阿部きみ子さん、というよりも阿部昭吾先生の奥さま!
先生から悲しい知らせを受けたのは、先の総選挙が公示される直前でした。ご病気で療養中とは聞いていましたが、これほど突然に幽冥異にすることになるとは、夢にも思っていませんでした。
総選挙で私も、地元で若い候補者を複数抱え、全国の応援もあり、とてもご葬儀に参列は叶わぬことと思っていましたが、菊花咲き乱れるこの時期に本葬とのことで、今日は地元岡山から駆けつけて参りました。刺客騒ぎで荒れ模様の岡山市長選挙の告示直前で、この後すぐに帰らなければならないという慌ただしさですが、阿部先生の現役時代の東奔西走ぶりをよくご存じの奥さまですから、分かっていただけますよね。
奥さま、本当にご苦労されましたね。医家の子女で深窓の令嬢だったのに、阿部先生が最初に県議選に挑戦し落選された後に、選挙をやるには結婚しなければと、無理矢理にお見合いで決めさせられたと聞いたことがあります。しかしその後の阿部先生の選挙は、常に地元の皆さんにしっかりと支えられ、1996年総選挙で比例名簿順位という技術的な理由で当選を逸するまで、決して負けることなく議員活動を続け、永年勤続表彰を受けられました。その間の阿部先生のご功績は、庄内空港の建設をはじめとする地元への貢献はもとより、中央では社民連のリーダーとして政界再編成の草分け的役割を果たされるなど、限りないものがあります。出稼ぎ者支援が、「草の根悠久」の原点でしょうか。先生はよく私たちに、「国会と地元と、夜行列車での往復が出来なくなったら、議員は終わりだ」と言っておられました。まさに激務。私の母も同じですが、奥さまのご心配はいかばかりだっただろうかと思います。
当時、私の父・江田三郎は、日本社会党の幹部で、阿部先生のことを心配し気に掛け、庄内に足繁く通いました。上林與一郎先生もご健在で、地元県議や市町村議の皆さんとも、本当に強い強い信頼関係で結びついた、この地域の最大政治勢力でした。大きな家族のような心の通い合いという財産を共有しておられたのですね。私の父は、庄内にお邪魔しては、よく皆さんと口角泡を飛ばしながら酒を酌み交わしたことと思います。そうした機会に、自分がもっとも信頼し頼りにしている阿部先生の愛妻で、苦労ばかり掛けている奥さまにお会いしたことも、しばしばあっただろうと思います。果たして父は、奥さまに温かい声を掛けたでしょうか。本当に心配しています。奥さまの方は、そんな父のことを大変に尊敬し、何かと気を遣って下さったと聞いています。
私が父の後を引き継いで、阿部先生のご指導を仰ぎながら政治の道に入った後、私自身も幾度となく庄内に足を運びました。酒田でお会いする奥さまは、いつも物静かに笑みを浮かべ、私たちの無茶苦茶な強行日程に対し、「本当に仕方ないわね、体にだけは気をつけなさいよ」と、心配してくれていました。二人のお嬢さんも地元を離れられ、阿部先生が留守の時は、お一人で家を守っておられました。
阿部先生は、国会に籍を持たなくなった後も、政治との関わりは決して消えず、地元にいる時でさえも、今日は鶴岡、明日は最上、ご自宅でゆっくりされることはなかったでしょう。その阿部先生のご苦労を、すべて奥さまが華奢な体に引き受け、先生より先にご病気を得てしまわれたように思われます。申し訳ないことです。
私の両親も、あの世で待っています。旧交を温めてください。そして阿部先生が、これから奥さまの分まで長生きして、気力・体力の続く限り天下のご意見番の役目を果たしてくれることを心から願っています。どうぞ阿部きみ子さん、地上のことはすべて忘れ、ゆっくりと悠久の時の流れをお楽しみください。心からご冥福をお祈りいたします。
平成17年9月24日
参議院議員 江田五月