1983年 ’83参議院選挙(6/26投票)

戻る目次前へ次へ


’83参議院選挙

 一九八三年の第十三回参議院選挙に、社民連は新自由クラブと「新自由クラブ・民主連合」という確認団体を結成して臨んだ。

 比例代表選挙については、拘束名簿の順位は次のように決まった。

一位 田 英夫
二位 大石武一
三位 水野晴郎
四位 石川達男
五位 大久保力
六位 中沢啓一
七位 西風 勲
八位 工藤良平
九位 長谷川保
社民連代表
元環境庁長官、参議院議員
映画評論家
新自由クラブ副幹事長、河野洋平秘書
日本二輪車青少年育成協会理事長
新自由クラブ遊説委員長、元NHK報道局チーフデイレクター
社民連組織委員長、元衆議院議員
食堂経営、元衆・参議院議員
聖隷福祉事業団会長、元衆議院議員

 しかし結果は、一、二三九、一六九票で、当選者は名簿一位の田英夫代表ただ一人だった。
 「新自由クラブ・民主連合」という名称は、いかにも長すぎた。

 この選挙の特徴として、「サラリーマン新党」 「福祉党」 「税金党」のように、政策をそのまま政党名にした、ミニ新党の活躍があげられよう。彼らは庶民の日常的不満に火を点けて、浮動票を獲得した。同じミニ新党でも「革自連」や「二院クラブ」が苦戦したのは、政策と名称の関係が明確でなかったせいであろう。

 参院選敗北後、社民連内にも新自由クラブ内にも、「このままでは持ち味が薄れるのではないか」 「独自でやったほうがいい」という“見直し論”が出た。新自由クラブも社民連も、それぞれ「全国幹事会」「全国代表者会議」を開いて協議の結果、院内統一会派の解消を決めた。一九八三年九月四日のことである。


スローガン

清潔でわかりやすい政治を!
 国民の政治離れの原因は、現在の政治に対する信頼感の欠如にあります。今こそ政治倫理を確立しなければなりません。政界を浄化し金がかかる政治を改革するため、情報公開法の制定、政治資金規制法の改正などを積極的に推進し、清潔でわかりやすい政治を実現します。

簡素で効率的な政府を!
 活力ある自由社会を建設するために何よりも重要なことは、市民の主体的な参加により簡素で効率的な政府を確立することです。三Kの制度改革、省庁・特殊法人等の統廃合、巨額な補助金の整理、公務員定数の削減など行政改革を断行します。これによって、増税を断固阻止します。また、国会改革を行い、国会議員の定数不均衡を是正します。

教育立国で日本の明日を!
 日本の将来は究極のところ教育の成果にかかっています。六・三・三・四学制を改革し、時代の流れに適応した、ゆとりある制度を確立します。偏差値教育の改革、校内暴力・非行問題の解決は緊急の課題です。学校教育に勤労・ボランティア体験を導入するなど、正しい社会観をもつ心豊かな子供たちを育てます。

軍縮で平和な世界を!
 現在、地球上には全人類を十回以上殺せる量の核兵器が存在しています。今こそ人類滅亡の危機を回避するため、核軍縮を最重要議題として取り組まなければなりません。わが国の国際的責任を自覚し、平和憲法を守り“非核三原則”を不動のものとし、軍縮サミットを提唱するなど、積極的な平和外交を展開し、真の国際平和を達成するために全力をあげます。

緑豊かな環境を!
 緑の環境を守ることは、国際的課題であり、緊急な問題です。地球的視野から自然破壊の現状を考え、都市の緑の育成、山村の自然環境の保全など国土の環境整備はもとより、全世界的な環境問題に真剣に取り組み、私たちのまわりでもリサイクル社会をめざします。

政治に市民の声を!
 政治を活性化させるためには、市民が政治に参加し、市民の声を政治に反映させることが何よりも大切です。ボランティア活動を活発に展開し、コミュニティー活動に積極的に取り組み、生活に根ざした市民の声の輪が大きく広がる市民参加による政治の実現に努めます。


社民連・新自ク、参院選共闘体制合意

 かねてから社民連と新自由クラブとの間で、今夏の参院比例代表(全国区)選挙の共闘問題について、双方が統一名簿で臨む方向で、確認団体結成の協議が進められてきたが、十四日、新確認団体の名称を「新自由クラブ民主連合」とする、代表を田川誠一新自ク代表とする、事務局を新自ク本部に置くことで合意した。

 両党は「政権交代可能な政治勢力結集をめざし、新しい時代にふさわしい国民的多数派を形成する。そのため、政党もまた大同につくことができることを示し、幅広い国民各層の支持を求める」(登録確認団体綱領)として参院選における共闘を決めた。

 このことは、両党がすでに五十六年九月から、衆院で結成した院内統一会派(新自由クラブ・民主連合=新自連)も一定の評価が確立、それなりに定着し、社民連、新自ク双方とも一月に開かれた党大会で一致協力、あるいは一体化して参院選を闘うということで承認されている。

 それ以来、四者協議会(社民連=楢崎弥之助書記長・阿部昭吾選対委員長、新自ク=河野洋平代表代行・山口敏夫幹事長)で綿密な打ち合わせが行われてきた。

 この結果、名簿では社民連・田英夫代表をトップ、新自ク・大石武一環境庁長官を第二位とする、確認団体の名称は衆院における新自由クラブ・民主連合と同名ということで、新確認団体の正式名称については妥協が成立した。

 略称についてはギリギリまで決着がつかず、ついに十五日、新自ク側は「新自由クラブ・民主連合」、略称は「新自由クラブ」と登録した。

 これに対し社民連は「比例代表選で別のグループが“社会民主連合”とか、これに類示した名称を届け出て受理された場合、“社民連”と書かれた票はそっくり、そちらのモノと認められてしまう」として、まぎらわしい政党が選挙で名乗り出るのを予防する狙いで、「社会民主連合」(略称・社民連)を十六日の名称保護登録の最終日に、自治省に届け出たのである。


新自由クラブ民主連合で市民の政治参加の実現を

緑と平和、そしてきれいな政治がわれらの願い――楢崎書記長に聞く

 命運を決める政治決戦
―― いよいよ参議院選挙ですが、どういう決意で臨まれますか。

楢崎 やや長期的にみますと、今度の参議院選挙の結果は、一九八〇年代後半のわが国の政治の行方を方向づけることになりますし、衆議院解散・総選挙にも大きな影響をもたらします。

 短期的には、秋の臨時国会や田中裁判の判決にも影響を及ぼすことになる重要な選挙となると思いますね。

 社民連の立場からするとそれは切実で、田英夫代表の選挙ですから、その命運を決めることになりかねない選挙です。文字通り政治決戦です。

 今度の「比例代表制」という選挙方式は、「五五年体制」の担い手であった自民党と社会党が仕組んだ弱小政党や有力な無所属議員を排除しようとする選挙法といってもよい。候補者の数、供託金、選挙運動など、さまざまな条件と制約があって、小政党や無党派の議員が参議院にでることは非常に困難になりました。これをなんとかはねのけなくちゃならないんです。

 社民連と新自クが一体となって
―― どうやってそういった悪条件を克服していくか……。

楢崎 まず政策面では、真正面からオーソドックスな闘いを挑みたいと思っています。

 私たちは、社民連と新自由クラブがこれまでやってきた政治的実績を背景にして、国民に訴えて行くつもりです。

 まず、平和・軍縮という点では田さんの活動は誰にも負けない実績をもっていますし、国際的な評価も高い。また大石武一さんは初代環境庁長官として尾瀬を守られた方だし、“緑の防衛基金”の責任者となっていることは皆さんご承知のとおりです。

 それから政治倫理の問題では、田川誠一さんが政治生命を賭けて活躍されていますし、私たちも全力を傾注してきたところです。衆参両院に「政治倫理確立議員懇談会」をつくりましたが、これは私の提唱によるものです。

 このような、これまでに両党が手をたずさえてやってきた問題を積極的に訴えていくつもりです。

 候補者の魅力と知恵で勝負
―― では選挙戦の勝算は……。

楢崎 この新しい選拳法は初めてなんで、各党とも戸惑いと不安をもっていると思うんです。ですから、各党の知恵くらべという面があります。

 私たち社民連も、ともに闘う新自由クラブも組織がありませんし、資金も豊富じゃない。あるのは知恵だけともいえます。これで勝負する以外に方法はないんです(笑)。

 これまでの選挙を見ますと、五百万票から千万票の無党派支持の票があるんです。これをどう引きつけていくかが、勝敗の分岐点になるだろうとみています。幸い、新自由クラブ民主連合は、そういう票を引きつけ得る可能性をもっているんじゃないでしょうか。そこに選挙戦術の重点を置きたいと思います。

 そこで、候補者のリストも第一位田英夫、第二位大石武一、第三位水野晴郎、第四位石川達男、第五位大久保力ということになったんです。

 こういう候補者の魅力によって、いままで社民連や新自由クラブを支持していた以上の支持率を引きだしたい。ズバリ五名当選を見込んでいます。

 市民政治の大きなうねりを
楢崎
 私たちはデパートじやなくて専門店でいきたいと思います。

 まず第一が、平和と軍縮です。次に、環境であり緑の問題です。さらに、行政改革の追求、減税の実現、そして教育問題を前面にだしていきたい。

 そして、全体を流れる基本主張として、政治の浄化と政治倫理の確立を訴えていくつもりなんです。もちろん、そういう政治を実現する主体として、“市民の政治参加”を強く呼びかけていくことは当然のことです。

 このことに市民の共感がえられるならば、無党派や支持政党なしといわれる人たちと私たちの運動が共鳴し合い、大きなうねりとなることを期待できると思うんです。


1983年

戻る目次前へ次へ