1983 |
’83第三十七回衆議院総選挙
中曽根首相は第100臨時国会を「行革国会」と位置づけたが、野党は十月十二日の田中角栄論告求刑をにらんで「政治倫理国会」にしようとしていた。
十月十二日、東京地裁は田中元首相に懲役四年、追徴金五億円の実刑判決を言い渡した。野党各党は一斉に街頭に出て、「田中議員辞職勧告、政治倫理確立」を訴えた。
ところが田中角栄は、「東京地裁判決は遺憾」「不退転の決意で戦い抜く」「わが国の民主主義を守り、再び政治の暗黒を招かないためにも一歩も引くことなく前進を続ける」という内容の「所感」を発表した。
これには、野党ばかりでなく自民党内からも批判が噴き出した。野党の提出した「田中議員辞職勧告決議案」に対し、自民党執行部が「本会議上程反対」で党内を一本化しようとしたところ、「決議案反対を党議でくくるのはおかしい」と反論が公然と出た。
こうした空気に押される形で、中曽根首相は田中角栄と二人だけで話し合うが、結果は、「田中元首相、辞職せず」。
政局は一層混迷した。
中曽根首相は、十月三十一日のコール西独首相来日を皮切りに、レーガン米大統領、胡燿邦中国共産党総書記と続いた国賓の来日ラッシュでムードを盛り上げようとした。特にレーガン大統領を迎えての演出は、浅利慶太の知恵まで借りて入念を極め、首脳会談の内容発表も、通常の二回のほかに両首脳個別の発表をテレビ向けに追加したり、しめくくりの首相招待を奥多摩の日の出山荘で行ったりした。農家の囲炉裏端で、ハッピを纏って茶を立てる、日本酒を酌み交わす―まさにテレビ向けのパフォーマンスであった。
しかし、華やかな首脳外交が一段落すると、政治倫理を問う声が再び高まった。野党にとっては「勝てる」千載一遇のチャンスである。解散に追い込もうと、さまざまに揺さぶりをかけた。中曽根首相は必死に解散を避けようとした。
ところが、田中角栄は「今こそ解散すべし」と檄を飛ばした。常識的に見れば、田中角栄にとって有罪判決直後の解散は最悪の時機である。しかしこの人の感覚は違っていた。「ロッキード判決後の総選挙で勝てば禊はは完了。ロッキード事件そのものも風化させることができる」と思い込んでいた。二階堂幹事長が首相官邸に乗り込み、「国会正常化」を理由に「年内解散・総選挙」を中曽根首相に迫る一幕もあった。
こうして「反角」の野党と当の田中派の奇妙な連携のもとに、十一月二十八日、衆議院は解散した。
「田中判決選挙」「政治倫理選挙」などと呼ばれたこの選挙で、社・公・民・新自ク・社民連の五党は、88件、58選挙区、59候補を対象に選挙協力を行った。
中曽根首相は選挙戦の第一声で、「野党はリンリ、リンリと鈴虫のように騒ぐばかりで代案を出さない」とこきおろしたが、政治倫理というテーマは、安保・防衛問題等ではバラつきのある野党間を一つに結びやすいテーマだったのである。
中でも、岡山一区で出馬した江田五月のケースは新しいパターンであった。
江田は岡山二区の民社党候補・林保夫を前回同様応援することで民社・同盟の支持をとりつけたが、全電通労組は社会党から矢山有作が立っているにもかかわらず、江田を推した。「従来二議席とっていた社会党が候補者を一人に絞ったことで当選確実となった。ならば、与野党伯仲を進めるために江田五月を支援する」というわけである。
伯仲状能促進のため、労組が従来の支持政党の枠を自発的に越えたのである。この動きは、他の選挙区にも波及した。
なお、民社党が当初の「支持」から「推薦」に変わったのは、佐々木良作委員長が岡山入りして、「委員長として陳情する。盟友の息子を当選させてくれ」と頼んでくれたためである。
同盟、電機労連等の中立労連、総評の全電通、そして広範な市民の力添えで、江田五月は最高点で当選した。阿部昭吾、菅直人も当選した。しかし予想もできぬことが起こった。楢崎弥之助書記長が落選したのである。
第三十七回総選挙の結果で特筆すべきは、やはり田中角栄の大量得票であろう。二二万七六一票というのは、前回より八万票も多く、首相在任時の一七万票をも上回った。二院クラブの野坂昭如参議院議員が、議席を捨ててあえて新潟三区から立候補したことも、田中陣営にはむしろプラスに働いたようであった。
しかし、田中角栄は大勝したが自民党は敗北した。解散時の286議席を36議席も失う250議席。無所属議員を追加公認して258議席。
一方、野党は社会党が12議席増の113議席、公明党は29増の59議席、民社党は8増の39議席、共産党は2減の27議席、新自クは2減の8議席、社民連は3議席。
田英夫代表は、次のような談話を発表した。
「国民は極めて明確に、田中金権政治に拒否の答えを出した。国会はこれを第一義的に尊重しなくてはならない。各野党は与野党伯仲状況を実現した協力関係を国会の場でも持続し、田中問題に決着をつけねばならない。政治の活性化、政界再編のために、この機会を逃すなら政権交代の可能性は当分訪れないだろう」
開票結果が出た直後から、「中曽根首相は敗北の責任をとれ」という声が自民党内で上がっていた。野党が「田中議員辞職勧告決議」を再提出することで足並みを揃えると、これに呼応する動きも自民党内に出てきた。
与野党伯仲の衆議院で、自民党から何人かの欠席者が出れば「辞職勧告決議案」は可決される。大平内閣不信任案可決と同様のパターンが再現される可能性は大きかった。
新自由クラブの河野洋平は、河本敏夫経済企画庁長官を担ぎ出そうとした。かねてから「田中問題にけじめを」と主張しているこの人なら野党も納得するだろう。社会・公明・民社・新自ク・社民連までの大連合政権をつくろうと、田川誠一代表とともに根回しを開始した。
しかし、新自クの中には山口敏夫幹事長のもう一つの流れがあった。中曽根首相は田中六助政調会長を通じて、山口幹事長との話合いを進める一方、河本経企庁長官の動きを封じる戦術を練った。自民党最高顧問会議で非主流派の要求をすベてのんで、「いわゆる田中元首相の影響力を排除する」という声明を出したのが、その戦術である。
河本経企庁長官や三木元首相は“造反”の口実を失ってしまった。河野の大連合政権構想は霧散した。
中曽根首相は新自由クラブと院内統一会派を結成し、自治大臣のポストを一つ譲って連立政権をつくることで、この難局をしのぎ切った。新自由クラブの8人の加入によって、「自民党・新自由国民連合」は267議席となり、安定多数を確保したのである。
野党各党を襲った挫折感は大きかった。