2011年法政大学大学院政治学講義 ホーム講義録目次前へ次へ

2011年12月23日 第15回「政治と学生」

 今日は最終回、15 回目の講義になります。

 前回は憲法論議についてお話をしました。現法憲法の制定に瑕疵があり、自主憲法の制定を求める人は今も昔もいるものですが、その人達の意見はこんなものだろうと紹介して、私なりの反論をしました。大切なことは、世界の憲法史の中に日本の憲法を位置づけることです。1945 年の段階で日本の未熟な憲法制定権力が世界史の中に登場してきたのです。私の意見ですが、人権宣言や市民権規約などの世界の流れを通じて、地球憲法とも言うべき世界共通の憲法規範を生み出す世界の動きがあり、先にお話しした日本の未熟な憲法制定権力が結びついて憲法ができました。法的核心つまり憲法の基本原理を強調し、これからの憲法論議をすることが大事であるとお話ししました。

 今の憲法は当然、時代背景や時代の制約をもって生まれています。その上、私たち日本国民が投票行動によって憲法に意思表示していないことを考えると、私たちのような純粋な戦後憲法世代が次の世代に対する責任として憲法論議をしていかなければなりません。その方法が加憲であれ、全面起草であれ、議論を避けるのではなくて、そういう態度をとっていかなければなりません。

 安全保障基本法について少し紹介しました。何年も前になりますが、私が提唱したものです。

【21世紀ビジョン】
 今回は私の個人史についてお話しをしたいと思います。昨年の参議院選挙の際に、私は民主党のマニフェストの他に、長期の視点からこういう世の中を作っていきたいということを訴えようと思い、21世紀ビジョンをつくりました。これは私のホームページに掲載してありますので、ぜひご覧ください。内容を詳しく紹介することはしませんが、これからの日本と世界が進むべき道についてまとめたものです。参議院選挙では、私も民主党公認の候補としてたたかいました。マニフェストというものは、選挙をして政権を担当したらその期間にやることを訴える性質のものです。余談になりますが、朝日新聞には「マニフェスト総崩れ」という記事がありましたが、まさに個別のテーマを列挙して、それをどうするかがマニフェストの内容になるわけです。しかし私は、その他にも個別のテーマだけではなくて、長期の展望をもって国のあるべき形を訴える必要があると思ったのです。それは昨年の参院選は、民主党にとって大変な逆風だろうという情勢もありました。「21 世紀ビジョン」は多くの人の協力を得て書き上げました。例えば、作家のあさのあつこさん、ジェラルド・カーティスさん、政治学者の佐々木毅さんと杉田敦さん、水島広子さんなどに意見を伺いながらまとめたものです。「ビジョン」では、20 年先のビジョンを出すこととしたのですが、なぜ20 年なのかというと理由があります。昨年、初めて女の孫ができまして、その子が20 歳になった時にこういう世界になれば、という願いを込めたのです。おじいちゃんとしては、男の孫は勝手に大きくなるでしょうが(笑い声)、女の孫はそうはいかない。ホームページにもたびたび出ていますが、桃ちゃんという可愛い孫です。そんなことを考えながらつくりました。

 「ビジョン」では4 つの分野で21 項目をあげました。21 世紀だから21 項目としました。4 つの分野とは生活、経済、公行政、世界です。その中でも皆さんにお話ししたいのは、環境についてです。これからの世界では環境が大きなテーマになってきます。私からお願いをして就任したわけではありませんが、菅内閣のときに環境大臣を務めました。震災があって様々な問題が噴出していたときに、国務大臣の枠を広げることができませんでした。菅さんはおそらく一番無理の言いやすい私に環境大臣への就任、実際は兼任を言ってきたのです。それはいいとして、環境について考えると、やはりこれからは文明観が変わって行かざるを得ない。世界の流れとして文明観が変化してくると思うのです。これまでは、自然と対抗し、自然の恵みから最大限のものを絞り出してきました。しかし、3.11 によって人間の思い上がりであることがはっきりとしました。地震、津波、原発事故で大変なしっぺ返しになったといえます。「21 世紀ビジョン」は大震災前にまとめたものですが、その主眼はアジアの文明観を広げていく必要がある、儒教とかそういうことではありません。日本は科学技術立国です。それと文明観を結合させて東アジアを結び合わせ、共生の社会をつくっていくこと、これがこの先20 年のテーマではないかと考えたのです。

 これが選挙でどの程度功を奏したのかは分かりませんが、参議院選挙というものは、ちょっと長いスパンで国のビジョンを訴え、国民にそういうことを考えてもらう機会になります。参院選が政権選択選挙ではないからこそできることであると思います。

【江田三郎の個人史】
 今日はこの講義を終えるに当たり、私と私の父(江田三郎)の個人史を述べて、こんな時代もあったと若い皆さんの参考にしてもらいたいと考えました。また、次の世代への伝言も申し上げたいと思います。

 私の誕生日は名前の通り5 月です。1941 年の5 月に生まれました。ご存じの通り、今年で開戦70 年になります。私は戦前の生まれですが戦前世代ではありません。戦争の記憶もありません。戦前生まれでありながら、私の記憶で戦争のことを語ることのできない世代です。ですからここでは、戦争へと向かう時代にこんな人間が存在していたということで私の父の話をします。

 最近、労働組合などの学習会にいくと、江田三郎のことを知らない人が多くなってきました。父は明治40(1907)年に、岡山県の福渡というところで生まれました。家系図とにらめっこをすることに興味がないので、父の生家がどういう家なのか私にはよくわかりません。ただ、先祖は下級武士であったと聞いています。明治になって版籍奉還がなされると少しお金をもらったようです。その金を元手にして養豚業をやったようですが、殿様商売で失敗し、製麺業をやっていました。製麺業といっても、家族全員でやっていたのです。しかもその当時は、スーパーで売られているようにパック売りではなくて、盆の上に麺をのせて売り歩くのです。父が子供の頃は配達を手伝うとか、うどんを売って歩くということがあったようです。こうして子供の頃を過ごしていたのです。

 菅直人さんは私の父と一度会ったことがあるそうです。東京のある体育館でシンポジウムがあったとき、菅さんに「一緒にやろう」と言ったそうです。また、菅さんのお父さんが「江田三郎さんは私の先輩です」
と言ったそうで、こういうところに縁があるものだと思いました。

 父は小学校を卒業して勉強はおしまいになりましたが、父にはソウルに嫁いだ姉がいたらしく、その人からソウルに来るならば進学をさせてくれると言われて単身ソウルに向かいます。この姉のことが気になって調べてみたのですが、誰なのかよく分からないのです。私が知っている父の姉とは違う人らしい。これは戸籍の制度が今と昔で違う事に原因があるらしい。今は戸籍の筆頭者がいて、その配偶者と子供が記載されていますが、昔の戸籍では戸主が中心になっていて、伯母や姪などまで記載されていたから、自分とは縁遠い人も一緒の戸籍に入っていたのです。

 果たして父は、ソウルにある善隣商業学校に進学しました。なかなかの名門校で、大倉財閥がつくった東京経済大学の姉妹校として創立されたということで、そこに通うことになりました。ソウルにいたから朝鮮語に堪能であったかと言えばそんなことはなくて、植民時代でしたから、創氏改名で「共生」していた時代だったために韓国語を勉強しなかったらしいのですが、韓国の友達はずいぶんいたようです。

 ソウルに行って目に飛び込んできた光景がありました。人力車がありますが、車夫と客との関係にびっくりしたのだそうです。日本では当然、車夫に客がお金を渡します。しかし朝鮮半島では、車夫は朝鮮人、客は日本人です。お金を払う段になると、客はお金を放り投げるのです。同じ人間なのに、これは違うのではないか、こんなことを許す植民地支配はおかしいと思い始め、政治に入るきっかけとなりました。

 日本に帰ってきて神戸高商に進学しましたが、病気で養生するために在学中に帰ってきました。地元で農民運動に関心を持って、大学を辞めようと思い、本科2 年のときに中退して農民運動に飛び込みます。
農民運動は全国各地で盛んに取り組まれていましたが、なぜそこまで盛んだったのかというと、当時の土地関係が大きく影響しています。今の皆さんには分からないことかも知れませんが、昔の農民は地主から土地を借りて農業を営む、小作農が主体でした。小作農の農家は収穫から小作料を渡します。収穫の何割ということではなくて、予め決められていた小作料でした。力関係を見ると地主が圧倒的な強さです。そうすると大変なのは農家の側になります。特に東北地方では冷害のときなどは娘の身売りが起きたほどでした。地主は土地を持っているだけ、農業をしているのは農民です。そこで小作農の権利を確立しようとしました。その性格は生活を守る運動だったらしいのですが、小作農を助ける農民運動は全国的に展開されていました。そういう運動のなかに飛び込んだのです。農民運動の先輩に山川均さんという方がいました。その夫人の山川菊栄さんは、労働省で婦人少年局長になった方で、初めての女性局長でした。

 江田三郎は県内各地の小作争議を指導して歩きましたが、単なる扇動者ではなくて、世界のニュースを教えるなど、良心的な活動をしていました。そのためか、地主のなかにも父を支持してくれる人がいて、良心的な地主からも信頼されていました。農民運動だと地主は敵になるのですが、父の場合はそんなことはなくて、なんとある地主の紹介で結婚をします。しかし結婚式の当日、父はメーデーの行進で検束されてしまい、新郎不在のまま挙式が執り行われることになりました。予防拘禁だったためにすぐに帰してもらいましたが、そういう結婚式だったのです。

 当時、父が本拠としていたのは岡山県の郡部でした。県議選では1 議席が配分されていたのですが、そこで父が当選します。しかし小作争議の中で治安維持法に問われ、2 年8 か月の獄中生活を経験します。
そのとき母は行商で食いつなぎ、父に差し入れをしていました。

 10 月頃、母が面会に行くと、父は「シリウスはまだ見えないか」と聞いたそうです。シリウスはおおいぬ座の一等星で、中国では天狼星と呼ばれています。古代エジプトでは、シリウスが見えるということは新しい時代の幕開けを意味したそうです。つまり、父がシリウスのことを聞いたのは、新しい時代の流れは見えたのか、と尋ねたのです。

 獄中生活はいろいろあります。我が党には獄中何十年だと言っている人たちもいますが、色んな人が獄中で過ごしているものです。父はあきらめが早い方なので、第一審で刑に服しました。獄中闘争などはしなかったのです。出所した後は葬儀屋を始めました。西田天香という一燈園という宗教者に出会い、トイレ掃除などをして歩きました。この人の系列にある交詢社という葬儀屋で葬式哲学を学びます。しかし支配人を馘になって、中国の河北町に向かい、水利工事の監督をやっていました。インフラの整備は、戦争でどちらが勝っても役に立つというのがその理由であったそうです。

 私が覚えているのは、ある日帰宅した父がたくさんのみみず腫れを作っていたことです。原因を聞くと八路軍に日本軍国主義の手先、スパイであると疑われて拷問を受けたということでした。しかし、スパイではないということが分かり、没収された荷物がそのまま戻ってきました。日本軍が各地でしたことと対比すると、さすが八路軍は統制が取れていると感心したものです。

 1945 年、日本は敗戦を迎えます。それまで、日本人からは中国に通じる手先と疑われ、中国人からは軍国主義の一味と思われていましたが、戦争が終わってみると、どちらからも慕われていました。母は昭和20 年に産まれた子供を背負って、私の手を引いて引き揚げます。帰国後父は農民運動に復帰します。そして戦前同様に県議になりますが、すぐに辞めてしまいます。ある年の暮れに鰤をもらい、県議全員が食べたのですが、この鰤が配給ルートに乗っていないと批判されてしまったのです。父はすぐに辞表を出してしまいました。潔いというほかありません。残念ながら補欠選挙では落選してしまいますが、県議になれないならば国政へということで衆議院選挙に一度落選したものの参議院選挙で当選します。このような状態でしたから、私が物心ついたとき、家は本当に貧乏でした。雨漏りがあるなんてまだ良い方で、ある日縁側の梁が落ちたときはびっくりしました。私はこんな中で幼少期を過ごしたわけです。参議院議員になったのだから歳費をもらっているだろうと思いますが、父はその歳費を社会党の日刊紙創刊につぎ込んでいましたから、家にお金が入ってこない。母は家のものを質入れしてなんとかやりくりしていたようです。

 これは今でも覚えているのですが、ある日来客があったときに、お菓子を買ってこようかと母に言ったら、後で大目玉を食らいました。私はお客さんに出した菓子のおこぼれに預かろうとい魂胆だったのですが、実は菓子を買う金にも苦労していたのです。このことは今でもはっきりと覚えています。酷いことを言ってしまったなと思っています。一方父はといえば、そういう中で社会党の幹部になり、構造改革論争をしていました。しかし闘争に敗れて社会党を離党します。その後新党を立ち上げたときに死んでしまいました。私の父はこういう人間でした。

【江田五月の個人史】
 私自身はといえば、中国から引き揚げて以来、ずっと岡山で過ごしてきました。しゃれたことをやりたくてバイオリンをやったりもしました。あと水泳、特に古式泳法に没頭して、小中高ずっと水泳をやっていました。今は9 段になります。中学の時は写真部をつくって理科教室を占領したり、いたずらをたくさんやりました。

 高校時代になってもじっとしていられない質なので、水泳部に所属して競泳大会に出場しまししたし、書道部にも属してキャプテンを任されるなどしました。3 年生に進級して、さぁ受験だと思ったら、生徒会の総務に当選してしまいました。困ったと思いましたが、受験勉強はいつでもできるということで、3 年の年明けまで生徒会にのめり込んでいました。生徒会というところは面白いところで、下級生が喧嘩で相手に大けがをさせてしまい退学になりそうということがありました。生徒会としては、この退学処分に関与していないので職員会議に乗り込みます。結局この生徒は退学になってしまうのですが、この方とは今も仲良くしています。ある有名な教育者となって、私立高校の理事長になっている方です。

 当時、運動会ではファイヤーストームというのがありました。2 年連続でやらなかったので、今年やらなければ伝統が消えてしまうということで、消防署に届け、実現させようとしました。生徒総会では決行すべきと言う議案を出したのですが、そもそも総会の定足数が足りなかった。それでもやろうということになり、学校側と対立します。生徒指導の先生に呼ばれ、「このまま実行するならあなたは退学処分、自分も退職する」ということになりました。退学になったら大検をとらなければ行けないということもありましたが、運動会中に事故があったために、結局これは実行しないことになりました。

 そんなことをやっていたので、生徒の結束も強くなっていました。受験で煽られているということもありましたが、それだけではないと思います。ある先生からは「学生から学を取ったら『生』しか残らない」と言われましたが、そんなことはないと言い合いをしたり、他の先生とは「やめろ」「やめない」の言い合いをしたりしました。生徒会で活動していたことで、先生の根性を見たような気がします。

 そんなことばかりやっていたので、本当に受験勉強をやる暇がないくらい、忙しく過ごしました。年が明けて時間ができたので受験勉強をして、運良く大学に合格します。1960 年に大学に入学しましたが、この時期は60 年安保の真っ最中でしたから、まずは入学式でオルグされます。クラス討論もやりました。自治委員を選ぶ選挙では、私が立候補したら当選してしまいました。当時の学生運動の回想を見ると、江田五月は暴力主義だと批判する人もいますが、それは違います。たしかに一部の人、社学同などは暴力主義的でしたが、現実的には武装闘争は無理なのです。4 月26 日に東京大学教養学部がストライキをします。
数から言えば半分の参加でしたが、全員参加したという感じを持っていました。大勢が参加しているのですから、暴力と言うことにはなりません。国会突入をしたときは警官で棍棒で殴られた人もいました。樺美智子さんが亡くなったのもその頃です。自治会の委員長選挙では五派が乱立して私が当選します。副委員長も私と同じ系列の人が当選します。このままいくと三年生に進級してしまいます。東大では3年になると学部が変わるから、委員長を辞めなければならないと言うことで、きちんと単位を落として留年しました。ある日、ひょんなことから自民党本部に突入しようと云う事になりました。60 人くらいが部屋に通されて外からカギをかけられてしまいました。住居侵入ということで逮捕されてしまいました。自民党の人が「こちらへどうぞ」ということで入ったのに合点がいかない所はありましたが、これはもう仕方ないことです。留置場の生活を体験することになりました。

 さて、検察の側では私を起訴するかどうか悩んでいました。父が議員なのですから、とりあえず父が謝りに来れば許してもらえるということになりました。しかし父は拒否します。これには検察官が困ってしまい、処分保留のまま釈放されました。しばらく静かにしていたら起訴猶予になりました。

 秋には大学管理制度反対闘争が起きます。当時、大学では学生運動が盛り上がっていて、文部省にしてみたら頭にくるわけです。上から下まで文部省の意図が届くようにしようということで管理制度を作ったのですが、学生は反対闘争に立ち上がります。私たちは教養学部自治会でストライキ決議を出します。考えてみればおかしな話で、授業を受けるために学校に来ているのに、その授業放棄の議案を機関の会議で提案するのです。この提案をうけて会議を開きました。大学の決まり上、ストライキを提案した者、会議を開いた者、指揮した者は懲戒処分を受けることになっていましたから、1 人でその処分をかぶろうと思い、自分で提案して自分で会議を開き、自分が議長になりました。そうしたら学部長に呼ばれ、退学を宣告されます。自治会に戻ってみると、「なぜ退学処分の通知書をもらうのだ」ということで「処分撤回闘争だ」となるわけです。しかし私としてはそんなことはしたくないので退学しました。残念なことに副委員長、この人は社学同でしたが、停学になってしまいました。ちなみに、私が受けた退学処分の上には除籍という制度がありますが、懲戒処分の最高は退学です。退学というのは1 年経過後に再入学ができます。停学は払った授業料がそのまま適用されますが、退学は再入学なのでもう一度払わなければなりません。退学中の話は次に述べますが、1 年経過後に大学に戻りました。自治会活動はやめました。いろいろ考えるところがあって、学生運動を革命闘争の中に位置づけるとか、プロフェッショナルな運動家に疑問を持っていました。

 退学中はいろいろなつてがあって、外国を回っていました。半年ばかりユーゴの貨物船に乗り込んでクロアチアのリエカというところに行きました。船中では、船員さんと飲み、歌を教えてもらいました。この時に教えてもらった歌があるのですが、その後議員になってからセルビア人の方に会ったとき、この歌を歌ったらえらく感激してもらったことがあります。まさに芸は身を助く、ということです。

 客室で一緒になったのはイギリス人の年金生活者で、その人には英語をたたき込まれました。ユーゴスラビアからチェコを経て、ソ連に向かいます。当時「わがソ連は共産主義の第二段階だ、能力に応じて働き、必要に応じて受け取るという社会に近づいている」と標榜していましたが、実際に見てみると、そんなことはありません。市場は機能していないし、ヤミ屋も横行しています。ある時に「あなたの時計が欲しい、代わりに私の女房を世話するから」とまで言われて困ってしまったことがあります。断りましたが、社会主義が理想郷だというのは違うのだと思いました。一方でロシア人は愉快な連中だなということは体で経験しましたから本当に楽しかった。

 大学に戻ると法学部では丸山真男先生のゼミに入って、吉野作造を取り上げて研究発表をしました。そのときに丸山先生から「あなた方は卒業しても政治の勉強はするだろうが、法律の勉強はしないだろう。
法学部なのにもったいない」という意味のことを言われたので、法律の勉強を始めます。司法試験を受けてみたら通ってしまったので、研修所に2 年、弁護士になるのも嫌だったので裁判官になりました。裁判官になってみたら2 年間留学せよということで、オックスフォードに留学しました。

 この留学を決めるとき、本当は辞退するつもりでした。留学してしまったら裁判所を辞めることができなくなってしまう、一度事務総局に留学を断りに行きました。そのことを父に報告したら、「そんなことは気にするな、夏目漱石を見よ、一高の教官で留学したのに、その後辞めて作家になったではないか」と言うのです。夏目漱石を引き合いに出されたことにびっくりしましたが、そんなものかと思い、翌日事務総局に行って撤回します。その時その時で、自分の精一杯のことをやっておくことで次に続くものです。一人一人の営みが大きくつながって歴史を作っていくのです。歴史の中で生きた、という痕跡を残してもらえたら、と思います。

 今の人は想像もつかないことかもしれませんが、父の時代や私の若い頃の時代があったと言うことを語り継いでいただければありがたいと思います。

 政治の世界に身を置いていると、進歩とはこういうものではないかと思うことがあります。環境や平和、人権、暮らしが安定的に定着していくことが進歩なのではないかと思うのです。私はそのような流れを市民政治と言っています。物事の判断基準として、この施策は市民政治にとってプラスかマイナスかということになります。

 政治の階級性について、この講義では少し突っ込んで話をしました。マルクスのテーゼを踏襲するつもりはありませんが、市民にとってプラスになるものが進歩であり、政治の流れがそれに沿っているのかを見なければいけません。今の日本の政治状況も、そのような切り口で見る必要があります。

 私たちはこれまで、自民党一党政治のなかで課題を先送りしてきました。今の政治はその結果です。多くの宿題が残っているなかで政権交代を果たしたわけですが、新学期を迎えるためには、前の学期の宿題を全部終わらせなければいけません。では宿題を終わらせようということで、社会保障や増税など、国民に嫌われていることをやっています。野田内閣は宿題を終わらせることが使命です。前の学期で出された宿題とは一体何なのかを、国民の皆さんに理解してもらわなければいけません。国民にとっては苦いことを言うな、と思うかも知れません。その上で、国民というのは観客ではありません。政治の当事者なのです。今日ここにいる皆さんも政治の当事者です。このことをぜひ覚えていてほしいと思います。

 それでは講義はこの辺にして、質疑応答の時間とします。

問】「21世紀ビジョン」に市民参加の枠組みを広げる、と書いてありますが、具体的には何を指すのでしょうか。

【江田】具体的にはNPOへの寄付に対する優遇税制で、これは実現しました。

【問】私の研究テーマは市民によるガバナンスのスタイルについてです。江田先生にぜひお聞きしたいことは、市民参加の具体的な手法やその可能性ついてぜひ教えて頂きたいと思います。

【江田】大きなテーマとして「新しい公共」というものがあります。市民参加ということは大切であると思います。例えば、被災者生活再建支援法の成立は、市民運動によって掲げられた法案を立法したということをお話ししたと思いますが、市民参加で法律とか、いろいろなものを動かしているのではないかと思います。

 市役所の職員はそういう動きのお手伝いをするにとどめて、市民の参加によって企画を行うということが、ますます進んでくると思います。例えば湯浅さんたちの年末年越し派遣村などは、炊きだしなどの企画を市民が行い、それに対して行政が手伝いを行いました。

 また、学校経営でも市民の参加が重要と思います。民主党の教育政策には、地域で学校委員会をつくり、市民の皆さんに入ってもらい学校経営をやろうという構想があります。これは地域の皆さんと言ったとたんにPTAの人が大挙して入ってくるとか、そういうことも考えられるので、これについてはまだ進んでいません。

【問】世界情勢の話のなかで、TPP問題がクローズアップされています。TPPには中国が入っていません。中国が入るかどうかは別として、東アジアでまとまることは重要と思います。一方でアメリカとの関係も大切です。今の日本が置かれた国際環境を踏まえて、世界をどのように見ればいいのでしょうか。

 また、北朝鮮の情勢は非常に心配です。江田先生はどのように見ていますか。

【江田】個別的、その都度の政治判断はあると思いますが、私は全体を見る必要があると思います。地域統合の話だと、第二次世界大戦後にベネルクス3国の共同から始まったEUがあります。ヨーロッパでは、国境の壁を低くしていくことを目標にしています。そうなると主権国家はどうなるのか。かつて主権国家は猖獗を極める〔悪いことがはびこり、勢いを増す事〕という時代もありましたが、それが弱くなっていきます。しかし主権国家が弱くなったからと言って、世界がのっぺらぼうになっていく、ということではありません。EUとしてまとまっても、ドイツとフランスの対立構造は変わっていません。そのような中に日本が置かれている、という大きな前提を置いて考えるべきです。

 中国に対する考え方の質問がありました。まず、どのような国であっても、国民を意識せずには政治判断できない時代になっています。中国はこれから苦労するだろうと思います。権力を見れば、胡錦濤から習近平へスムーズに移行がなされるのか、彼らも慎重に情勢を見ていると思います。日本と中国の間の緊張を激化させないようにしながら、それぞれの国でも、緊張が盛り上がらないようにしなければいけない。

 中国では天安門事件がありましたが、私は非常に腹が立ちました。私は中国のことを大事に思っていますが、天安門事件はけしからん、もう中国には行かないと要人に言ったことがあります。結局10年間行かなかったのですが、もし今もあのような押さえ込み方をしたらどうなるのでしょうか。中国は難しい判断をしなければならない時期に来ています。

 TPPについては、これからもずっと問題であり続けると思います。この講義でもお話ししましたが、TPPへの参加について損得で判断することはやめた方がいい。日本がTPPの協議を開始すると言った途端に、参加表明をする国が出てきました。また中国も反応を示しました。自分達だけではなくて、そういう流れの中に位置づけて考える必要があります。世界の自由貿易、国境の壁が低くなっている時代に乗り遅れたくないと思っている国はたくさんあります。日本がそういうことを推進できるような役割を果たすことが必要です。

 北朝鮮がどうなるか、私には分かりません。しかし、なにもせず傍観しているのではなくて、緊張が高まらないようにいろいろやった方がいいと思います。

【問】21世紀ビジョンについて、マニフェストでは直近しか見えないという江田先生の説明には賛成です。チルドレンファーストという項目がありましたので、それについて質問します。私は地域活動をしていますが、子育てをしている中で感じることがあります。まず学習指導要領が最近変わりましたが、これはどのようなビジョンで変わったのかが見えてきません。ゆとり教育からの脱却ということは分かりますが、家族の中で子供を育てることが難しくなってきています。政策の大段から見て、政策付けや予算付けをして欲しいと思っています。

【江田】教育を語ることは非常に難しい。人を教育できる人間がどれくらいいるのか、そういう問題に突き当たります。ゆとり教育は悪いことではないと思いますが、やってみたら学力低下が問題になった。私の考えですと、教師や地域社会に「ゆとり教育」を使いこなす力がなかったから失敗したのだと思います。

 私は衆議院議員のときに文教委員会に所属していました。日本の教育の問題は二つあると思います。第一に、問題は先生が与えてくれること、第二に答えが必ず存在することです。これを転換して、問題は自分自身で見つけること、そして答えがない場合もあることを、子供の頃から教えた方が良いと思います。だいたい、そういう勉強では知識として残らないのです。私などは高校時代に勉強したはずの三角関数がなんなのか、全くわかりません。受験のための勉強はちょっと違うのではないかと思います。チルドレンファーストについては「ビジョン」を見てもらいたいのですが、子供に金をかけて塾に行かせて受験勉強させるということがチルドレンファーストなのだ、ということではありません。
 
 時間になりました。今年度の講義はこれで終わります。皆さんお疲れ様でした。


2011年12月23日−第15回「政治と学生」 ホーム講義録目次前へ次へ