江田五月 活動日誌 2001年3月(16〜20) >>日程表

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3月16日(金) 化学リーグ、本会議、ホルタさん、予算委、東チモール議連、伊藤さん

今日は、8時15分から「化学リーグ21政策フォーラム」の朝食会。化学関係の産業別労組と国会議員の会で、前川忠夫さんが代表世話人です。エチレンが海外に押され、大変のようです。

9時半、議員総会。10時、本会議。地方財政につき、高橋千秋さんが片山総務相に対し、よく整理された素晴らしい質問をしました。地方財政建て直しの鍵は「自立」だと、喝破しました。

11時から、参議院法制局とNPO税制の打ち合わせ。

11時40分から、ノーベル平和賞受賞者で独立途上の東ティモールの外務大臣役を務めているラモス・ホルタさんとの昼食会。私とは10数年の付き合いで、「髪が白くなりましたね」と言われ、「あなたもね」と返しました。前回1997年に来日した時は、私は浪人中でしたが、上京して歓迎会に参加しました。その時、外務省の冷たい扱いに、彼が大変立腹したのですが、今回は手の平を返したよう。20世紀最後の民族自決ですが、まだまだ苦労の連続でしょう。支援する側もこれからが正念場です。

13時から予算委員会。森首相出席のKSD等の集中審議です。私はかけ持ちで、13時40分からホルタさんをお招きして「東ティモール問題を考える議員懇談会」の総会。日本のPKOに何を期待するかとの質問には、「PKOの要員は十分で、増やす必要はありません。私たちは日本の議論を十分承知しており、日本は国際機関を通ずる協力などで、大きな役割を果たしていると思っています。これからも、道路や橋の建設とか医療、保健、教育など民生部門で、協力をお願いします。」との答でした。

14時40分から、懇談会総会で、「東ティモール議員連盟」として再出発することを決議し、顧問に羽田孜さん、土井たか子さん、伊藤宗一郎さん、中山太郎さんを選びました。今までは民族自決闘争の支援でしたが、今後は新国家建設支援の幅広い活動に取り組みます。

16時過ぎの新幹線で、高崎から前橋へ。18時半から、「『伊藤もとたか』と共に躍進する全逓群馬のつどい」で、20分間応援スピーチ。さすが群馬は伊藤さんの郷里で、参加者は500人を超え、選挙区の角田義一さんも大演説。久しぶりにお会いした後援会長の田辺誠さんも、張り切っておられました。夕食をご一緒して、帰京。



3月17日(土) 吉田之久さん、政治空白、館ダンススクール

今日は、10時の新幹線で京都から奈良へ。まず13時過ぎに、体調を崩された吉田之久さんをお見舞い。私の前任の憲法調査会長代理です。

1月末の朝、どうも呼吸がしっかりせず、小渕さんのことを思い出して、救急車を呼んだそうです。直前に、今夏の参院選に不出場を決めていたから、安心して110番出来たが、そうでなければどうなっていたかなと、笑っておられました。政治家は、結構きつい仕事なのです。

1時間ほど雑談。お元気そうですが、予算の採決には無理をせず、4月中旬の首班指名の際に、本会議場でお会いすることをお約束して、お別れしました。

自民党総裁選は、予算と関連法案だけを仕上げて、4月中旬に行うとか。小泉純一郎さんがその気になっているとか。森首相はほんとに辞任するのかとか。こんな話題ばかりで1か月を過ごすのを、政治空白と言うのです。こんな話題で世間の目を引きつけるのが、自民党の常套手段です。その間に、景気は手遅れ、対外信用は失墜となるのは必定。乗せられてはいけません。

15時から、中学同級の館淑子さんの「春の舞踏会」に参加、挨拶。ダンススクールを始めて20年を超え、館さんの還暦を祝う会でもあるそうで、華やかなデモステージが続きました。80歳の長谷川こなみさんが、若き男性とサンバとルンバを踊られ、びっくり。館さんは生活のパートナーに先立たれましたが、傷心の中年後期を、大勢の同僚や弟子の皆さんがダンスのパートナーとして支えてくれています。感謝あるのみです。

中座して上京。明日から中国です。これからパッキングです。



3月18日(日) 13年ぶりに北京へ

今日は、14時55分発のCA926便で、北京へ。中国人民対外友好協会のお招きで、3日間の日程で行ってきます。当初はもっと長かったのですが、国会情勢が緊迫しており、ゆっくり出来ません。中心となる石原萌記さんが顧問、私が団長です。

日本の政治情勢は混沌。中国は全国人民代表大会(全人代)が終わったばかり。そこでどういう人に会えるか、行ってみなければ分からないところがあります。しかし、教科書問題をはじめ、日中間に問題山積です。

私は、1988年まで、政治家の書道展をしたり、高校生、大学生を連れていったり、かなり頻繁に訪中していました。しかし89年の天安門事件で、当分北京行きはお断りと思ったのです。いろいろ言われますが、権力が学生に暴力を振るったのは事実でしょう。学生運動を経験した私には、耐え難いことでした。

しかし、時は移り人は去り、21世紀になりました。日中関係は、何千年の歴史を持つ息の長い関係です。古くからの友人もたくさんいます。そろそろ、未来志向に切り換えるときでしょう。そこで、尊敬する石原先輩のご努力に敬意を表し、腰を上げました。

北京からHPに打ち込めるかどうか、やってみます。うまくいったら、乞熱烈拍手。

これから議員宿舎をでます。



「愛華訪中団」北京到着、王先生招宴

今日は、15時前の中國民航機で北京へ。「愛華訪中団」14名の大デレゲーションで、私が団長、日野市朗さんが副団長です。18時20分(日本時間で19時20分)着。厳寒と聞いていたのに、20℃ですから、むしろ暑い方です。13年ぶりの北京は、全く様変わり。空港は2年前、日本のODAで作られた、立派なもの。町は超高層ビルの林立です。驚きました。自転車が多いのと、交通ルール無視の横行は、あまり変わっていません。

北京師範大学の王世徴教授の出迎えを受け、そのまま昆(山扁付き)崘飯店へ直行。地元のジャーナリストや学者も交え、20人ほどで広東料理をご馳走になりました。話題は、日中の書道のことから徐福伝説まで幅広く、大いに盛り上がりました。

大ホ−ルの石に刻まれた「海内存知己、天涯若比隣(扁と旁が逆)」という文字が気に入りました。

中國大飯店にチェックイン後、接続成功。今夜は寝ます。再見!


3月19日(月) 友好協会、阿南大使、故宮、自然科学委、交流協会

今日は、北京、長安街の東の端、中國大飯店で起床。朝食後、中国人民対外友好協会へ。9時半から、陳昊蘇会長や呉瑞鈞全国理事(中日友好協会秘書長)らと会談。本当に懐かしい会談でした。

北京の町並みは、確かに一変しています。高層ビルが建ち並び、自転車の行列が、完全に自動車の行列に変わってしまいました。しかし、渋滞はひどく、人と車が混在。人が渋滞した車の間をすり抜けていきます。これは大変です。

友誼商店で、簡単なショッピングの後、12時過ぎに北京宮という超穴場で、超うまい北京料理をご馳走になりました。ホストは、阿南惟茂大使。私の大学時代以来の友人で、着任早々の忙しいさなかに、時間をとってくれました。

14時過ぎから、故宮へ。勝手知ったる名所ですが、以前と違うところは、痰壺がどこにもありません。北京は、私を歓迎してか、5月の陽気になり、汗をかきかき駆け抜けました。

大渋滞に巻き込まれ、大遅れで5時前に、国家自然科学基金委員会に到着。陳佳?中国物理学会理事長(元北京大学学長)と会談。放射光の話などまで出て、緊張しました。

またまた大渋滞で、大遅れで万寿賓館での中国国際交流協会の夕食会。張香山顧問、劉遅理事など老朋友と、老酒で実に楽しいひとときを過ごしました。

夜の北京視察に出かけました。若者の天下で、圧倒されました。



3月20日(火) 中断帰国、参院審議大詰め

今日は、春分の日。中国旅行は、杭州、上海と24日までの日程なのですが、私は明日から国会日程がぎっしり詰まってしまい、中断して帰国です。連休で空席がなく、ひやひやしましたが、やっと9時過ぎの便で、北京空港を経って成田にたどり着くことが出来ました。団長が中途で脱落ですから、関係の皆さんには本当にご迷惑をおかけしました。

3時間ほどのフライトで、時差が1時間ですから、13時過ぎに成田着。リムジンバスに乗れば、15時には都心です。便利なものです。

東京もすっかり春。議員宿舎で、荷物を開けて、整理していたらもう夕方。1日があっという間に過ぎました。

日本の政治は、いよいよ大激動です。まずは自民党が、この事態をどう裁くかですが、野党も方針をきちんと持って対処していかなければなりません。自民党の次期総裁、つまり与党の首相候補が誰になろうとも、今の与党構造では、政治も経済も袋小路のままです。野党に政権を渡しなさいと言い続けなければなりません。

年度末を控えて、予算も法案も、参議院での審議が大詰めです。頑張ります。


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