新しい政治をめざして 目次次「社会党の没落と協会派の時代錯誤性」

5 自由と分権の新しい社会体制をめざして

 さて、社会党がソ連を中心とする既成の社会主義国との関係のみを重視しすぎている間に、「社会主義」国が働くものの天国とはいえない多くの欠陥をもっていることが漸次明らかになり、「いかなる社会主義」か、深く検討し、再構築しなければ、社会主義そのものが生命力をもちつづけることができなくなってきていることはさきにふれた。にもかかわらず、社会党内の大勢には、その認識がきわめて不十分なのである。

 日本の社会主義は自国製ではなく、輸入品なのではないのか。戦前から、多くの先達が苦しいたたかいを続けたことは、高く評価されなければならないが、戦後社会党は、これを支えてきた労働組合運動も同じことだが、苦悶のなかから自国製を創り出すというよりは、外国製品を形ばかり取入れたというきらいはなかったか。

 過ぐる戦争をふり返ってみても、外国には根づよい反戦運動があり、レジスタンスも展開されたが、日本になにがあったのか。共産党は一貫して反戦のたたかいを行ったかのように言っているが、活動的な人々は治安維持法違反として、監獄の中ですごしたのであり、大衆的な反戦運動があったわけではない。私なども、治安維持法にやられて、出獄した後、なんの運動も行いえなかった。多くの学者、文化人も戦争協力に動員された。敗戦とともに、反戦主義者であり社会主義者であるとして、多くの人がはなやかに、どこからか国民の前に現われ、運動がもえひろがった。もの言わぬ大衆のなかに、埋もれていたエネルギーが点火されたことは認められるが、どこまで根をおろしたものだったのか。労働運動にしても、G・H・Qのお声がかりで苦労なく組織化が進められたという面がありはしなかったのか。こういう状況のもとで、社会主義とはなにかと問われても、簡単にソ連がモデルだとこたえるだけで、根源にふれた答えははねかえってこなかった。衣も食も住も、ことごとく欠いた戦後社会では、それで通用し、社会主義という言葉だけで魅力をもった。しかし、いま、それにたいして根底から疑問がつきつけられているのである。ソ連をモデルにした革命路線に深い理解もなくしがみつき、明確なビジョンも、そこに到達する政策体系もないまま、不満を激発し、抵抗を組織してゆくといういままでに多く見られたやり方ではすまなくなったのである。

 ソ連体制は産業の国有化と、これを推進するための、共産党の独裁による官僚的中央集権が特徴である。この考え方が、いまなお、日本の社会主義運動に深い影響力を与えている。いま社会主義に最も大きく問われているのは自由の問題である。本来社会主義は人間の解放を求めて出発したにもかかわらず、ソ連型社会主義は自由を許さぬ体制ではないのかと問われている。共産党はとにもかくにも「自由と民主主義宣言」を行った。その内容をどう評価するかは別にして、自由の問題をさけて通れぬことを認めてきているのに、むしろ社会党の方が関心が薄いのではなかろうか。

 国有化・国家管理イクォール社会主義という図式の誤りは、西欧諸国の一部の社会主義政党の政策のなかにも持ち込まれている。一昨年秋、私はイギリス労働党の大会に招かれて出席した。大会では日本からの自動車とカラーテレビに対する輪入制限の決議が採択された。私はその日パーティーで顔をあわせた、労働党左派の指導者ベン氏に、輸入制限は短期間の措置以上には行えないだろう、その間に、いかにしてイギリス産業の国際競争力を高めてゆくのか、労働党は国有化に重点をおいているが、これは没落企業の救済策ではあっても、国際競争カの強化には一向に役立たないのではないかと質問し、相手もこのことをある程度肯定していた。

 フランス社会党の理論家マルチネ氏は、著書の『五つの共産主義』のなかで、ソ連には資本家階級はなくなったが、代って官僚階級という支配階級がカをもち、労働者には自由がないと指摘している。もともと、国有化は手段であり、目的ではないが、自由のブレーキになっているだけでなく生産の効率を高める面でも成功していない。ことに経済のスケールが拡大し、技術が高度化し、消費者の選択が多面化してくると、一部の公益部門は別として、国有化を広く一般的に採用することはマイナスが大きいのである。勝手放題の自由競争は許されない。国民の最低限の生活と労働者や消費者の基本権の保障、かけがえのない環境の保全、農業の振興、国民的利益にたった資源の効率的活用などについてのルールと計画が必要である。そうした新しい体制のもとでのマーケット・メカニズムの適切な活用が先進工業国のとるべき方向であり、さらに進んで、フランス社会党の自主管理の提案や西独社民党がすでに実現しつつある共同決定法などにその例をみるような、労働者の「参加」による企業改革の推進が追求さるべきである。

 国有化を中心にすえれば、中央集権を強化しなければならない。これは、必然的に官僚政治になってしまう。自由の保障のためには、あらゆる権力は巨大になってはならない。巨大企業は独占禁止法によっておさえなければならず、官僚支配の中央集権は分化され、住民が直接参加しやすい地方分権とされなければならない。最近地方財政の行きづまりが問題となっているが、その根本的解決は、中央集権にたっての財源の配分の立場からではなく、民主政治の出発点は地方自治だという、位置づけの逆転にたたなければならない。住民のための事業が中央の補助金で左右されるのではなく、住民自身の選択によって進められねはならない。またそうでなければ、住民運動にしても、抵抗闘争からぬけ出すことができず、建設的で前向きのものにはなりきらないであろう。これらの点について、発想の転換ができないから、住民運動を自分の党の得票源と考え、これを党の系列下におこうとして反発を買うのである。この傾向は特に共産党に強い。こういうところに、ソ連型社会主義の考え方が、依然として強くこぴりついているのだ。


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