2011年9月30日 第3回「野田政権の使命(続)」
【前回のおさらい 政権交代の意義】
前回の講義では、民主主義とは何か、民主主義にとって政権交代が何故必要なのかについてお話ししました。人間は間違いから自由になることはできません。独裁制のように、この人に任せれば、この集団に任せれば間違いはないというのは違うのです。人は必ず間違いをします。その間違いを修正できることが大切です。つまり、間違いを修正して、大枠として正しい幅の中に入っていくということが民主主義なのです。比較的小さな間違いが起きて、これを選挙での投票行動によって正すのです。自民党政権の時のように、政権を担当する政党が実質的に1つしかないのであれば、これは正しようが無いわけです。どうしても選択肢が必要になります。政権を交代する政党が実質的に自民党だけであったというのは、万年野党と万年与党だったからです。この構図が2年前の政権交代によって崩れたわけです。これが民主主義の第一歩になったわけです。
万年与党と万年野党という言葉がありました。自民党政権が長期間にわたっていましたので、野党は野党ボケをしていました。野党ボケとは何でしょうか。与党は常に現実と向き合うわけです。現実は矛盾の塊であり、これを動かしていかなければなりません。その点では野党は楽なのです。私もずっと野党でしたから、右から左から、上から下から、どこからでも批判をしていいわけです。現実を動かしていく必要がありません。与党は格好が悪いものです。しかし、民主党のように怒鳴り合いばかりしていては、なかなか前に進みません。そのような状態が2年間ずっと続いてきました。皆さんには非常に心配をかけたわけですが、野田政権になって政権交代の第二期に入り、安定期になってきたといえるのではないでしょうか。野田さんは自らの個性をドジョウに喩えました。余り派手なことはしないということです。
鳩山さん、菅さんの時代は受け狙いが強すぎたのかも知れません。国民の皆さんも食傷気味でした。
【死刑制度について】
皆さんからの質問で、死刑制度に触れて欲しいという声がありました。
端的に言うと、人間の営みは過ちから免れません。この点は私が考える、死刑制度の問題点とリンクするものです。この点については後ほど触れますが、死刑問題はさまざまな側面があります。法制度、法解釈、刑事政策、人間に対する理解、世界の流れ、刑罰についての歴史的経緯など、死刑というものは幅の広い考察が必要なのです。
団藤重光(1913−、東京大学名誉教授、元最高裁判所判事)という方がいます。1991年に『死刑廃止論』(有斐閣)を書いた方です。裁判官になる前までは死刑についてあまり言及しませんでしたが、最高裁判事になって、様々な経験を経て、死刑の廃止論にたどりつきました。団藤先生は法律論から本を書かれました。私はこの本の初版について書評を書きました。『書斎の窓』(有斐閣)という雑誌です。よろしければ是非ご覧ください。
中山千夏(1948−、作家、元参議院議員)さんという方も死刑廃止を主張していますが、中山さんは法律論というよりも、人間の感性に訴えるような書き方をします。
刑事裁判ももちろん人間の営みです。だからこれも過ちから免れ得ないのです。亀井静香(1936−、衆議院議員)さんという賑やかな方がいます(笑い声)。普段の彼の言動から、まさか彼が死刑廃止論者であるとは想像できないのですが、亀井さんも、刑事裁判とは間違うものであると言っています。彼は警察官でした。警察が身柄拘束して、密室の中で取調を行うわけです。拘束されている人の心理として、このような場合に事実とは異なることを話してしまうのだそうです。
たとえば、村木厚子(元厚生労働省局長)さんという方が、障害者郵便制度を悪用したとされる事件(「凜の会」事件)で逮捕され、刑事裁判になりました。無罪どころか検察が見立てでストーリーを作り、それにしたがって取り調べをしたわけです。多くの被疑者が取り調べを受け、村木さんの他は全員違う事を言っている。これは自分の方が間違っているのではないかという心理的圧迫を受けるのです。
裁判は証拠に基づいて真実を発見するというのが建前ですが、この建前は裁判上での真実であります。本当の真実は神のみぞ知るのですが、これに近づこうとするのが裁判です。しかし、この両者が同一であるという保証はどこにもありません。絶対的真実と手続き的真実の差は制度上修正できる保証が必要です。
検察の問題や裁判の問題で、最近は冤罪ラッシュであると言われています。私は、少し大げさではないかと思うのです。足利事件は再審請求により無罪に、村木事件では検察が控訴を断念したため無罪が確定しました。これらの事件を見ていると、私は提訴された段階で有罪であるという風潮はどうかと思います。間違って起訴することがあるわけで、だから裁判があるのです。起訴された段階では無罪の推定という原理があって、これは大切にしなければなりません。
今は裁判員裁判という制度があります。これまでの刑事裁判とは全く異なった流れ、言葉遣いとか、こういうのは昔、弁護士と検察官が理解すればよかったのです。あまり歯切れの良いことを言うのはいかがなものか、ぼそぼそ言うのが良い裁判官であるとの評価でした。しかし裁判員裁判では違います。一般の方から選ばれた裁判員と話が通じないのでは話が進みません。弁護人や検察官も努力しています。
また、報道も変わってきています。前は逮捕された段階でばんばん報道していたものです。松本サリン事件などはその最たるものでした。逮捕された段階で容疑者を犯人扱いしていました。現在は、現段階で分かっている事実を報道するという姿勢になったといえます。無罪の推定、有罪判決が出るまでは無罪という建前は大切にしなければなりません。さらに、有罪になっても再審があります。再審によって有罪が覆り無罪になるということもあります。これも人間の行う手続きにとって不可欠のものです。
さて、冤罪ラッシュというのを見てみると、足利事件や深谷事件も、昔の事件が再審によって無罪になったのですから、現時点でえん罪がたくさん生み出されているとは言えません。
死刑制度について話を戻しましょう。命は一度失ったら戻すことはできません。命は有限です。私は、命というのは自然の摂理から命が尽きるということにした方が良いと思っています。国家が理性の営みで命を奪うということはしない方がいいのではないでしょうか。
私は菅内閣での法務大臣就任記者会見で死刑制度について質問を受けました。その時に「死刑は欠陥のある制度である」と言ったのです。欠陥というと法律に欠陥があるのかと批判を受けたので、「悩み多き制度である」と前言撤回し、言い換えました。死刑廃止は世界の潮流ですが、日本では死刑賛成の方が85%に上っています。私は死刑制度について問題提起をしておきたいと思います。
【野田政権の使命】
政権交代は革命ではありません。世の中のすべてをひっくり返すわけではないのです。しかし、前の政権の単なる継続では政権交代の意味がありません。交代した以上、やはり何か変化がなければいけないと思います。
このことについて前回述べたのは、日米関係です。野田さんは日米同盟を継続深化させるのだと言いました。これはこれで良いと思うのですが、単なる継続深化でよいのでしょうかという問題提起を前回みなさんにしました。日米同盟をどのようにして世界の構想の中に位置づけるのかという問題が残っています。それぞれの主権国家が離合集散したり、友人関係・緊張関係を持っているのがこの世界です。この世界の中で、集団安全保障(collective security)という概念、これは集団的自衛権とは違う概念についてお話ししました。
国内に目を向けると、自民党政権で形作られた矛盾を直していく必要がありますから、ある程度は連続線では無くて不連続線が生じるのが当然です。菅さんが終始言っていましたが、「利権政治」、「政治と金」の問題を変えていかなければいけません。自民党政治の悪いところをかえていかなければならないのです。例えば、前回お話しした中に、中選挙区制度の問題点がありました。なぜ小選挙区比例代表並立制という制度に変更したのでしょうか。私は中選挙区時代の政治を、族議員政治と言いました。中選挙区では1区あたりの定数は3人から5人程度です。同じ選挙区の中で例えば自民党議員が3人いたとすると、一人は建設族、一人は郵政族、一人は農水族という風に分かれていました。さらにその3人はその地域の土木会社、郵便局、農協という業界と密接に関わっていた。その上3人はそれぞれ自民党内の別の派閥に属していました。こうした政官財の利権構造は日本に根強く続いてきました。構造汚職という言葉もこれを元に生まれたものです。
この構図は1955年に自民党ができてから生まれたものではなくて、明治時代からあるものです。明治時代の日本は経済的に後進国でしたから、何より産業振興、当時の言葉でいうと殖産興業、国が産業を興し、それを民間会社に売却するという方法で経済を豊かにしていったわけです。この過程で政治家と官僚と大富豪が結びついて、国家と大産業が結びつく構造をつくってきたわけです。当然の結果として構造汚職がたびたび問題になってきました。造船疑獄、ロッキード事件、リクルート事件がありました。厚生、労働、文部の各省にも汚職がありました。公共事業の請負業者は、何も言われなくても自分の会社が仕事を受けるときに、地方の有力者のもとにお金を持っていく。受け取る側も自然に受け取る。この構造は次世代に引き継いではいけないのです。
小沢一郎さんの秘書に対する判決が出ました。有罪判決の認定事実を見ると、私たち民主党も、自民党政治から自由になっていないと思います。もちろんこの裁判は第一審ですので、これから控訴審があります。だから予断を持って判決を評価することはしません。この事実が変更になることは十分あり得ることです。
この裁判については、さまざまな意見がありました。「裁判官が推測で有罪にしたのはけしからん」という議論もあります。しかし推測と、判決で使われた「推認」というのは違うものです。まず、帳簿類などの客観的な証拠があります。あとは検察による取り調べ調書もあります。あの事件では調書のかなりの部分が証拠採用されませんでした。排除決定があったと思います。だから検察側の証拠に基づく立証ができないため、無罪になるのではないかというマスコミの「推測」がありました。そこで「推認」の話になります。裁判所は、裁判の中で被告人を尋問、つまり裁判官が直接見聞きをします。この過程で、質問に対する被告人による回答の間合い、表情すべてが証拠になります。自由心証という形で裁判官は事実認定をしているわけです。もちろん、事実認定には、それなりの論理が必要です。客観的な証拠も必要になります。これらを事実認定して、その事実に裁判官の経験則をあてはめて、別の事実を認定することを推認と言います。人間が皆持っている法則によって事実認定をするわけです。刑事事件では珍しくありません。
なぜなら、ある物が盗まれた、盗んだ物を持っている人がいた。そこで、盗まれた事実、盗品を所持している事実があれば、その人が盗んだという推認が成り立つわけです。この推認というのを否定するのであれば、自白に頼るしかありません。これは供述をとることが重要であって、この過程の中には拷問も入ります。これが昔の裁判でした。拷問は基本的人権に反しますし、しかもこれは客観的事実ではありません。拷問による自白、これを否定してきたのが司法の歴史です。やはり無理の無い範囲で推認を使わなければなりません。推認だからおかしいという批判は当たらないと思います。
民事裁判と刑事裁判の違いについて少しお話しすると、民事裁判では、続審といって、控訴審では第一審でのプロセスを続けます。つまり、第一審と第二審は一続きになっているのです。それに対して刑事事件では、第一審と控訴審は別々のものです。控訴審は第一審をチェックするので、第一審はかなり重要になるのです。
この事件に関連して、私も地元で「政治には金がかかるでしょう。子分も必要でしょう」と言われますが、私は返す言葉を失ってしまいます。政治家が金を集めるのは別にかまいません。でも、その金は埋蔵金から出すわけではないのです。私はみなさんから少しずつお金をもらって政治活動してきたのですが、どこからか大きな金をもらったら利権政治です。そのお金の出所はどこですか、ということが問題なのです。
田中角栄さんという方がいました。田中さんは行政情報を一足早く知ることのできる立場にいました。例えば、信濃川の河川敷を付け替えるという情報を知る。あらかじめその土地を安く買って、後に高く得ることで、非常にもうかります。しかし、損をするのは誰でしょうか。高値で買う人ですね。国民の税金がゼネコンへ、それが政治家に環流する。経済成長がずっと続いているのであれば、そういうこともあるかもしれませんが、今はもう、そんな前提は成り立ちません。
小泉時代にホリエモン(堀江貴文)という人がいました。株式を分割するなどし、巨万の富を得た人です。総選挙で広島から出た時には、総理大臣や幹事長が私の息子だとたたえ上げました。堀江さんは、みんなでお金を稼ぎましょう、日本中が六本木のようになりますと言っていましたが、そんなことは絶対にありません。堀江さんのお金儲けの陰で、年金生活の老人が泣かされていたのです。
長くなりましたが、このような構図を野田さんが変えてくれることを願っています。
【3.11 法務大臣・環境大臣として】
3.11東日本大震災が起きたとき、私は内閣の中にいました。1月14日に法務大臣に就任したときは、大地震のことなど予想していませんでした。ちなみに、私は2005年1月、参議院で小泉総理に、インドの大津波に関連して、原発の立地しているところに洪水がきたらどうするのかと質問していたのです。私自身忘れていたことなのですが、朝日新聞の「声」欄にそのような投稿があり、知りました。大変残念ですが、私の地元(西日本版)には掲載されていないものです。
さて、法務大臣就任当時、私が考えていたのは3月危機、つまり予算を仕上げる段階で両院のねじれ問題が表面化し、菅さんは辞任するということを心配していましたので、法務大臣の期間は長くないだろうと思っていました。もちろん、検察の信頼回復や法曹養成など、懸案はありましたが、それにとりかかる前に3.11がありました。地震発生当時、全閣僚張り付けで委員会が開催されていました。そのときは地震がこんなに大変なことになるとは思いもしませんでした。すぐに首相官邸に集まり、すぐに立ち直ったのですが、みんな右往左往していたのも事実です。緊急災害対策本部が開かれ、福島原発が危ないという話になりました。国会のあたりは停電まではなりませんでしたが、大臣、副大臣、政務官それぞれが暖房を落として、毛布にくるまりながらテレビを見ていました。夜はなかなか寝ることができず、朝は早くて、心身共に疲れていました。私はそのとき、父が亡くなったのと同じ年でしたから、いろいろ心配になったものです。
法務大臣として何をしたのかというと、廃棄物処理法というのがあって、廃棄物の定義があります。廃棄物は自治体が処理します。津波がきて去ったとき、所有権についての問題が起きたのです。廃棄物とは持ち主のいないもので、たとえ津波がきたとしても、そこにあるものには所有者がいるのです。だから廃棄物として処理できない。しかし、廃棄物というほかありませんでした。阪神・淡路大震災では、自分の敷地の上に、自分の建物が崩れていました。だから撤去処理も比較的スムーズにいきました。しかし、今回は土地自体が隆起陥没などによって動き、しかも津波によって流れてしまう。あり得ない場所に車や大型船が流れ着く。潮まみれ、ヘドロまみれ、そしてガソリンが漏れているわけです。そして、がれきの下には多くの行方不明の方がいます。そうしたものを片付けるための法的な定義づけというのが法務大臣の初仕事となりました。また、戸籍が流出してしまったという問題、死亡届の出し方、建物損壊の認定、地震後の土地認定、本当にいろいろな事をやっていました。その上6月27日から環境大臣も兼務しました。環境大臣というと、国立公園のお守りをやっていればいいわけではなく、毎日瓦礫と放射能との闘いでした。
この話は次回に続けたいと思います。
また、次回以降、参議院議長時代に仕事をしてくれた職員の方、それに3.11の後、ボランティアを束ねていた辻元清美議員にそれぞれお話をしてもらうことを考えています。
【質疑応答】
(質)死刑制度について、検察改革や司法制度とからめてもう一度話して欲しい。
(答)死刑制度は難しいところがあります。政権が安定して、人心が安定して落ち着いてから死刑論議をやった方がいいと思うのです。私が法務大臣の時はこのような理由から、死刑問題は脇に置いたのです。政治テーマに乗せるのは時期尚早かと思います。
(質)死刑の合憲性について。1948年から最高裁の判例は変更されていません。法秩序のあり方として、時代の流れとともに判例も変わっていくべきと思いますが、いかがですか。
(答)裁判では、死刑が残虐な刑の禁止に違反するということで、上告弁護人から意見が出されているけれども、最高裁は古い判例を出しています。死刑が残虐な刑の禁止というのは、日本の死刑は絞首刑です。これは死刑の中では一番楽な死に方をするといわれていました。頸動脈圧迫によってすぐに死ぬということで、だから日本の死刑は残虐な刑ではないと。しかし本当に楽なのか、苦しまないのかということについて、いろんな事例があるようです。これについてはあまり詳しく言わないようにします。
(質)時効が撤廃になりましたが、どのように考えますか。
(答)一部の罪について時効を撤廃しました。本当にそれでいいのかという議論はあると思います。国民的な要請、そして民主党の党議拘束もあって私も賛成しました。そもそも、時効制度がなぜ存在するのかを考えると、時効が撤廃されると事件としてずっと続きます。警察などでも担当がずっと置かれます。あなたは時効撤廃についてどう考えますか?
(質)私は撤廃についてはあまり賛成ではありません。えん罪ならずっと逃げ続けなくてはなりませんから。
(答)犯人じゃないのなら、逃げる必要はないと思います。
(質)ホリエモンの話がありました。それに関連して、EUでは通貨取引税を創設するという話があります。復興税として、お金持ちからきちんと税金をとるというのは、民主党ならできると思いますが、いかがでしょうか。
(答)民主党の中では通貨取引税についての話は出ていません。 それに関連して、復興税の議論について少しお話ししたいと思います。民主党の税調で復興財源、税と社会保障の一体改革についての結論を出しました。今日、両院議員総会でも了承されました。衆参のねじれがあるので、どのようになるのか分かりませんが、復興を目的にした増税の議論はしっかりと、国民の前でやらなければなりません。
景気が良くなれば税収は上がるから、増税はしなくてもいい、という議論があります。しかし、現実問題として、これから景気が急上昇するというのは考えられない。高度成長期よ、もう一度、ということにはなりません。このことを真っ正面から取り組まないといけません。