2009年9月1日 |
「重責を担って」 参議院議長 江田五月(昭和35年卒)
岡山朝日高校京浜同窓会 「京浜同窓会々報 第30号」掲載
私が岡山朝日高校に入学したのは、昭和32年ですから、半世紀も前のことです。前身の旧制中学時代を合わせると、三権の長をすべてわれらが先輩で占めており、まことに鼻息の荒い時代でした。首相が岸信介さん、衆議院議長が星島二郎さん、最高裁長官が田中耕太郎さんというわけです。これを当時の校長先生が誇りにし、あるとき岸首相を学校に呼び、全校生徒を講堂に集めて話を聞かせました。私は、父が野党の参議院議員だった影響でしょうか、あまり良い感じを持てず、特に感銘深い話とも思えず、「権威主義」に違和感を覚えました。
そんなこともあり、母校の「進学第一主義」に馴染めず、ちょっと斜に構えたようなところがあって、先生たちに迷惑を掛けたり心配させたりしました。しかし、自分としては、だから成績が悪いと思われるのは何より癪なことで、部活動や生徒会活動に励みながら、目立たぬように勉強にも精を出したつもりです。それでも現役で東大合格できたのは、僥倖と言うほかありません。「お前みたいに勉強せずに入ると、後輩にしめしがつかん」と、妙な嫌味を言われたものです。冗談だったのかも知れませんが。
先輩や学校当局の方はどうであっても、私の方は愛校心に溢れていたつもりです。校内では書道部で、三年ではキャプテンを務めました。その上、生徒会の総務。当時は会長制でなく、三人の総務のトロイカ体制で、夏には県下の高校生徒会役員を口説いてアメリカの高校生と蒜山でキャンプをし、卒業の年の一月まで活動していました。学校の外では、古式泳法の神伝流に励み三段でしたが、競技では朝日高水泳部で出場。「操朝戦」では、扇子を振って応援の音頭を取り、校歌の「国土の・・・」から一中節の「ひとつ出たホイの・・・」まで、大いに蛮声を張り上げたものでした。
「操朝戦」は平成10年度まで行われていた「五校戦」で、ウィキペディアには朝日側では朝操戦と呼んだとあります。昭和29年のスタート時はそうかも知れませんが、私たちのころには、「早慶戦にならった呼称で、学校によって呼び名が違うのはおかしく、ここは朝日側が度量を示した」という先輩の説明に、みな完全に納得していました。
一昨年の夏、三権の長で一つ残っていた参議院議長に私が就任し、これで「完全制覇」と思ったら、昨秋には最高裁長官に竹崎さんを得て、二周目に入ることになりました。竹崎さんは裁判員制度の施行など司法改革の正念場での登板です。私の方は、大変な変革の時代で、責任重大だと思っています。「朝日」の名を汚さぬよう、願わくば後輩の皆さんに誇りにしていただけるよう、全力を尽くします。ご支援をお願いします。
2009年9月1日 |