江田五月 活動日誌 2001年8月(21〜25) | >>日程表 | ホーム/総目次/8月目次/ 前へ|次へ |
今日は、還暦休暇の続きです。9時前に朝食。台風が心配されましたが、曇っているだけなので、10時前に、2台の車で出発し、野辺山のJR最高地をちょっと覗いた後、蓼科へ。このあたりは、30年ほど前にはおなじみの場所だったのですが、清里駅前は、混雑した観光地に変貌し、野辺山も以前のひっそりした様子はありません。
道中、長野県原村のコットン村へ。娘のリクエストですが、いくら探しても分からず、諦めかけたところにひょっこりと見つかりました。手作りの木工品や草木染めなどのお店です。
そのころから雨足が早くなってきました。蓼科高原でひょっこり見つけたおいしいそば屋で昼食。脱穀から石臼挽きまですべて手作りで、そばの味は秀逸。酒は、岡山県寄島町の造り酒屋から直接仕入れており、大当たりでした。次いで、山梨県白州町で造り酒屋見学と早めの夕食。
早々と中央高速に乗ったのですが、驟雨。おまけに長女の車はタイヤがすり減っており、ゆっくりと、ほぼ3時間以上かけて帰りました。これで休暇はお終いです。
今日は、予定されていた中・四国・九州の地域別懇談会が台風のため延期になったので、午前中はちょっとゆっくり出来ました。
昼過ぎに議員会館へ。来客、電話等で、書類の山になった机の整理は進みません。13時、院内の医務室へ。まだ咳が残っています。14時、弾劾裁判の打ち合わせ。15時、羽田孜特別代表に民主党東ティモール選挙監視団の説明。
16時から、裁判官弾劾裁判所の裁判員合議。8月9日に訴追請求された村木保裕判事の弾劾裁判手続きの第1回の合議です。20年ぶりとのこと。
衆議院側は、7人の裁判員中4人が日程の都合がつかず、2人の予備員を入れて、やっと定足数の5人を揃えました。参議院側は、7人中1人が予備員でした。日頃は仕事がない方がいい機関ですが、3権分立の要の位置をを占める機関ですから、裁判員の決定の仕方に、反省が必要なのかも知れません。
村木判事の職務執行停止を決定し、決定書に全員が筆で署名し捺印しました。第1回公判期日を9月20日と決定し、主任裁判員に私が指名されました。全公判に出席し、裁判書を起案する役です。訴追状朗読の仕方、報道関係者の映像撮影のルール、評議の非公開のあり方なども決めました。終わって、葉梨裁判長、清水第1代理と一緒に記者会見。
今泉清さんが急逝。脳梗塞後遺症で体が不自由で、横断歩道を渡りきる前に信号が変わり、車に轢かれて脳挫傷だったとのこと。65歳でした。「下町タイムス」を主宰し、東京下町の文化を発信し続けました。昨年他界した寺田明生君とも親交がありました。1977年に私の父が新しい一歩を踏み出した後、菅直人さんを父と結びつけた1人で、大阪まで司馬遼太郎さんを訪ね、私を口説くことを示唆された人です。菅さんと一緒に通夜に参列しました。その後、菅さんと食事。
今日は、午前中はルーティンワーク。13時に、台湾の地方法院の裁判官をしている邱さんが訪ねてきました。彼女は、台湾の人事院に当たる役所から、日本に留学生として派遣されていますが、台湾の公務員という理由で、裁判所の見学に不自由さを感じています。お手伝いが出来るかどうか、検討してみます。
14時から、民主党の東ティモール選挙監視団の打ち合わせ。外務省の担当者に来てもらい、説明を聞きました。政府からも選挙監視のために役人が派遣されますが、政党としては、野党では民主党だけが国会議員を派遣します。ホテルや食事、交通の便など、ロジスティックが劣悪な中ですが、精一杯の仕事をして来るつもりです。
15時半から2時間、昨日延期になった中・四国、九州の地域別懇談会が開かれ、出席して意見を述べました。中国地方は、衆議院における民主党の議員占有率が1割を切っており、全国でも最低です。全力を尽くさなければなりません。
19時前から、社市連時代以来の仲間と、久しぶりにゆっくり懇談しました。
今日は、10時から常任幹事会。菅幹事長が地域別議員懇談会の結果と今後の会議予定につき報告。東ティモール制憲議会選挙監視団を含め、3件の海外派遣が了承されました。私から、東ティモールのケースは国際的にも極めて注目された歴史的取り組みであり、政府や自民党が及び腰だったのを、私たちが長く努力を重ねてここまで来たのだから、民主党としても積極的に支援いただきたいことを要望しました。
福岡10区の総支部設立と10月の衆院滋賀2区補選での田島一成さんの公認を決定。田島さんは39歳。中大卒、同志社大修士修了で、彦根市議2期を経て、滋賀県議1期目。彦根青年会議所理事長も務め、満を持しての挑戦です。
経済が大ピンチです。臨時国会を早急に招集するよう求めることになりました。私は、小泉首相に対し、休暇を切り上げてでも、与野党党首会談を開き、「デフレ阻止共同宣言」を打ち出すよう求めてはどうかと発言しました。
10時半、東ティモール監視団につき、記者ブリーフ。14時、弾劾裁判の打ち合わせ。裁判官が禁固以上の刑に処せられると、任命資格を失います。そうすると自動的に裁判官でなくなり、罷免出来なくなるのではないかとの論点が、浮かんで来ました。先例のないことなので、慎重な検討が必要です。
15時過ぎから、東ティモール監視団の最終打ち合わせ。日程を確認し、現地状況の報告を受けました。比例区に無所属の候補も現実に立候補しており、外務省の説明と違います。指導者たちの所属政党にも、微妙な揺らぎが見られます。一昨年の暴動を思い出すと、短期間によくここまで来たと感心します。何としても建国を成功させなければなりません。日本は戦争中に、戦争当事国でなかったポルトガル領のこの地域を軍事占領したのです。戦後処理は済んでいません。建国支援の重大責任があるはずです。
今日は、13時から16時まで全国幹事長会議。常任幹事として出席しました。
鳩山代表、羽田特別代表に続いて、菅幹事長から、常任幹事会や地域別議員懇談会の議論を踏まえ、私案の提言も含めて、参院選報告がありました。
民主党の公認候補は、選挙区18人、比例区8人が当選。三重の民主党系推薦候補も当選。人数的には、逆風の中を踏ん張ったと言えます。しかし内容を見ると、1名区は三重と岩手(自由党)以外は全敗。比例区は無惨。深刻な反省が必要です。宮城や京都のように、拡大基調に乗ったところと、残念ながら岡山のように、攻め込まれているところの、2極分化が起こっています。
党と労組との関係については、報道されているようなぎくしゃくした議論はありません。党組織の弱いところほど、結果として労組依存が強くなります。ですから課題は、依存をやめることではなく、党を強化することなのです。
比例区の縦割りと地域割りの件は、菅さんの問題提起を受けてじっくり議論しようということになりました。また、衆院空白区につき、単に候補を決めるだけでなく、運動の展開につき一定の作業手順などを定めて、「直営店」的な取り組みを考えるなど、弱体地域の対策を、具体的に検討することになりました。
鳩山代表が、党組織も地方分権的発想を強めようと発言されたのが印象に残りました。
18時から、久しぶりに、在京の私の親族で会食。娘や息子たちのほか、弟家族に従兄弟も集まってくれ、13人でロシア料理と楽しい会話を楽しみました。私の還暦、弟の帰国、父の25回忌、母の早めの7回忌、伯母の49日などが、集まった趣旨です。
江田五月 活動日誌 2001年8月(21〜25) | >>日程表 | ホーム/総目次/8月目次/ 前へ|次へ |