民主党 参議院議員 江田五月著 国会議員― わかる政治への提言 | ホーム/目次 |
第3章 私の選挙戦 |
私の選対構成
選対組織づくりは選挙の基本といっていい。私の選対の構成は、次ページのようになっている。「親戚」とあるのは文字どおり親成であるが、従兄の奥さんの従兄の奥さんなどという、一言聞いただけでは頭に入らない遠い親類まで加わってくださっている。
「親戚部隊」の責任者は私の従兄(父の姉の息子。といっても父と姉が年が離れているので、私にとっては叔父ぐらいの年)が引き受けてくれた。約半年かけてルーツをたぐっていくうちに、本人もまったく知らない親族が見つかったりしでびっくりした。
挨拶回りをずいぶん手伝ってもらったが、従兄やまた従兄程度の関係でも、他人の目にはどこか似通って見えるらしく、反応はよかった。
「アゼリア会」という女性だけの後援組織がある。といっても「江田五月会婦人部」ではない。独立採算制をとり三十名の役員が合議制で運営する、まったく独自のグループだ。
この会には選挙のプロは一人もいないが、行動力は抜群。毎年一回バザール兼講演会を開き、500円の切符を売って600人以上の人を集める。講演会の講師には、第一回めが秋山ちえ子さん、二回めが木村治美さん、三回めが広中和歌子さんといった具合で、一般の婦人層にアピールする人選だから反響も上々。すっかり地域に定着した会となった。
そのメンバーの方々が、選挙が始まるとエプロン姿で「炊き出し」から「公選ハガキの宛名書き」「来客の接待」「電話戦術」「個人演説会の設営」「江田五月株勧誘」まで、自発的にやって下さった。
東京から取材にきた新聞記者が「女は強し、されど母はもっと強し」と感心していたが、どんなに忙しくとも笑い声を絶やさない精神的強さは、確かに男を超えていた。私にとってありがたい後ろ楯だ。
同盟、総評の枠をこえて岡山県を東と西で分けると、東半分の昔の備前と美作が一区、西半分の昔の備中が二区となっている。私の選挙区、岡山一区は、三市九郡から成り、都市も農村も両方含んだ標準的な選挙区である。
もともと野党勢力の強い所で、定数五のうち自民党は三を超えたことがない。野党が多数になることもあった。労働組合もいろいろあるが、巨大企業や企業コンビナートが圧倒的という新興地域ではない。また、農民運動の伝統もある。教育県岡山といわれ、特に女学校が多い。
国政では野党が強いが、不思議なことに地方政治では保守圧勝である。
昭和五十八年末の総選挙では、組織も金もない私だったが、それでもかなりの数の労働組合が私を応援してくれた。これらの組合は、従来の政党支持の関係を超越してくれたのである。同盟は全組織をあげての支援。中立の関係では電機労連の松下電器産業労組や商業労連の全天満屋労組、天満屋ストアー労組。総評系でも全電通労組が全力投球してくれた。
従来、全電通は「社会党一本支持」を組織決定していたが、今回は「野党勢力全体を増やす」を大目標として、社会党候補のいる選挙区でも、情勢を判断して、社民連や公明党、民社党の候補者を推してくれた。
政党では民社党が、私を推薦して必死になってくれた。
「数年前まで総評系と同盟系の労働者がいがみ合っていたのが嘘のようだ」と、かつての労組幹部が選対にきて驚いておられたが、考えてみると同じ労働者だ。総評の労働者だけが税金の高さに悩むわけでもなく同盟の労働者だけが不況に苦しむわけでもない。悩みも願いも共通しているのだから、組織のいきがかりを捨てて、素直に現実を見れば、腕を組めるのは当然なのだ。ただし、選挙事務所の中には、労働組合専門の机は置かなかった。同盟系、総評系、中立系が別々に拠点を置いて、各々個性を生かした運動をしてくれた。
「昴」にのって走りまわる総選挙の公示日は、十二月三日だった。前述の解散風景から、わずか五日後のあわただしさである。あわただしいのはそればかりではない。直前に改正された公選法によって、立候補届出の受付期間も、従来の二日聞から一日だけとなったし、総選挙の運動期間も従来より五日間短縮されて、十五日間になった。街頭宣伝の時間帯も、従来午前七時から午後八時までだったのが、早朝の一時間を削られて、午前八時から午後八時までの十二時間になった。また、従来は立会演説会があって有権者は全候補者の政見を直接開き比べることができたが、「形骸化している」との理由で廃止された。そのかわり、テレビ等の政見放送が二同ふえて、八回になった。
選挙カーを走らせながらスピーカーで候補者の名前を叫ぶのを「連呼」という。やっている方は一生懸命だが、開く方はあまりありがたくない騒音だろう。候補者名を知っていただき、選挙カーがきたことを知っでもらうために、これも必要なのだ。しかし、このダサさは何とかならないかと考えた結果、連呼にBGMを入れることにした。
選曲には苦労した。さまざまな意見を煮つめていったら、「うさぎおいし……」の「ふるさと」と「目を閉じて何も見えず……」の「昴」の二曲が残った。若い人は「昴」、年をとるに従い「ふるさと」が多いようだ。実際に集会の機会に参加者に両方を聞いてもらって決をとったところ、「昂」に決まった。かつて「欽ちゃんのオールスター家族対抗歌合戦」に出場して、私がこの曲を歌って優勝した因縁もあり、落着くべきところに落着いたわけだ。
しかし、十五日間毎日、朝の八時から夜の八時まで耳元で「昂」が鳴っているのも辛いことだ。どこに行っても何をしても、いつも「昂」が私をとりまき、追いかけ、離さなかった。夜八時に選挙カーを降りてほっと一息ついても、「昂」のメロディーが耳について離れない。これにはまいった。
選挙カーは、できるだけ多くの人々と接することを心がけた。私は人影を見ればすぐ車から降りて走って行き、握手をした。候補者が走るから本隊単に同行している者もみな走った。「江田選挙は若さの爆発」であり、「江田選挙の特徴はみな走ること」であった。
イベント作りをどうするか従来の三週間選挙だと、前期、中期、後期の三回イベントが組めたのだが、期間が短縮された今回、それはとても無理。「仕方がない、中間で一度だけムードを盛り上げる催しをしよう」ということで、青年部隊に企画を任せた。
この青年部隊は「YMC」という。ヤング・メイ(五月)・クラブの頭文字なとったわけだが、やがて、「銀輪行進」の企画を出してきた。
青年たちが自転車に乗り、各々が小型の鯉のぼりをハンドルに取りつけて走るというもの。鯉のぼりは、前に書いたとおり、庄司薫さんが提案してくれた私の象徴である。師走の風に時ならぬ鯉のぼりが泳ぐ図も面白いと、この企画は採用された。
選挙の折り返し点に当たる日曜日は、どこの選対も知恵を絞り、ムードを盛り上げる行動が各所で展開された。商店街を大人数で歩いて挨拶する候補者、自動車十数台で行進する候補者等戦術はさまざまだったが、若々しい「YMC」の自転車行進が最もさわやかだったと、身内以外の人もほめてくれた。
投票日が近づくと、支持票を逃がさないための運動を積極的に行った。私を支持してくれた商業労連は、デパートやスーパーの店員さんたちの労働組合である。投票日だからといっで、年末でかき入れ時の日曜日に休むわけにはいかない。出勤前に投票して下さいといっても、万一ということがあるので事前の不在者投票をお願いした。
幸い、執行部の方々の熱心な活動が実って、多くの方が不在者投票して下さった。
選挙の主人公は候補者だけではない。関係するみんなが主人公だ。いたるところで感激の連続だった。まさに選挙は一篇の「大河ドラマ」である。
第3章 私の選挙戦 |
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