一九八六年の情勢
一九八六年正月早々、中曽根首相は「三選」をめざして「ダブル選挙」への意欲を見せた。
伊勢神宮での恒例の記者会見で、話が定数是正に及んだ時、「戦後四十年、立法・司法・行政の三権の関係を見直す必要がある。行政が独善にならないように、立法が行うべきことを行っているか、司法がオーバーランすることのないように……」と述べた。
「オーバーラン」という言葉が、昨夏最高裁が出した定数配分違憲判決を指すことは明らかだった。
最高裁は「現行の議員定数配分は違憲」とした上で、「現行議員定数配分のままで総選挙が行われたときは無効」と警告を発したのである。これはつまり、中曽根首相が判決を無視して解散を強行しても、解散によって行われる選挙は無効とされる可能性が大きくなったのである。もはや「定数是正」は待ったなしの状態になった。
以後は「解散・ダブル選挙」へ突っ走ろうとする中曽根と、それを阻止しようとする鈴木・宮沢および野党の三つ巴の綱引きが延々と続くことになる。
しかし、中曽根首相はあらゆる手を使ってついに「公選法」を改正。同日選なしを前提に野党は議長調停を受け入れたにもかかわらず、中曽根首相は六月二日、臨時国会を召集、冒頭解散の線でついに宮沢総務会長をねじ伏せた。
「解散させぬ」と社・公・民・社民連四党は本会議ボイコットを決めたが、議長サロンに後藤田官房長官が解散詔書を持ち込み、自民党と新自クの代表を前に坂田議長が読み上げて、衆院は異常な形で解散した。
八増七減の衆院定数是正の減員区の一つが、阿部昭吾書記長の山形二区であった。自民党の加藤紘一・近岡理一郎、社会党の佐藤誼、そして阿部書記長の四現職のうち誰か一人は振り落とされるのである。共産党の新人も充分な事前運動を経て勢いづいている。
壮絶な生き残り決戦の結果、阿部は七万三四九五票、前回より五千四百余票も上積みして当選したのだった。
江田五月も当選、菅直人も当選、何よりも喜ばしかったのは、楢崎弥之助前書記長の返り咲きだった。
東京四区で立候補した岩附茂、参議院岡山選挙区で立候補した高原勝哉の両新人は、善戦したが及ばなかった。
しかし、振るわない野党の中で唯一、議席を増やしたのだった。
自民党は追加公認を含めて衆院三〇四、参院七四の歴史的大勝を収めた。社会党は一〇九議席を八五議席と、二四議席滅らした。惨敗であった。公明党は二議席減らして五六議席。民社党は二議席滅らして二六議席、大内書記長落選という痛手を負った。共産党は二六議席で議席数に変化はなかったが、金子書記局長が返り咲いて喜びに沸いていた。新自由クラブは二議席減らして六議席となった。
七月二十二日、特別国会召集日に、社民連は社会党および民社党との間で院内統一会派を組んだ。野党結集への捨身の決断であった。
八月十五日、新自由クラブは解党した。河野洋平・山口敏夫・小杉隆・甘利明・鈴木恒夫の五人は自民党に復党した。田川誠一新自由クラブ前代表は自民党には復党せず、独自の道を選んだ。やがて「進歩党」が、田川を中心として誕生する。
九月六日、社会党は委員長選挙で土井たか子を選出した。日本初の女性党首の誕生である。社会党のイメージが、ガラリと変わった。委員長の第一声は「やるっきゃない」であった。
九月十一日、自民党は両院議員総会で党則を改正し、総裁任期を一年延長した。中曽根首相は三選は果たせなかったが、あと一年の続投を許された。
十月二十八日、国鉄改革八法案が衆議院本会議を通過。国鉄は分割、民営化されることになった。
十一月十四日、全民労協は一年後に「連合」への移行を決めた。
十一月二十日、公明党の竹入委員長、辞意を表明。
十二月四日、公明党大会は矢野絢也書記長を委員長に選出。書記長は大久保直彦国対委員長。
十二月五日、自民党は売上税導入・マル優廃止などの税制改革を決定。ダブル選挙の際に中曽根首相は、明確に「大型間接税は導入しない」と公約していたから、まさに公約無視であった。世論は沸騰しはじめた。野党の連携も密になった。