新しい政治をめざして 目次次「八億人民の前進をみる」

万事自己流のこと

 主治医についてアンケートをよこされたことがあるが、私には特定の人はいない。自分の健康は自分が一番よく知っており、必要なとき、適当な医者にかかればよいことだと思っている。

 私は青年時代に、胸をやられたが、その後ほとんど病気を知らない。薬もめったにのまない。先頃、衆議院決算委員会において、無効なだけでなく、有害でさえあると証言された保健剤やドリンクの類は、はじめから口にしない。

 お前も六十を越えた。強がりをいわないで、人間ドックに入ってきたらどうだと強くすすめられたが、血液や尿の検査あたりまでならともかく、胃の中にカメラを入れるなどと聞かされると、医者のおもちゃにされるようで、せっかくながら願い下げにした。

 といって、なにも医者や薬は無用だと、頑固な精神主義をふり廻そうというのではない。私なりに科学的と思う健康法を、日常生活のなかに多分にとり入れている。要するに、自分が自分の主人公でありたいのだ。

 倉敷の自宅には、山で採取したり、旅先で貰い集めた苗木が三百種、草を加えると四百種が育っている。昨年あたりから、急に伸び茂ってきた。まるでジャングルじゃあないかと、庭師を入れて刈りこまないと、木がかわいそうだと忠告された。勝手気ままに、のびるにまかせたいのだが、かわいそうだと言われると、耳を傾けざるをえない。この庭には銭になるのはありませんなあ、とつぶやく庭師に、他人がどう評価しようと私にとっては値打ちものだ、なるべく自然の姿をのこしてくれ、と注文しておいたが、どれもこれも坊主にされてしまった。

 むやみに集め、雑然と育てている私の庭では、庭師としても腕の見せどころがないのだろうが、二度とは頼まないときめ、ときたまにしか帰宅できない僅かの時間、草木と語りあいながら、自己流に鋏を入れている。

 なにに限らず、手のこまないのが好ましく、料理にしても同じである。いつか、テレビの料理番組に出ていた高名の人に会い、いささかアルコールが入っていた勢で、見ている段には面白いが、味はいただけそうにない、とつい毒舌をはいたため、うまいかまずいか、その人の自宅で試食させられることになった。妙な団子をだされ、どうだと問われた。くわいをおろしてかため、油であげたのだそうだが、正体不明なまでに手を加えたことが、私にはいただけないのだ。ただし、相手に聞こえる言葉にはしなかった。

 有名な料理屋の卯の花は、半日もとろ火にかけて、かき廻すのだそうだが、人手のない当今、一体いくらに値段をつけるのだろう。そんなものを食べて食通の誇りをもちたくはない。インスタント料理は味気ないが、過ぎたるは及ばずである。そんなものより、田舎町の一膳めし屋にならべられた煮ものの方が好ましい。瀬戸内の港町の、たこや小魚、野菜の煮つけなど、いつ食べてもうまい。

 私は議員宿舎の独り暮しなので、よく自炊をする。自炊だと、なんでもうまいから妙である。いつか、油を酢と間違えた二杯酢で魚を食べたことがあったが、食べ終るまで、間違いに気がつかなかった。

 先日新聞で見たことだが、コンピューターで作業工程がきめられ、トイレに立つ時間も指定される。これにならされた結果、休日に自宅で寝ころがっていても、その時刻にはトイレにたたずにいられなくなるということだ。経済の高度成長と比例して、精神病患者がふえている統計ものせられていた。今や正直者は馬鹿をみるだけでなく、狂人になる。

 いわゆる情報社会であり、四方八方から人間が主体性を失わされてゆく。テレビの料理でピーマンが使われると、その日八百屋のピーマンに主婦が集まる。食品添加物がさわがれると、自然食が宣伝され、野草とりがはやる。しかし、私の自宅でも、毎年市役所が農薬を撒布しており、近くの野草は犯されている。中国から輸入の食品には添加物が入っていないと愛用している人があるが、中国も日本から農薬を輸入しており、まったくの清浄とはいえない。

 ともかく、よほどずぶとい神経を持たないと生きていけない。私は万事自己流でゆく。といってみたところで、明治生れの習性から、たいして突拍子にはなれない。

 若い人たちの服装をみると、それぞれ個性があって面白い。現代に生きるため、自ずと自己流を身につけているのかも知れない。アメリカの青年の間に、素足で歩くことが流行しているそうだが、ここまでになると、自分の主体性をもってのことか、情報に押し流されてのことか、よく分らないが、真夏もネクタイをつけずにいられない明治生れに、評価をくだす資格はないのかも知れない。


(文芸春秋、昭和45年9月号) 目次次「八億人民の前進をみる」