序 論
1960年10月に、日本社会党が『構造改革論』に基づく方針を提唱してから、この主張は急速に大きな反響を呼び起こし、翌1961年3月の社会党大会でついにそれが綱領として採用されるに至った。又、ほぼ同じ時期に構造改革派を中心とする反主流派が、日本共産党の内部においても一部抬頭したが、少数派として除名したり脱党したりして世間の注目を集めたことがあった。しかし、『構造改革論』の、歴史はこうしたここ数年の日本に始まるものではなく、その思想的源流はアントニオ・グラムシ(Antonio
Gramsci,1891〜1937)や、パルミーロ・トリアッティ(Palmiro
Togliatti,1893〜1964)をそのリーダーとする、いわゆるイタリア・マルクス主義にあり、それが"新しい路線"として明確に打ち出されてからすでに十年余の年月を経ている。
『構造改革論』とは、現代における資本主義の構造変化に対応して生み出されてきた、新しい革命理論の一形態に他ならない。この派の理論家は、現代における資本主義の政治的、経済的な構造の変化、或いは国際的な政治構造の客観的変化そのものが、"社会主義への新しい道"、即ち、「平和的移行」への新しい可能性を生み出していることに着目し、これを強調する。そして、この"社会主義への新しい道"は労働者階級が、政治的民主主義を武器として、資本主義の政治的、経済的な構造の民主的改革を推し進めてゆくこと、つまり『構造改革』の闘争を推進してゆくことによって切り開かれることを力説する。いずれにしても、この新しい考え方は、まだまだ一個の完成した思想体系や実践的行動の形態にまでは(とりわけ、我が国においては)消化されておらず、あくまで「理論」としてあり、十分解明されているとは言えない多くの問題点を抱えている。その意味で、我が国においても『構造改革』をめぐって、当然のように活発な論争や大きな社会的反響が巻き起こったのである。
しかし、率直に言って我が国における『構造改革論』の展開は、新しいものを生み出そうとする建設的な論争へとは発展せず、"構造改革とは何か"ということすら明確にされないうちに、革新勢力の内部問題として、さまざまな動揺や分裂を引き起こした。とりわけ、この論争は、社会党内にあっては党内問題,派閥問題という低い次元で争われ、余計な方向へ混乱した形で広がっていった。現在においても,この『構造改革論』をめぐって、社会党内には派閥間の根強い対立が続いている。
『構造改革論』の問題の根本は、日本の現実をいかにしてとらえるかという点にあった。これは、もとより『構造改革論』が「社会主義へのイタリアの道」によって提起され、イタリアの特殊な土壌の上に培われたものを、日本がみずからの特殊な土壌の上でこれをいかにして考えるべきかということでもあった。そこで、この理論を日本の現実に適用してゆこうとする場合、当然日本の社会的条件の特殊性に関する問題の考察が必要であるが、我が国ではこの理論が党内や派閥の狭い空間で取り扱われたために、或るいは又、安保闘争以後の革新勢力の混乱状況の中に突然提起された問題であったために、不必要な勢力間論争に持ち込まれ、この問題の検討も十分とは言えなかった。しかし、少なくともこの『構造改革論』の導入が、これまでの日本の社会主義思想や運動のあり方に対して、大きな「問題」を提起し、その新たな展開を契機としての意味をもつ出来事であったことは確かであろう。『構造改革論』の提起する問題は、派閥や党内の低い次元で容易に抹殺されてしまってよいような単純な問題ではない。それは又、単に社会主義運動の戦略・戦術にかかわるだけの問題でもない。それは、これまでの社会主義思想のあり方への根本的反省をも促しているのである。このことは、社会主義の理論が歴史の進展の中で、当然直面すべき試練でもある。旧態依然たるマルクス主義の公式論の中だけで、単に資本主義の本質やその矛盾を繰り返し述べているだけでは、社会主義の思想及び運動の創造的発展はありえないであろう。
戦後のイデオロギーの多元化、とりわけ社会主義思想の多元化は、今日「ナショナリズムの抬頭」によって、さらに一段と激化しており、それは中ソの対立に見られるように、社会主義圏の内部対立として、深刻な形で現われてきている。マルクスが『共産党宣言』のなかで、高らかに唱えた"インターナショナリズムの精神"も、"社会主義共同体"の構想も、最早崩壊しつつあるかのようである。確かに、『構造改革論』もそのような社会主義思想の多元化現象の一つとして現われたものである。その意味で、それは、社会主義思想における「ナショナリズム発現の一形式」という言葉に言いかえてもよい。そこで、古くて新しい問題である、「社会主義とナショナリズム」の問題が改めて問われるべき今日において、イタリア・マルクス主義が、「ナショナリズム発現の一形式」としての『構造改革路線』をどのようにして打ち出すに至ったのか、何故にこの理論及び路線がイタリアという土壌の中で形成されたのか、その背景は何か、その意義は何か、又日本における『構造改革論』はどのように展開され、そのもつ意義は何か、こうした問題について、今再び新たな発想をもって考究することは、十分意義のあることのように私には思われる。