2001/06 

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ハンセン病と私


5月11日のハンセン病熊本地裁判決は、国民に極めて強いインパクトを与えました。裁判史上初めてと思います。小泉首相が控訴しないという決断をし、25日に確定しました。国に控訴断念を強く迫っていた者のひとりとして、小泉総理大臣の決断に心から感謝します。

ハンセン病とはどういう病気か、またハンセン病行政がいかに苛烈極まるものだったか、私が述べる必要はないでしょう。そこで、私とハンセン病とのかかわりにつき、思い出話を書いてみます。


 私の郷里、岡山県には、瀬戸内海の小島、長島に開設された「長島愛生園」と「邑久光明園」というハンセン病の国立療養所があります。

 私が最初に長島愛生園を訪ねたのは、昭和30年前後だったのではないでしょうか。昭和28年に「らい予防法」が成立した直後です。私の父は、今の私と同じ参議院議員で、日ごろは東京暮らし。私たち家族は地元の岡山市で、父が帰ってきても家にいることはなく、駅から次の予定に直行です。父が、予防法反対派のひとりとして、長島を訪ねた際、中学生の私が、ちょっとでも父と一緒に居たくて、随行した活動家の皆さんに頼んで、連れて行って貰い、脇のほうでうろうろしていたのだと思います。父は用意された白衣をはねのけて、患者の皆さんの中にどんどん入っていったそうです。

 往事茫々。しかし、断種のことを聞いたのは、鮮明に覚えています。その上、場所は離島。見学者は、クレゾール消毒液で手を洗ったり、白衣を着たりしなければなりません。医学的説明を聞いても、それだけでは恐怖は拭われません。打ち身で痣ができた人が、感染したとずいぶん心配したそうです。

 母にも連れられて行きました。母は、女学校時代から、患者の皆さんと短歌の勉強をしていたようです。

 その後は、ハンセン病のことはすっかり忘れていました。そして昭和52年、父の急死を受けて参議院の全国区で当選した後、議員として島を訪ねました。以来今日まで、たびたび訪問。常に素晴らしい人柄に打たれています。

 感染しないことは分かっていても、最初は、間違いがたくさんありました。「患者は癌にならない」と言われました。誰からか分かりません。思い切って質してみると、間違い。多分、癌になる年令以前に亡くなるからそう言われるのだろうとのこと。ところがこれも間違い。患者は高齢化し、高齢疾患が発生しているのに、所内の医療施設は不十分で、外の医療機関での治療は、偏見のため困難を極めていると訴えられ、無知を恥じました。

 昭和57年、参議院の任期5年目で初めて、本会議質問の機会を得て、長島に橋を架けようと提案しました。多くの皆さんのご努力で「長島大橋」架橋になったのは、ご存じのとおりです。

 その私でも、国会質問で「らい予防法」の廃止には言及していません。何故でしょう。今は治癒した人は元患者ですが、法廃止までは、治癒した人も患者と呼んでいました。それは、予防法が患者に対し療養所を保障しており、患者でなくなったら療養所を出なければならないからです。出たら、社会の差別と偏見のため、また長く施設で暮らし、生計を立てる道がなく、たちまち立ち往生してしまうからです。患者が人質に取られ、法廃止が言えなくなっていたのです。そして、この悪循環が長く続くことにより、社会に差別と偏見が限りなく深く刻まれたのです。

 悪循環を断ち切れなかった私など、あるいは立法不作為につき故意があったといえるかも知れません。だからこそ、差別と偏見の解消のため、精一杯汗をかかなければならないと思っています。 

「青年法律家」6月号掲載


2001/06

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