1980年・1981年

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「新自由クラブ・民主連合」

 ダブル選挙で圧勝した自民党は、新総裁に鈴木善幸という意外な人物を選んだ。「万年総務局長」 の異名を持つ鈴木新総裁は、何よりも党内の「和」を大切にした。が、これは裏から見れば「波風立てない党運営」至上主義ということでもあった。田中・福田・鈴木の主流三派に乗って巧みにバランスをとる姿を、マスコミは「ヤジロベー内閣」と呼んだ。

 ところが、与野党伯仲時代には幾分声を抑えていたタカ派が、自民党が圧勝したとたんに活発に動き出した。「ヤジロベー」は、力の強い声高な勢力の方向へ傾斜する体質を持つ。自民党の右傾化が目立ちはじめた。

 ダブル選挙後、連合論はすっかり影をひそめていた。特に公明党は、選挙中、社会党と民社党とのブリッジ役をつとめた結果、股裂き状態となり、議席を減らしたため、「連合」という言葉はタブーでさえあった。

 そうした中で佐々木民社党委員長は、十月十三日には、公・民・新自ク・社民連の四党首脳会議を開催したり、十二月の公明党大会に出て、「私としては、ガラガラと混ぜて、ポンと新しいものが一本できないか、という気持だ」と、来賓挨拶の中で「連合」 への執念を見せていた。

 一方、新自由クラブも、鈴木政権に対してははっきりと対決姿勢をとった。一九八一年二月の新自由クラブ全国代議員大会で、田川誠一代表は、「自民党の中の軍事大国化の“うねり”に対しては、同じ保守勢力、同じ自由主義勢力である新自由クラブこそが“防波堤”となるべき使命を担わねばならない」と発言している。宇都宮徳馬選挙を社民連と共同で戦って以来、新自クの“軍縮・平和”路線は、より鮮明になってきていた。

 一九八一年五月、鈴木首相は訪米し、レーガン大統領と日米首脳会談を行った。

 帰国後、日米共同声明の中の「同盟関係」という表現について野党やマスコミに突っ込まれた鈴木首相は、本会議で「同盟関係には軍事的な意味はない」と答弁。ところが伊東正義外相は、「日米安保条約が基調にある以上、軍事的な意味は当然ある」と答弁したから、野党は「閣内不一致」と騒ぎ出した。

 結局、伊東外相は辞任。鈴木首相は園田直厚相を横滑りさせて、伊東の抜けた穴を埋めた。ところがこの園田外相がマニラで、例の日米共同声明について「声明は条約・協定・覚書とは異なる。外交上の拘束力はない」と失言してしまったのである

 鈴木・園田コンビに外交を任して大丈夫か、という声が自民党内から聞こえてきた。

 こういう外交面でのほころびぶりと較べて、着々と進んでいたのは行政改革であった。中曽根行管庁長官は、土光敏夫を臨調会長に、瀬島龍三を委員という肩書の“参謀”に口説き落とした。鈴木首相は土光臨調会長が出した「行政改革の四条件」を呑み、「政治生命を賭けて答申実現につとめます」と言ってしまった。この一言で、単なる首相の諮問機関に過ぎない臨調が超権威的色彩を帯びるのである。

 一九八一年の夏から秋の臨時国会に向けて、院内統一会派結成の動きが活発になった。公明・民社・新自ク・社民連で統一会派をという話は、民社党から社民連に早い時期に持ち込まれ、社民連は賛成していた。

 ところが、当の民社党の中は一様ではなく、春日常任顧問は最終的には「中道四党で新党結成」、その前段階としての「四党統一会派」構想であり、佐々木委員長も同じ。一方、塚本書記長・大内政審会長は、「民社の支援組織・同盟と公明の支援組織・創価学会とは肌合いが違いすぎる」と慎重で、党ぐるみの動きにはならなかった。

 そういう時に、コマネズミのように動き出したのが新自クの山口敏夫幹事長である。山口幹事長は、「何が何でも四党にこだわっていては時機を逸してしまう。この際、三党で統一会派を組んで、公明党はアレルギーが消えるまでブリッジで、というのはどうだろう」と説いた。

 一時はこの線で実現するかに見えたが、これを知った公明党は怒り出すし、民社党も「四党統一会派結成」を中執委で決めている。そう簡単に方針を変えるわけにはいかなかった。

 結局、新自由クラブと社民連の二党だけで統一会派へ向けて動き出すことになる。新自由クラブとの統一会派へ向けての話合いは、九月に入って本格化した。両党の政策等の調整は、新自ク側は山口幹事長・柿沢弘治政策委員長・田島衛国対委員長、社民連側は楢崎書記長・江田副代表・阿部選対委員長が窓口となった。

 まず話し合われたのが新会派の名称であったが、「新自由・民主連合」(略称、新自連)と決まった。

 政策のすり合わせは、江田と柿沢の間で行われたが、「安保・防衛」など基本政策で容易にまとまらなかった。この段階で柿沢は江田に対してポロリと本音をもらしている。

 「新自由クラブの立党の精神は保守を革新することにあった。社民連もまた、革新を革新するのが目的ではなかったのか。今回の統一会派については、私自身は納得できぬものがあるが、政策をまとめる作業は私の任務だから最後まで責任を果たす」

 九月二十一日、「新自由・民主連合」が発足しようとする直前、新自クの山口幹事長がとび込んで来て、「依田実議員が、名称を新自由クラブ・民主連合とせよ、と言い張って挺子でも動かない」と言う。

 社民連側としては心外であったが、記者会見の時間も迫っている。楢崎書記長が皆をなだめて、この長々しい名称を呑んだ。

 結成式は、赤坂のホテル・ニュージャパンで行われた。新会派の役員は、代表・山口新自ク幹事長、国対委員長・田島新自ク国対委員長、国対副委員長・甘利新自ク総務委員長および阿部社民連組織委員長。

 新自ク十一名、社民連三名、計十四名による衆院内統一会派は誕生したが、この十四名は数時間後に十三名になる。柿沢政策委員長が離党したのだ。


1980年・1981年

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