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想いでの走馬灯   内田健三

 1962年7月、『社会主義の未来像』(江田ビジョン)の問題提起から十五年、江田三郎はひたすらに『社会民主主義の独自性と優位性』『人間の顔をした、市民的な、自由な社会主義』を信じ、その実現を目指して悪戦苦闘を続けた。そして77年5月、志半ばにして病に倒れた。

 その志を継いで、遺児江田五月を中心とする『社会民主連合』が結成されてからまた同じく十五年の歳月が流れた。

 新たな十五年が始まろうとするいま、世界は大きく変容し、教条的左翼勢力のメッカであったソビエト連邦はその存在そのものが消滅している。いみじくも江田三郎は遺書『新しい政治をめざして』(77年刊)の中で予言している。「いま、ソ連圏の東欧諸国でも、チェコの『人間の顔をした社会主義』以来、ソ連体制に村する批判が無視できないものになりつつあり、…社会民主主義を足蹴りにしてマルクス・レーニン主義に立ってきた諸勢力が、自由の尊厳を改めて直視し、社会民主主義に回帰しつつあることを意味していると私は思うのである」

 江田三郎はこの世界史の潮流を予感し確信しながら、いかにして日本社会党に巣食う教条主義、マルクス一レーニン主義の亡霊を根絶できるかという命題を追求した。ある時は党内の改革、再生の希望に燃え、ある時は党外からのショック療法、新党結成を模索したが、ついに党と決別した直後に急逝した。

 その社会党は、石橋政嗣、土井たか子、田辺誠、三代の委員長の下で試行錯誤を重ねたあげく、ようやく脱皮、新生への道を踏み出している。私が事新しく『今日の政治課題』を論じる必要はあるまい。ここではただ、江田三郎の次の遺言を再録しておこう。

 「私にとって、社会主義はご神符ではない。 社会主義とは、人間優先の理念に立って、現実の不合理、不公正の一つ一つをたたき直してゆく、終着駅のない運動のトータルなのであり、そのことを国民の合意のもとに行おうというのであり、右だ左だのというのはつまらない観念の遊びであり、大切なことは、現実の改革に有効なのか否かである」(遺著「新しい政治をめざして」から)

 すべてはこの言葉に尽きている。


 むしろいま、私は在りし日の江田三郎との触れ合いのいくつかを走馬燈のように思い浮かべる。

 …「江田ビジョン」破れたあと、江田さんはほとんど同時期に東大を退学処分された息子の五月さんと、杉並のアパートで 「二人浪人暮し」を楽しんでいた。満々たる闘志とビジョンと志を抱きながらのこのころの閑居の間に、私の江田さんへの傾倒は深まっていったと思う。

 …同じころ、江田さんは衆院転進(63年11月総選挙で初当選)を機に、選挙区の倉敷市郊外に新居を構えた。敷地一万坪と称する駄ボラが反対グループの好餌となったが、何のことはない境界なしの隣りの山すそのお寺の敷地を含めての笑い話。その後始めたゴルフも「ブルジョワ趣味」と非難を浴びたが、悪声を放ったそのころの観念左派の面々はいまどんな顔でクラブを振っているのだろうか。

 …その新居の「江田植物園」に、「江田親衛隊」をもって任じる私たち学者、ジャーナリストの一団が押しかけたことがあった。折柄建設中の水島コンビナートを視察し、倉敷国際ホテルに泊まり、大原美術館を鑑質する楽しい修学旅行であった。夜は痛飲して談論風発だったのは言うまでもない。座の中心にあった江田さんはすでに亡く、仲間は散り去り年老いた。

 「去年(こぞ)の雪いまいずこ」の感慨は切である。

 …江田グループ最後の旅は、70年8月の蓼科高原行であった。江田さんの植物談義は高原の花々に触発されて楽しかったが、夜の論議は深刻であった。既成政治勢力の寄せ集め(社公民連合のような)ではダメだと言い続けてきた江田さんが、現実政治家としては既成政党間のパワーゲームにコミットせざるをえないジレンマが、グループの亀裂、分解を招く結果果となった。江田さんはこのあと、76年の『新しい日本を考える会』を結成、77年の3月の離党−社会市民連合(現社民連)旗揚げへと突き進んで倒れた。

 それからまた十五年、内外情勢の革命的変動は、江田さんにジグザグ路線を強いた厚い壁に大きな風穴を開けつつあるように見える。江田さんはいま、あの白髪の温顔に笑みをたたえて「もう一息だよ」とあとに続く者に呼びかけているに違いない。


うちだ・けんぞう 1922年生まれ。東京大学法学部卒。共同通信社政治部長、論説委員を経て、1982年法政大学教授。 現在は東海大学教授。


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