであったか。

 国際的にはイラン・アフガン問題が連続して起こり、オリンピック・ボイコットから韓国における軍事クーデターや、光州事件まで不安をかきたてる事件が続いた。これらの事件を逆手にとってわが国の軍備増強を叫ぶ声も高まった。だが国内的には物価問題も上昇テンポを緩め、一応の安定した情況が保持されていた。

 こうした情勢下では、国民は政治の激変を望まないという心理にとらわれるのは当然である。真に魅力ある政権構想が提出され、安心して政権を任せられる安定したリーダーシップが存在するという条件があればともかく、さもなければ国民は大勢として保守へと回帰するであろうことは予測に難くない。

 政治的関心よりも、前述のような情緒的要因によって動員された浮動層は、こうした社会状況のなかでは、いよいよもって現状維持を選ぶ投票行為に至ったとみるべきであろう。

 こうして投票率の上昇分(前回比六・五%アップ)の大部分を自民党が獲得するという結果を生んだものと思われる。特に高集中地域(首都圏、近畿圏)では、新たに投票に参加した部分の大半を自民党がとり(今回得票率を三・三%アップ)、この地域での公明党の激減をもたらした(『朝日ジャーナル』七月四日号)。新しく投票に参加した浮動票の残りの半分を社会党がとり、からくも現議席維持を果たした。

 こうして浮動票は大きく二つの部分に分けることができる。第一のパターンは本来棄権していたとみられる保守票(大都市の若年層)であり、第二のパターンは革新が魅力ある政策と候補者とを準備すれば潜在的にこれに同調すると思われる部分である。

 同時に、今回の選挙で見られたもう一つの特徴は、既成の野党が次第に支持票を固定化させてきており、党勢を拡大することが困難になってきていることである。

 言いかえるならば、自分の城にたてこもり、浮動票とみられる部分を獲得することが困難になってきていることである。社公民とも同様の傾向を示しており、支持票が固定化してしまっている故に、今回のような高投票率という津波に襲われるや、たちまち“水没落選”に見舞われる結果となるという現象である。伸び悩みの野党だけの選挙協力、連合政権構想だけでは、自民党の単独支配を終わらせることは不可能であり、市民的基盤を拡大できるような野党側の新しい脱皮と自己改革なしには、与野党逆転も望みえないのではないだろうか(高畠通敏氏の指摘「エコノミスト」七月八日号)。

二、社民連の選挙総括

(1) 社民連としては、今回の選挙を連合時代への幕明けとすべき歴史的な意義ある選挙ととらえ、政権交代の可能性を追求すべき闘いと位置づけた。そして、このためにはわれわれ社民連はもとより、社公民各党が統一した連合政権構想で合意し、それを国民に提示し政権交代を最大の争点とさせるべきであるとの判断から積極的提言を行った。

 だがしかし、当初、選挙協力という点では大きな前進がみられたものの、政権構想の次元では、野党間の対立、なかでも社会党、民社党の対立はきびしく、これをまとめるまでには至らなかった。むしろ終盤戦では両党の対立は露骨となり、われわれの努力はみのりえなかった。

(2) 政策的には、国際情勢の緊張が高まり、これをうけて防衛力増強論が台頭してきたが、われわれはこれを批判し、タカ派への傾斜ではなく、ハト派的選択を強調した。われわれは社会党の非武装・中立という観念論ではなく、現実的外交政策の展開によって平和を維持すること、軍備増強ではなく、平和への投資によって経済大国としての責任を果たすべきであるとの立場を貰いた。

 また、金権・汚職政治の根絶、行財政改革の断行、情報公開法の制定などを主な柱として選挙戦に臨んだ。また、他党にはみられない新しい視点として、「リサイクル社会」の創造と「市民の政治参加」を積極的に訴え、八〇年代の新しい政治のあり方を国民に示した。

(3) われわれ社民連は、労組やその他の圧力団体などの組織に乗った旧型選挙は望むべきもなかったし、またそのような利益団体の意のままに政治行動をする既成政党を批判するところから出発している。

 したがって、有権者の良識、市民的感覚に直接に働きかけて既成組織にあきたらない人びと、革新的無党派層の共感を結集する以外にない。この観点から選挙戦の基本は決められた、つまり市民選挙に徹するという選択をしたのであった。

 とはいえ、各種世論調査による社民連の支持率は一%前後であり、これに上積みする票は、選挙期間中の社民連の活動と候補者各自のイメージ、個性の魅力によって補う以外はない。結果的にみて、この選挙戦術は成功したといえよう。

(4) 選挙活動の基本となる法定のポスターチラシ、ハガキはほぼ消化することができたが、それは第一に、各地社民連会員、支持者の努力によるものである。

 だが、率直にいって東京をはじめとする大都市部では、必ずしも自己の組織力量だけで基本活動を達成できなかった。この不足部分はさまざまなグループからなるボランティアの方がたの協力によって達成できたのである。恐らくこのボランティアの協力なしには、全国区秦候補の最後の追い込みも不可能だったと判断される。衆議院選挙でも、東京七区などボランティアの協力は絶大なものであった。

(5) 社民連は今回確認団体とならなかったために、宣伝上の不利、とくにマスコミを通じての宣伝の不利が見通されていた。だがしかし、実際には選挙期間中、マスコミの扱いはほぼ各党並みとなり、社民連の宣伝活動上も候補者の宣伝の上でも、かなり効率のよい活動をすることができた。

 また、新しい試みであるリサイクル・キャラバンのキャンペーンも、マスコミの好意的扱いをうけ、選挙に一つの新風を吹き込んだといえよう。

(6) 以上の諸要素が重ね合わさって、われわれ社民連はからくも生きのぴることができたと同時に、今後の飛躍への橋頭堡を構築することができた。衆議院は三名へと増やし、参議院全国区も五十一位とはいえ当選できた。大組織をもった社会党候補と共産党候補三名を抜いたことは、社民連の必死の活動がせり勝ったことを意味する。

 われわれは組織上、財政上のさまざまな限界をもっていたにもかかわらず、既成政党にあきたらない人びとを動員し、その支持を獲得することに成功した。

 われわれの今回の政治的実験の意味は大きい。野党が次第に一定の枠内で支持層を固定化させてきており、新しい浮動票を集めることができなくなりつつある時、革新の側も真に本格的な自己脱皮をはかり、魅力ある政党をつくってゆくならば、新しい支持層を開拓できることを実証したともいえるからである。

 今回の選挙で、浮動票の大部分(特に大都市)は自民党に流れ、保守の安定支配を許すことになったが、革新側もマンネリと怠惰から抜けでて、本格的な自己改革にとり組むならば、その支持基盤を拡大しうる、その萌芽を社民連は実証することができたのである。

(7) しかし社民連の内部にも今後、克服すべき様々の問題と弱点が、この同時選挙を通じて表面化したことも事実である。それらの問題を前向きに自己総括し、直ちにその解決に取り組むことが何よりもいま必要である。




楢崎弥之助が8回目の当選



菅直人、東京7区のトップでついに初当選。


1980年

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