1978/06/24 No.1 ホーム主張目次たより目次次へ


江田五月君への期待    神奈川県知事 長洲 一二

 明るく、さわやかな人柄。裁判官時代から日々の生活の中で培ってきた現実感覚。故江田三郎さんゆずりの情熱と理想主義。政治の世界へ入ってまだ一年、これからいろいろ辛酸をなめることになると思いますが、五月君は政治家としての基本的な資質に恵まれています。

 五月君と私の共通の学問上の先達であるマックス・ウェーバーに、次のような言葉があります。

 「一人の成熟した人間が―― その年齢の多少にかかわらず―― 結果に対する責任をまさに全身全霊をあげて感受し、責任倫理にもとづいて行動しつつ、しかもある一点において 『私はこの他のことをなしえない。私はここに立つ』というならば、それは測るべからざる感動を与えるでしょう……」

 決断を使命とする政治家にとって、まことに含蓄に富む言葉です。たった一人で新しい政治を目指して船出した三郎さんの決断も、その志を継ごうとした五月君の決断も、人間的にきわめて純粋であり、まさしく感動的でありました。

 五月君が、同世代のリーダーとして育ち、さらに、世代をこえて、この多元社会の中に信頼と連帯の輪を多様なかたちでひろげられるよう期待します。今後の一層の御健勝を心からおいのりいたします。


政治家 江田五月の一年

新しい政治のスタイルをめざして

 「……私は、自分の良心に反する政治をしないことを、この際、宣言します。そして、一人ひとりの優しさ、温かさ、清らかさというものを、大切にし、育くんでいきます。
 今までの政治には、常に暗いイメージがつきまとっていました。これでは、誰も政治に近づこうとしません。私は、このイメージを変え、政治を明るい清潔なイメージのものに変えたいと思います。
 そうしてこそ、われわれ誰もが政治に気軽に参加し、生活を健康で快適なものにしていくことができるのです」

――江田五月が、胃潰瘍の手術を翌日にひかえた昨年6月2日、記者会見して“出馬宣言”を行い、病床から立候補、退院と同時に全国遊説して当選、参議院議員となってから、ちょうど一年が経過しました。この間、参議院議員・江田五月は、自らの健康はもとより、新しい政党である社会市民連合の育成、田英夫氏らとの合流による社会民主連合の結成、法務委員会・決算委員会等、国会での活躍と、文字通り激動の時間と空間をひたすら走りつづけてきました。そして彼は、政治家として、期待にたがわぬ素養を証明、能力を発揮してきました。

 そこで、ご批判を仰ぐ意味でもこの一年間の政治家・江田五月の活躍の一端を想起してみました。


全国区ニ位で当週(1977/07/11)
 昨年6月30日の退院後、ただちに都内、大阪、京都、名古屋、岡山、神奈川を遊説。流動食を携帯、休み休みの強行軍。振り返って想い起こすとぞっとします。11日の開票では139万2475人の支持を得て二位で当選。

全国を飛び回る
 昨年八月三日には、盲腸の手術も行い、「これで悪いところは全部取り除いた」と言った江田五月は、十三日に岡山県総評の三役と会談するなど、いよいよ本格的に行動を開始。地方への出張は七月二十二日(盲腸手術前)の北海道を皮切りに二十六道府県、八十二回に及び、長距離列車、航空機の走行距離は約三万二千キロメートルにのぼっています。列車の乗り継ぎだけで一日が週きてしまうこともある。あるときは上野に帰る夜行列車の寝台にドサッと腰を降して「ウーン」。笑而不答、心自閑。「政治家は耐えることだ」――が江田五月の口ぐせ。

講演依頼、マスコミ取材など殺到
 労組(主として若手グループ)、研究団体、サークル、学生会などの講演や、大会、パーティーなど の挨拶、マスコミの取材などがひきを切らない。話を聞いた人々が 満足してくれて、またお願いしたいと言ってくれるのでよけい嬉しい。日程が重なって、お断りしなければならないときもしばしば。そんなとき 「もったいないなあ。」

田英夫氏ら四氏と合流、社民連 結成
 十二月の社会党大会を契機に、田英夫、楢崎弥之助、秦豊、阿部昭吾の四人が社会党を離れ、一月二十二日、新たに社会民主連合準備会結成大会を開いて、合流を決めました。国会議員が、いっ気に六人となりました。大柴滋雄氏―「田英夫氏らとの合流は故・江田三郎氏の遺言だった」。田英夫氏―「私の支持者に易者がいて、私の無二のパートナーに巳年の政治家が出現すると言った。それが江田五月君だ。」

健康は完全に回復
 この一年問、誰もが心配してくれたのは健康の問題。いまさら「全快宣言」ということもないので、その替りに江田五月と「泳ぐ会」をつくろうか、なんて言ってます。江田五月は体はもともと細いけれども芯は極めて強いのでは……。野坂昭如氏日く―「小骨の多いタイプだ。」

ありがとうございました   

多くのみなさんの温かいご支援に支えられて、なんとか人生航路の大転換をなしとげさせていただいてから、一年がたちました。その節は、本当にありがとうございました。

その後、お礼やらご報告やら、早くきちんとしなければいけないことが山のようにあるのに、ほとんどできずに今日になりました。

去年の今ごろは、父・江田三郎の残した社会市民連合という政党を名乗っていましたが、その後社会党に見切りをつけられた田英夫さんたちと一緒になり、今年3月に社会民主連合と名前をかえました。私は、その副代表になりました。相変わらず、貧乏暇なしで、6月10日現在、土曜日に家で寝たのが10日、外泊が13回という具合です。

昨年六月三日の胃かいよう、八月三日の虫垂炎と手術が続き、ご心配をおかけしました体具合は、その後順調で、まだもと通りとはいきませんが、各地を飛び歩く重労働の毎日に充分耐えております。

国会では、当初外務委員会におりましたが、その後法務委員会に多り、決算委員会、災害対策委員会もかけ持ちです。委員会では何回か質問もさせてもらいましたが、小会派ですから、最後にわずかの時間だけしか許してもらえず、いらいらしております。

マスコミで騒がれた時期もすぎ、これから地道な努力が必要な時期に入ると思います。皆さまの変わらぬと支援とご叱責をお願いし、ご無沙汰のお詫びにさせていただきます。


江田五月の国会活動

 先日終了した第八十四国会の冒頭に、本会議代表質問ができる可能性が少しありました。早速準備にかかり草稿もまとめました。しかし自民党と社会党の反対でダメ。感想―「五五年体制にやられた」。一方、江田議員の委員会での質問は、そのユニークな発想と前向きの姿勢、豊富な専門知識とマトを射た内容で注目されました。今国会での質問回数を数えてみたら八回でした。



3月2日・法務委員会
  犯罪被害者に国家保障を

 通り魔や無差別テロ事件に巻き込まれて、何の落度もないのに殺傷される――そして被害者、遺族の多くは何の補償もないまま“泣き寝入り”しています。このような実態に対し、犯罪による被害者補償制度の立法化を求める運動もあり、今回、江田議員は、この法制化を急ぐよう主張しました。

質問の要旨=私たちは、社会進歩のために様々な制度をつくり出します。しかし、忘れてならないのは、一方で大きな利益達成のための制度をつくりながら、他方、その陰で大きな損害をこうむる人がいるという事実です。社会はこうした人々のつらさと悲しさに対して、みんなでその気持ちを同じくしていくことが大切です。篤志家の少年保護施設で、その保護の下にいる少年によって殺害された篤志家が自業自得だとするような社会であってはなりません

 ――瀬戸山法務大臣も自らの考え方を展開、「努力」を約束しました。委員会論議には、激しい口調の挙げ足とりや、責任追及もありますが、じっくりお互いの考えをぶつけ合い、一歩前進の糸口を見出していくような前向きの論議ももっとあって良いと思われます。


2月16日・法務委員会  プロ野球論議に疑問投げる

 江川選手が希望する球団に入れなかったことから、プロ野球のドラフト制が国会でとりあげられました。江田議員は「この重大な時期に国会がとりあげるほどの問題だろうか」と首をかしげながらも、与えられた十分間の質問を行い、法務大臣や川上哲治氏らに要旨次のように意見を述べました。

「政治が介入しなければならないほどの事態になっているとは思えません。プロ野球のことは、やはりプロ野球関係者の英知と自主性で、国民に健全な娯楽を提供するために努力してほしいと思います。また、国民・ファンのなかの様々な創意工夫、提言をプロ野球 運営に取り入れる、いわば、“市民参加”といった方法も考えられて良いのではないでしょうか。」


4月20日・法務委員会  「成田」で国民合意の形成を

 成田開港一カ月前の四月二十日、 空港の長期的安全策などについて質問を行い、江田議員は政府の力づくの警備万針が国民の政治不信を助長していると批判、開港時期にこだわらず、地元農民との話し合い、国民的合意のために努力することの必要を強調しました。


5月12日・連合審議会  成田新法の危険性を指摘

 いわゆる成田新立法について江田議員も発言の機会を得ました。

 江田氏はこのなかで、過激派の行動に対処する必要は認めるが、出されてきた法案は日本の法体系の調和を乱している、と指摘。とくに、この法案に規定されている。“禁止命令”が出されると、通常の法が適用されるべき地域が、突然戒厳令か、あるいは恐怖と強権が支配する空間に変わってしまう可能性もある、と主張、立法の行き過ぎを追求し、政府の民主主義に反する姿勢を批判しました。


4月27日・法務委員会  専門知識を駆使して質問

 債権担保の方法としての抵当権がなかなか活用しにくいこともあって、高利貸等を中心に、債務不履行の時に、家や土地をすぐに取り上げてしまうという事が行われていました。裁判所は、判例により、こういうやり方を細かく規制してきましたが、それを法律にして、債務者の保護をさらに徹底するため、仮登記担保法が立案されました。江田五月議員は、法務委員会で専門知識を駆使して、政府との間で、質の高い議論をしました。

 また、6月15日には「民事執行法案」(継続審議)についても30分間の質問を行いました。


5月11日・法務委員会  「人質法案」にひとり反対

 この法律は集団で凶器を使って人質を取り、第三者に強要する行為を特に重く罰しようというものです。これは、ハイジャックなど、過激派の非人道的な行為を念頭に置いたものだと説明されています。しかし、自民はもちろん社共もこぞって賛成したこの法案に、江田議員は、法務委員会でただひとり、反対の立場から質問しました

 一見、賛成した方が喜ばれそうなこの法案に、なぜ反対したのか、江田議員自身に聞いてみました。

江田五月氏の話 この法律は、強盗と同じように重く罰しようとするのですから、罰すべき行為を過激派などの乱暴な行動だけに適用が限定されるよう、注意深い表現をとることが必要です。ところが、その規定の体裁からすると、過激派ばかりでなく、市民運動、労働運動、さらに、普通の市民のちょっとした逸脱行動もこの法律の表現にひっかかります。また、この法律がなくても過激派の無法行為は充分重く罰することができます。こういうとき、ハイジャック、ハイジャックというコーラスに浮かれずに、醒めた眼で事態をみることが必要でしよう。


6月7日・決算委員会  行政監察官制度を提唱

 江田議員は、福田首相に対する質問で 「スウェーデンやイギリスなどで定着している、オンブズマン(行政監察官)制度をとり入れるべきだ」と、要旨次のように主張しました。

国会議員の日常活動に、行政に対する苦情等の処理があり、時には難題を押しつけ、灰色の報酬が動くことも。こうして支持者集団の維持が、議員の立場の全てになり、国民は議会制民主主義に少なからぬ疑惑を抱きます。これは国家機構全体の病理現象。もっと合理的で透明度の高い、公認のシステムが考えられるべきです。


出発のためのメモランダム出版記念パーティー

memorandum.jpg (5401 バイト) 裁判官から政治家へ、人生の大転換をやってのけた江田五月は、その過ぎ去った“決断”の前後を通じて、自分自身の生き方を整理しよう、と決意しました。また同時に、政治家となった以上、国民の前にできるだけ自らを裸にし、さらけ出すことが必要と思い、「若輩の身で自らを語るなどおこがましいが、敢えてこれまでの行動の軌跡と、信念、心情をそのまま記す」と述べて、昨年九月半ばからとりかかって、正月休みにようやく書き上げたのが「出発のためのメモランダム」(毎日新聞社刊)。車中や出張先でもペンを執りました。(幸い好評で、現在まで二万部を超える売れ行きということです。)

 また、この本の出版に当たって、去る三月十六日、東京のホテル・ニュージャパンで「出版記念パーティー」が催され、各界から出席した約千人の方々が盛大にお祝いしました。

 「パーティー」には、かねてから江田議員に期待を寄せてくれている作家の野坂昭如さんも出席、自ら桜井順さんに依頼して創った「五月の歌」をプレゼント。野坂さん自ら歌ってムードを盛り上げました。

 女優の三田佳子さんも、「同世代の政治家としてがんばって」と花束を持ってかけつけ、パーティーに花をそえました。

 そして、岡山や京都からは、中学・高校時代の恩師である浅井次郎、福井三省、粟井晋吉、山本尚彦の各先生方、書道の河田一臼先生が出席され、“出発した”教え子を励ますように見守っていました。

 以下に、出席者のお言葉の一部を紹介します。(敬称=略)

横路孝弘(発起人・友人代表)
 私は十七、八年前、江田君のオルグに陥落して政治運動をはじめて以来のつき合いだが、末は最高裁長官かと囁かれていた江田君が政治家に転身したのだから、これまでの人生に区切りをつける著作を書いたのは納得できることです。ベストセラーになって彼の政治活動の台所をうるおすように祈ります。

大平正芳(故・江田三郎同窓)
 司法界でご精進されたらお幸せだっただろうに、政界にお入りになってたいへんだろうと思います。この優れた人材に、日本と世界の将来をじっと考える機会をみんなで与えてあげたいものと思います。ご健康に留意して着実に歩んで下さるよう祈ります。

佐々木良作(民社党委員長)
 おやじ(故・江由三郎)の亡くなった時ほどがっかりしたことはないが、その父の後を継いで本当の意味で再出発されたことに対し、心から敬意を表し、大きな期待をもつものです。力を合わせて、いっ気に突走っていきましょう。いっそうのご健闘を祈ります。

河野洋平(新自由クラブ代表)
 権力や肩書き、団体の力をしょってモノを言ったり行動したりすることの多い昨今だが、私はこういう人間だということを宣言して、ひとりの人間として多勢のひとり一人に呼びかけて政治活動をはじめた江田五月さん、その江田さんの気持ちと行動のし方に心から共感し、拍手を贈ります。

内藤国夫(ジャーナリスト)
 昨年五月二十六日、江田君が胃かいようで入院するために病院に駆け込むあとを追って、病院内でインタビューしたが、そのとき、江田君という人が将来楽しみだなあと思ったのは、「ありのままの僕をすべて書いてくれ。書かれることによって自分にマイナスになるのなら自分が悪いのだから自由に料理してほしい」と言ったことです。なかなか政治家としてそうは言えないもの。新しい政治家のタイプを彼がつくってくれると期待している。

朱牟田夏雄(元東大教養学部長)
 私が東大で彼を退学処分忙した張本人です。(笑) 当時、学部長対自治会委員長という関係で、話し合う機会も何度かありましたが、江田君には、硬直したところが少しもない。非常に素直で柔軟なところが大きな特色だと感じていました。また、非常に律気な面をもっていることにも感心しておりました。著書のなかの水泳の指導など、楽しそうに記述しているのをみても、好青年ぶりがよく感じられます。硬直しない気持ちを持ち続けて、日本の政界にとってかけがえのない存在になってくれれば大変嬉しいと思います。

粟井晋吉(岡山朝日高校担任)
 高校時代の江田君は、ひとロで言えば非常に明るく活発で、人に好かれる生徒だった。また、江田君という人は、自ら問題を起こすことはないが、問題に出くわした時には大いに奮闘する性格を持った人だと思っています。非常にたんたんと事を運び、同時にたいへんな度胸をそなえていると感心しています。みんなの大きな期待にそうよう頑張って下さい。

江田五月会でも「記念パーティー」

 「出発のためのメモランダム」発刊を記念して、北海道、青森など各地で出版記念会が行われました。東京では3月16日の会とは別に、江田五月会独自の“家族連れパーティー”が2月18日、霞ヶ関の東海大校友会館で開かれ、在京の中学・高校時代の友人、大学時代の友人・先輩・恩師、司法界、英国留学時代の友人、若手ジャーナリストなど、江田五月会のメンバー約五百人が出席しました。

 出席者のなかには、東大教養学部時代に担任をされていた村松達雄先生や、元裁判官の森田宗一先生など、「メモランダム」に登場する五月さんと因縁の深い恩師の面々も居り、遠慮のない忠告や親身の激励などが次々に登場。さらには歌やピアノ、はては五月さんとお嬢さんの真理子ちゃん(九歳)の縦笛の演奏なども飛び出して、にぎやかな交歓パーティーとなりました。

 岡山県での「出版記念会」は、去る五月十九日、岡山県江田五月会会長・北村正先生ら約百五十人が出席して岡山市の山佐別館で盛大に行われました。「会」は江田議員の中学・高校時代の友人、地域の親しい仲間らが友情あふれる激励の言葉を述べたり、開けっ広げの注文をつけるなど、なごやかな雰囲気のうちに進行しました。


「弁護人ぬき裁判」について  河原 昭文

 いま、政府は、いわゆる「弁護人ぬき裁判」特別法を制定しようとしている。

 この法律は、要するに、いわゆる過激派の刑事裁判で、被告人が訴訟を遅延させる目的で弁護人を解任したり、弁護人が同じ目的で辞任したり、あるいは、弁護人が正当な理由なしに公判期日に出頭しなかったり、退廷したりした場合、弁護人なしで裁判ができるようにするというものである。

 しかし、刑事裁判において、被告人はいかなる場合にも弁護人の弁護をうけうるということ、それでこそ、被告人の人権が守られ、かつ、正しい裁判が期待できるということは、人類の長い経験からうみだされた結論であり、また、現代のすべての民主主義国家で守られている大原則である。

 この大原則を、政府はいま、一片の反古のように投げすてようとしている。弁護人がいない法廷で、法律の知識に乏しい被告人を前に、裁判官と検察官だけが、やみくもに早く早くと裁判を進めていく光景は、想像するだに恐しい。

 ことは民主主義の問題である。たとえ、世界に誇るべき憲法をもちながら、それを無視して恥じない政府と、司法の最高の地位にありながら、臆面もなく、この法律の必要性を説く最高裁長官を持つ日本であっても、こんな法律をつくらせることは、絶対に許してはならない。この法律ができるかどうかに、日本の民主主義がかかっている。
(昭五三・六・一〇記)


会員の活動
サラ金対策に公的機関を   寺田 明生

 生来の世話好きから、三年ほど前、五〇件以上のサラ金から金を借り七〇〇万からの借金で世に言うサラ金地獄に苦しんでいる人の世話をする機会があり、「利息制限法」と「過払利息の返還請求権を確認した最高裁判例」という二本の刀を差して一件々々のサラ金会社を歩さ廻り、なんとか解決資金の三〇〇万内で処理した。この経験を通じサラ金会社の実態をかなりの程度知り得た。

 これを実は私たちで発行している『下町タイムス』というタブ八頁のミニコミ紙の 「助ッ人参上」という固定欄で連載紹介していたところ、昨年の暮に女性週刊誌上で紹介され、都内はおろか全国から、相談があり、やがて解決例も増え、その後毎日新聞祇上で取り上げられるやらで、今では「サラ金助ッ人」の異名まで戴いている。

 ところで、最近、ようやくサラ金問題が世上でやかましく論じだされ、いくつかの地方自治体では規制のための指導要領を制定し、行政指導に弱腰ながらのり出して来た。ここでは助ッ人の目から見た指導要領批判を一言述べてみたい。

 これらの内容は以下の四点に要約される。(1)安易な貸付を止めよ、(2)契約書の交付の励行、(3)不当手段による回収の禁止、(4)領収証の交付、である。そして、これらの指導に従わない業者は知事名で勧告を行い、更にその勧告内容を公表することにもなっている。

 しかし、車内公告やテレビコマーシャルにまで登場し、あまつさえ、家賃が高額で一流企業も入れないという日本一のノッボビル「サンシャイン60」にまで出店するほどの勢いのサラ金業界に、この程度の指導でどれほどの目を光らせ得るのか、「あそこに駆け込まれたらもうお手上げだ」と業者に諦めさせるような公的機関の設置を駆け込み寺、あるいは徳政令的発想で工夫することの方が、おざなりな行政指導より効果的だ。

 名前の公表位で弱音を吐く業者など皆無だ。現に実体は変わらず、社名が月に一度は変わっている会社はいくらでもある。また、一見良心的な会社も、裏に回れば、不良債務とわかれば悪徳業者に格安で譲渡し、元本の大半を回収し、涼しい顔をしているのが実体だ。行政指導もないよりはいい、しかし肝要なのは、被害者にぴったりくっついて、業者とたたかってくれる公的機関の誕生だ。


政局の眼  「秋の解散」はあるのか?

 「秋の解散」はあるのか−国会終了後の政府の焦点は、まさにこの一点に絞られている。年末の自民党総裁公選での再選めざして、解散のチャンスをねらう福田首相、そうはさせじと解散封じの積極策に出た大平・田中連合、その攻防は夏から秋へ陰湿をきわめたものになりそうだ。

 福田首相の意図は、現時点では遅くも九月始めまでに日中平和友好条約の調印を終え、この。“成果”をふみ台に解散を断行、衆院議席を多少なりともふやして首尾よく再選を果たすことにあるとみてよい。

 これに対し、大平、田中、三木三派を中心とした反福田勢力は、「大義名分のない解散反対」を旗印に解散包囲網を構築、福田再選阻止の火の手をあげた。十四日に旗揚げした「総裁公選をフェアに行う会」、解散反対署名運動、そして解散詔書の署名拒否を現職閣僚として初めて公式に明らかにした金丸防衛庁長官発言――反福田勢力ヘ“仕掛け”は一応すべて出揃ったわけである。反福田勢力の第一弾作戦がこうした点にあるとすれば、第二弾はさしずめ福田首相が日中条約締結交渉に成功した場合の“備え”だろう。

 大平幹事長の(1)日中条約締結は国交回復時の共同声明にコロモをかぶせるだけで大した問題ではない、(2)かりに条約調印に至っても、その批准はもよりの国会でよい――ことを強調、首相が日中条約を仕上げてもそんなに自慢のできる政治的成果ではない、批准もあわてて臨時国会でやる必要はない、つまり秋の解散の土俵を作らせないこともありうることをしきりに匂わせているわけだ。

 福田、反福田勢力のこうした攻防は、首相が日米首脳会談以後、積極的な解散――再選策を打ち出したものの、反福田陣営が猛烈な巻き返しに出たため、首相はかなり苦況。に立たされたといえる。だから政治は生き物――、国会休会中に果たして。“解散風”がおさまるか、そして首相から解散を持ちかけられた際、大平幹事長がカラダを張ってこれに抵抗できるか――とくに後者がカギであるといってよかろう。もうひとつ、大福の間ゲキを縫って虎視タンタンと“出番”をねらう中曽根総務会長の動向も見逃せないようだ。(夜光虫)


秘書紹介

東京事務所
矢野凱也 故・江田三郎氏の秘書として苦労を共にし十六年。国会内ではよく知られていて、人望が厚い。慎重で誠実。夫人と一男一女。横浜市在住。総務・財政・企画担当。

石井紘基
 江田議員とは大学時代からの友人。まじめで人が良く、行動力抜群。世田谷の家には夫人と一女が遅い帰りを待ちわびている。政務・日程・渉外担当。

仙波恵子 昨年独協大学の英語学科を卒業。教員になりたかったが、選挙を手伝って以来、方向転換.「そろそろもらい手を捜さなくちゃ」二十ウン歳。庶務・文書・会計担当。

岡山事務所
佐古信五 故・江田三郎氏にかわいがられた。今は「五月さんのためならまかしとき。」大ものの風格があるわりに几帳面で芸が細かい。四月に女児の父親となってますます張り切っている。地元関係全般担当。


会員の声

江田君の出発に思う 中川 洋一 (松下電器労働組合中央執行委員)

 江田五月氏の登場は劇的であり、事実上の立候補表明であった追悼集会での演説は強烈な印象をあたえた。

 最近のいくつかの会合での五月氏の発言や態度は大きくその様相を変え、しばしば感銘を受ける。「水をえた魚のように」という諺のごとく、資質ある者が適所を得るといかに遺憾無く、その力量を発揮しうるかの証明ではなかろうか。五月氏は元来政治的人間であったのであろう。

 いま政治は、大きな失望の対象になっている。なぜだろうか。その原因の大きな一つは政治家・議員といわれる人達の人間的魅力の欠落と高齢化であるといっても過言ではない。

 若者の意識・欲求が多様化し、いわゆる「しらけ時代」といわれているが、本質は昔も今も変わっていない。要は魅力あるり−ダーによって大衆の指向は変わっていく。 目先きの損得より、国際社会における日本の将来を展望し、リードする「人間的政治家・江田五月」への大成に限りない期待をよせる。

 ミニ政党社民連に熱い視線を送る者からすると、どうもいまひとつ斬新的な政治行動に欠けているように思える。ミニ政党故の悲哀はあると思うが、既成政党と同じ行動様式を脱しきれて。いないのではなかろうか。

 いま国民が求めている政治は、国民にみえる政治への脱皮である。


ただ感心した二ヵ月 濱 美貴子 (実践女子大二年)

 ふとしたことで、二カ月ほど江田先生の事務所でお手伝いをすることになり、テレビと新聞でしか拝見したことのなかった江田先生にお会いしたのは、二月の寒い日でした。

 「あ、こんにちは」とにこにこ笑われながら歩いていらした先生は、テレビの画面から、そのままとびだしていらしたような、きさくな方でした。「この方が三郎先生の」と、誰もが思うようなことを私も思いました。

 それから二カ月間、朝、地方へ出張なさって数日後の夕方もどられ、次の朝、また地方へ行かれる、ということがたびたびあったため、ほとんど先生と接する時間がなかったので、どんな方? と人から聞かれても、さあ、忙しい方よ、としか答えようがないのです。事務所にいらっしゃる時でも、足早に、「次の仕事は」などと忙しそうになさっているので、精神力でもっていられるのかな、とただ感心して事務所のすみで仕事をしていました。これからもお体にお気をつけて、頑張って下さい。


あとがき

 あわただしくも楽しく過ぎた一年でした。江田君の大転換につられて、私たちの誰もが、政治とのかかわりにおいて、多少なりとも変わったような気がします。

 あまり報告材料が多すぎて、どれも充分に内容を尽くせなかったかと思います。はじめての発行ですので、多少一方通行的になったかも知れませんが、次号からは会員の皆様にどしどしご意見やら、活動報告などを送っていただいて、みんなで創る機関誌にしたいと願っています。単なる江田五月宣伝版にならないように。

 今後の発行刊期をどの程度にするか、責任者とか財政問題などはどうするか、まだ全く未定です。ご意見を集約し、総会などの機関で決めていきたいと思います。今回はとりあえず、少数の有志だけで編集させていただきました。(K記)


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