2015年3月23日 |
2015年3月22日 阿部昭吾さん弔辞
阿部昭吾さん弔辞第一. 草の根悠久
阿部昭吾さん。突然のご訃報に、本当に耳を疑いました。最も最近、私のまわりで阿部さんの話題が出たのは、昨年の秋、岡山市で行われた大亀幸雄さんを偲ぶ会のときだったと思います。お嬢さんの奥朋さんが、ご主人とともに参加してくれ、大変に恐縮しました。そのときは、年相応に次第に弱ってきているというものの、特に病を得て余命がどうこうということではないということでした。いつかお会いしたいと思っていた矢先に、訃報が届きました。
阿部さんは、庄内の地で草の根大衆運動を展開しておられました。先輩の上林与一郎先生に見込まれ、出稼ぎ者組合の組織化と要求獲得に奔走されました。雪などめったに降らない地に育った私には、実感を持って理解することはなかなか出来ないのではないかと心配していますが、半年を雪で閉ざされ、自治体予算の相当額を除雪費用にとられる地域の代表格は、庄内でしょう。雪の季節は農家の男どもは都会に出稼ぎに出掛けていました。放っておけば、この皆さんは都会のやり手経営者に散々搾り取られるだけ。そこで、組合を作って団結し、お互いも助け合い、良好な雇用条件も勝ち取ろうというのだと思います。
私も、阿部さんと一緒の政党運動に関わるようになった当初は、庄内での出稼ぎ者組合の皆さんの行事に呼ばれたことがありました。三十年以上も前のことで、今となっては、とにかく大変な熱気に溢れていたのを思い出すだけです。この皆さんを束ねていくことは、大変な仕事だと思います。阿部さんは上京して法政大学を出ていますが、頭で考えた理論をいかに振り回してみても、誰もついて来ません。出稼ぎの皆さんに寄り添い、感性を共有することが大切なのでしょう。阿部さんはそれが出来る人でした。
私の父、江田三郎も、農民運動の出身でした。戦前、大学生のときに小作争議に飛び込み、中退してそのまま社会運動家となりました。その父は、女性にはまだ選挙権のない戦前に、都市部でなく、郡部の一名区で県会議員に当選していました。やはり、小作の皆さんの困窮に寄り添い、この皆さんと共感の弦を震わすことが出来ていたからだと思います。「貧農の言い分は いつでも正しい」という父の揮毫の碑が、今も岡山県の田舎に残っています。
そのようなこともあって、阿部さんはちょっと先輩格の父と社会党内で行動を共にし、「江田派」の幹部になっていました。第二.一団を引き連れて新しい運動に
その父が一九七七年、離党して新しい政治をめざして旗揚げし、わずか二ヶ月足らずで他界してしまいました。多くの仲間たちが、それまでは父のことを絶賛していたのに、いざとなると容易には行動を共にすることはありません。荒海に船長を失って流浪するボロ船に、誰が酔狂に乗り込んでくるでしょうか。行動を思いとどまった皆さんを責めることは出来ません。しかし、父の他界の後に裁判官を退官してミニ政党の舟をこぎ始めた私としては、何としても仲間を募らなければなりません。大柴滋夫さんとともに、田英夫さん、楢崎弥之助さんたちと語らい、一緒に庄内まで来て阿部さんを捕まえて話しをしました。正直、その時の阿部さんのお返事は曖昧でした。しかし、阿部さんは行を共にされました。
それどころか、何と庄内の同志の皆さんが、守屋吉夫さん、関口修さんをはじめとして揃って動かれたのです。確かに阿部さんの返事は、「待ってくれ」というもので、これを曖昧と受け止めたのは、私の理解の浅さだったと反省しています。その後の政党の離合集散や民主党による政権獲得とその後の惨状は、皆さんがご存じのとおりです。アベと発音こそ同じですが、現在の安倍晋三政権の指向するものは、阿部昭吾さんの目指してきたものと正反対といえるでしょう。民主党の使命は、限りなく重大だと思っています。今こそ阿部さんのことばを聞きたいとの思いがしきりです。第三.故里のこと、庄内空港
阿部さんについてもう一つ付け加えておかなければならないのは、誰よりも勝る郷土愛です。その最たるものは、何と言っても庄内空港にかけた情熱です。郷土の為ならいかなる困難も厭わず、いかに高い障壁でも楽々と飛び越えます。阿部さんは、与党の有力者と水も漏らさぬ協力体制を組み、この空港の完成に漕ぎ着けました。第一便が庄内から羽田に飛ぶとき、これに搭乗するのは阿部さんの当然の任務だったと思います。ところが何と、その日は阿部さんが、衆議院本会議で永年勤続表彰を受ける日でした。
晴れがましいことが重なった時、天も多少の嫉妬をするのでしょうか。庄内はその朝、激しい雨となりました。第一便が遅れるという連絡が届き、本会議開会に間に合わないかもしれないとなったのです。今だから、白状しましょう。私は当時、衆議院議員で社会民主連合代表でした。わが党の大先輩が誇るべき永年表彰を受けるのに、本会議に遅れたのでは何とも様になりません。私は意を決して、本会議が始まる時刻の直前に、桜内義雄議長を議長室に訪ねました。事情を告げて時間調整をお願いするのは、議長を巻き込むことになります。事務方が知恵を働かせてくれることはあっても、議長に累を及ぼすことは出来ません。
そこで私は、お茶を所望しながら、四方山話を始めたのです。議長も事情は知っていたのかもしれません。しかし二人とも、そのようなことは全くおくびにも出さず、雑談に終始しました。何分話したか、覚えていません。それほど長くはなかったと思いますが、それでも五分程度はあったでしょう。もはやここまでと、私も諦めて、話を打ち切って議長室を出ると、何と向こうから、阿部さんが、あの人懐っこい笑顔を満面に浮かべて、歩いて来るではありませんが。間に合ったのです。当時の運転手も、羽田から国会まで、かなりの配慮をしたようです。今となっては、すべてがただただ懐かしい思い出です。
今、目を瞑ると、あの時の阿部さんの顔が浮かんできて、まだそのあたりから姿を現すのではないかとの錯覚に駆られます。しかし、時は流れ、多くの人とともに阿部さんも、幽冥境を異にすることとなりました。阿部さん、今はどうぞゆっくりとお休みください。そして、時には私たちに、正しい道を教えてください。
さようなら。平成二十七年三月二十二日
参議院議員 江田五月
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