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江田三郎歿15周年シンポジウム資料 参考資料:社民連十年史 |
「花のしたにて春死なん」との言葉がありますが、さつきやふじなど花につつまれた日本列島の隅々にまで、「江田三郎急死」の衝撃波が走り抜けて、早いもので15年が立ちました。
この間の歴史の激動は、まさに父の「予言」どおりでした。特に世界は、「古い歌」と言うべき冷戦時代が完全に終わり、旧ソ連は容姿を大きく変えつつあります。
「“歌”を忘れよ」と父に迫られた日本社会党も、もどかしい思いはありますが、次第に歴史の激動を追いかけて変化しつつあるようです。
新しい時代を担う政治勢力の結集が待ち望まれる今、父をしのび、結集の決意をあらたにしようと、今回の企画を立てて下さった皆様に、心からお礼を申し上げます。
父の指し示したものを振り返るため、この資料集に玉稿をお寄せ下さった内田さんと貴島さんのご厚情には、お礼の申し上げようもありません。
15周年を機に、ご参集の皆さんをはじめ志を同じくする者ひとり残らず、一日も早く「連合新党」への結集を果たすよう、改めて全力を尽くすことを誓います。
この資料集が、その一助となることを信じ、一層のご指導をお願いして、ごあいさつとします。1992年5月
1907(明治40)年 7月29日 |
岡山県御津郡建部町に生まれた。子供のころ朝鮮に渡り、京城善隣商業に入学。その後神戸高商、東京商大(現在の一橋大)へ進学した。 |
1931(昭和6)年 | 大学を中退。郷里で農民運動に参画し、全国大衆党に入党、政治活動に入る。 |
1937(昭和12)年 | 県議初当選。翌年、労農派グループとして検挙され、治安維持法違反で2年6ヶ月の懲役刑を受けた。 戦後、社会党に入党し、農民運動、大衆運動に専念、党岡山県本部委員長に就任。 |
1950(昭和25)年 | 岡山地方区より参議院選挙に出馬し初当選、中央政界入りをはたした。党中央では、革新政党としては初めての日刊紙『社会タイムス』を発刊するなどして活躍。 |
1960(昭和35)年 | 日本社会党書記長就任。その年10月、浅沼委員長刺殺にともない委員長代行、構造改革路線を提唱した。 |
1963(昭和38)年 | 岡山2区から衆議院議員に鞍替え。 |
1967(昭和42)年 | 副委員長、翌68年から2年間書記長 |
1974(昭和49)年 | 副委員長など要職を歴任、党内右派のリーダーとして活躍。 |
1977(昭和52)年 | 社会党を離党。社会市民連合(社会民主連合の前進)の結成を表明し、同年7月の参議院全国区への出馬準備の途中、5月22日永眠。享年69歳。 |
江田三郎歿15周年記念事業全体計画
主 催
墓前祭 ●江田三郎歿15周年記念墓前祭実行委員会
シンポジウム●日本労働組合総連合会岡山県連合会
江田三郎歿15周年記念シンポジウム実行委員会日程 平成4年5月23日(土)
12:20 現地集合(妙福寺/御津郡建部町福渡)
12:30 墓前祭
13:20 〃 終了
13:25 出発
14:45 記者会見(コンベックス岡山)
15:30 江田三郎歿15周年記念シンポジウム
『江田三郎の政治的足跡と政界編成』
17:30 〃 終了
19:00 夕食会
故江田三郎墓前祭日程
12:10〜12:25 本堂にてご回向(江田家親族) 12:30 開式の辞 大亀 幸雄 読経 福島住職 指名焼香 追悼のことば
社民連書記長
日本社会党中央執行委員長
民社党岡山県連合会執行委員長
日本労働組合総連合会事務長
前参議院議員
建部町長
謝辞
阿部 昭吾
田邊 誠
舛田 貞三
山田 精吾
秋山 長造
木村 博正
江田 五月13:18 閉式の辞 楢崎弥之助 13:20 終了
江田三郎歿15周年記念シンポジウム日程
『江田三郎の政治的足跡と政界編成』
パネラー 社会党委員長
民社党政審事会長
連合事務局長
連合参議院顧問
社民連代表●田邊誠
●中野寛成
●山田精吾
●吉田之久
●江田五月コーディネーター
毎日新聞社特別編集委員●岩見隆夫<プログラム>
15:30 あいさつ 連合岡山会長
実行委員長森本 徹磨
大亀 幸雄15:40
〜15:50コーディネーター 岩見 隆夫 15:50 パネラー第1回発言(各10分) 田邊 誠
中野 寛成
江田 五月
吉田 之久
山田 精吾
16:40
〜17:10パネラー第2回補足発言(各5分)
17:10
〜17:30岩見さんを中心に討論 17:30 閉会
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