2010年8月14日発行 文芸誌「シリウス」第20号掲載 |
シリウスへの思い
江田五月
一九九二(平成四年)の春から秋にかけて、日本の政治は著しい閉塞状況に陥っていました。そんな中で、与党野党を問わず、息が詰まりそうになっていたものがさまざまな動きを起こし始めました。春には細川護煕さんたちが日本新党を立ち上げ、秋になって私は、同じ社民連の菅直人さんや日本社会党の若手議員有志らと、政策集団「シリウス」を立ち上げました。これらは、外部から見ても、どこか地下水脈で繋がっているのは明らかでした。
私たちは、活動の拠点として雑誌を発行することとし、雑誌「シリウス」を世に問うたのですが、翌九三年夏の総選挙で躍進を遂げることは出来ず、結局、二号で廃刊となりました。政治状況の変化の激しさは、私のカに余るものでした。それを考えると、皆さんの文芸誌「シリウス」が発刊から二十号となるのは、まさに驚嘆に値します。おめでとうございます。
さて、私はなぜ、私たちのグループを「シリウス」と名付けたかですが、これには私の個人的な思いがこもっているのです。時は遥かに一九三〇年代後半にまで遡ります。一人の青年が、獄に繋がれていました。彼は、折角の大学を中途で退学し、故郷に帰って農民運動に飛び込みました。実際に農地を耕す小作人が、収穫を自分のものと出来ず、凶作の時には飢えに苦しみ、地方によっては娘を売りに出さなければならないということを、著しい不条理と思い、限りない怒りと改革への情熱に自分の人生を賭けたのです。しかし、時は彼に利あらず、治安維持法違反のかどで二年八ヶ月の刑に服することとなったのです。
彼には妻がいました。小作人の味方なのに、地主側からも人柄を見込まれ、世話をしてくれる人がいたのです。子どもはまだおらず、妻は行商で生計を立て、細々とした売り上げから彼に差し入れを持っていきました。そのときに、彼は妻に尋ねました。「シリウスはまだ見えないか」と。
獄中の彼は、坪内逍遙訳のシェクスピア全集など、本を読み漁りしました。もともとロマンチストだったのです。獄中でも、正月には数の子が出されたそうで、何日か後に歯の隙間から出てくる一粒を潰すことを楽しみました。小さな窓の枠の砂に辛うじて生えた雑草を愛でました。そして、「小さな鉢の小さなサボテン、熱砂千里の夢なおありや」と、限りなく広がるサハラ砂漠に大きく育つサボテンに思いを馳せて、自分を励まし読けていました。
サハラ砂漠は、かつてはナイル川の三角州に広がる沃野でした。時季が来ると、川の氾濫で、上流のよく肥えた土が運ばれ、豊かな収穫が約束されたのです。その洪水を予測するために、エジプトの人々は星を観察しました。代表的な星が、大犬座の一等星「シリウス」でした。 青白くひときわ明るく光るこの星は、中国では「天狼星」と呼ばれ、やはり特別な意味を与えられていました。
多分、彼の独房の窓は、南を向いていなかったのでしょう。晩秋になって南東の中空に現れるシリウスは、初冬になっても正月を過ぎても、彼には見えませんでした。季節が変わり、川が氾濫して大平原に再び限りない実りをもたらす兆候が、まだ見えないかどうか、彼は妻に聞くのですが、時代は逆に、軍靴の音が次第に大きくなり、川の氾濫は限りない不毛をもたらしたのでした。
もちろん、彼は私の父、その妻は私の母です。特に資料に細かくあたって書いたわけではなく、パソコンに向かって思いのままに指を運んだので、私の思い込みのところもあるかもしれませんが、おおよそ以上のような両親の歴史が、私の思いの中にあるのです。荒地を沃野に変える大洪水の到来を知らせるシリウスの役目を果たしたいと、ちょっとロマンティックに私たちの政治集団の名前に選んだのです。
三十三年前、父は「花枝動かんと欲して、春風寒し」と、王維の詩を口ずさみながら、新しい道を踏み出しました。その直後に、私の誕生日に亡くなり、切羽詰まって私が後を引き継ぎました。今、国民の選択で政権交代がおき、日本の民主主義が新しい段階に入りました。実際に現れてくる展開は常に、理論や、まして理想のとおりに進むことはあり得ません。願っていたこととは全く異質の事態も生じます。それでも、我たちが努力を怠ることが無ければ、歴史は必ず、正しい方向へと動いでいくと、私は信じています。「天行健、君子以白彊不息」というのが、今の私の心境です。(参議院議員)
2010年8月 |