一九八二年の情勢
名称問題や柿沢離党問題で先行きが危ぶまれた新自由クラブ・民主連合だったが、発足してみると、結構スムーズに運営された。折から世界的規模で盛り上がった反核・軍縮運動に、社民連も新自由クラブも深く関わり、政策的にも対立する面はまったくなかったからである。
しかし、政治倫理という点では、統一会派内に不協和音が生じていた。震源地は田島国対委員長であった。
鈴木首相は一九八一年十一月、内閣改造と党役員人事を行ったが、田中角栄の注文に応えて“灰色高官”二階堂進を幹事長に据えたのである。政治倫理にきびしい田川誠一代表らは、「田中復権の足場固めだ」と批判した。ところが田島国対委員長は、「政治倫理を強調するのはいいが、田中個人について批判すべきでない」と言い出した。これを個人の意見として統一会派内で発言する分には構わないが、国対委員長の肩書でNHKの国会討論会に出ても角栄援護をするのである。
社民連の議員ばかりか、新自クの大方の議員は眉をひそめたが、田川代表が注意しても、田島は「皆さんも田中派の支持を受けた大平さんを第一回から投票したではないか」と、一向に改める気配はなかった。
一九八二年八月十九日、公選法が改正された。参議院全国区が廃止され、拘束名簿式比例代表制が採用されたのである。
この制度によると、候補者は個人の名前ではなく、政党名(確認団体名)で選ばれる。確認団体が提出した名簿の上位から順に当選者を出していくという方式である。従っていかに名簿の上位にランクされるかが当落の鍵ということになった。この制度は大政党に有利なところから、早くから「自社なれ合い」の噂が流れた。
公明・共産は大反対で、知名度だけで楽々と当選していたタレント候補も、看板である個人名が使えないことで必死に反対した。が、法改正が実現すると、今度は自民党の中で、「名簿の上位にランクされるために、候補者は党に数億円献金しなくてはならないのではないか」「従来の全国区よりも金がかかりそうだ」と懸念する声が出て来た。
とにかく、選挙制度始まって以来、初めての「個人名でない投票」が行われることになった。田英夫という連続トップ当選の金看板も、今度の選挙では使うわけにはいかなくなったのである。
一九八二年十月十二日、鈴木善幸首相は「次期総裁選に出馬しない」と発表した。鈴木再選は確実といわれていただけに、まさに寝耳に水の辞意であった。
「和の政治」を唱えた鈴木首相も、二階堂を幹事長に就けたことで、自ら「和」を崩した。角福戦争は復活し、鈴木自身、「頭上で角福に空中戦をやられてうるさくてかなわん」とぼやいたこともあった。死に体になる前に後継者を指名して退陣すれば、元老の地位が得られる――という思いが、この突然の退陣表明をさせたのではなかろうか。
だが、鈴木首相の指名権は、鈴木・二階堂・福田の三者協議の場に預けられてしまう。中曽根康弘・安倍晋太郎・河本敏夫・中川一郎の四候補を待たせて延々と続けられた三者協議の結論は、「首相は中曽根、総裁は福田」。候補者でもない福田の名が突然出てくる奇妙な提案。これを中曽根が蹴って、総裁予備選に突入したのである。
総裁予備選の結果、田中・鈴木・中曽根派に推された中曽根が、五五九、六七三票(五七・六二%)で圧勝した。十一月二十五日、中曽根は自民党総裁に就任した。
その五日後の十一月三十日、結党以来のメンバー・秦豊が脱党した。丁度この時、参議院ではそれまでバラバラに分かれていた美濃部亮吉・中山千夏・青島幸男・横山ノック・八代英太らが比例代表制に備えて「無党派クラブ」を結成した。秦は、ここにとび込んでいった。