1984

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一九八四年の情勢

 一九八四年二月二十七日、二十八日に開かれた社会党大会で、石橋委員長は「今後は政権を目指して現実処理能力を重視しよう」「賛成か反対か、二者択一型ではなく、反対の場合は必ず対案を用意する現実的な漸進主義を」と訴え、「日本における社会主義への道」を事実上廃棄する路線を提案した。

 まさに江田三郎の「構造改革論」であったが、社会主義協会等はこの路線問題に余り関心を示さず、運動方針案の中の「自衛隊は違憲・合法論」に論議を集中させた。

 石橋執行部の作戦勝ち、といった形で、社会党は「現実路線」に踏み出したのである。

 一九八四年、中曽根首相はアジア外交に精を出した。三月には中国訪問、四月から五月にかけてパキスタン、インド訪問―ロンドンで開かれる第十回サミットに「アジアの代表」という立場で出席する布石を入念に打ったのである。

 こうしてサミットを無事に乗り切り、九月の全斗煥大統領来日も、天皇陛下の「お言葉」で日韓新時代の幕を開けた。外交で得点を上げる一方、国内的には「諮問機関」をフルに活用して国会を形骸化した。

 中曽根の総裁としての任期はこの十月に切れるが、再選への道は平坦に見えた。

 ところが、十月下旬、「二階堂擁立」の動きが一挙に表面化した。この動きは、鈴木善幸前首相、福田元首相、河本経企庁長官が中心となって起こしたものだったが、公明党の竹入委員長と民社党の佐々木委員長が加わっていたことが驚きを大きくした。

 結局この動きは、金丸総務会長をはじめ田中派が潰し、十月二十八日に中曽根再選が決まった。第二次中曽根内閣も新自由クラブとの連立を継続、田川自治大臣に替わって山口敏夫労働大臣が誕生した。


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