民主党 参議院議員 江田五月著 国会議員― わかる政治への提言 | ホーム/目次 |
第3章 私の選挙戦 |
父、江田三郎の死
昭和五十二年五月二十二日午後八時三十分、父、江田三郎が息を引きとった時、私はふと「今日は俺の誕生日だ」ということを思い出した。事態の急変でそれまで忘れてしまっていたのだ。「肺と肝臓にガンがあり、おそらく膵臓にもあるだろうが、こういう状態でも六ヵ月ぐらい生きる人もあります」と、医師が私に告げたのが五月十九日。だが父は、医師の予想に反して病状をどんどん悪化させていった。わざと選んだように父が私の誕生日に死んだことに、何かを感じるべきかと思った。
この前年、十二月五日の総選挙で、父は落選した。落選の原因はいろいろあろう。不覚とも油断ともいえよう。しかしそれだけではない。父の人気につながっていた「社会党内にいて社会党改革を訴える」行動が、一方では 「江田さんがいくら言っても、社会党はちっとも変わらない」という失望やシラケにもつながっていたのではなかろうか。父の落選は、社会党内にいる父の同志たちの未来をも暗示しているように見えた。
私は幼い頃から、何かを父に指図された記憶はまったくない。しかし、なぜか政治的な考え方では、私は父とほぼ同じ道をたどった。学生運動に参加し、各派の理論的な違いが理解できるようになると、私は父の提唱する「構造改革論」が正しいと思い始め、人間の喜怒哀楽を無視した観念論的な社会主義に批判的になっていった。
社会党では、いったんは承認した構造改革路線をつぷし、この頃にはいっそう教条主義的論議が横行していた。特にその内部の「社会主義協会」は、派閥としての行動も強め、宗教集団かと錯覚するまでになった。社会党に、私は愛想をつかした。父も愛想をつかしながら、結党以来の党員であり党の要職に就いた責任もあるから、軽率には行動できないようだった。
だが、落選により父は身軽になった。これを機会にふん切りをつける決心をしたらしかった。二月の社会党大会では、「社会主義協会派」の野次の嵐の中で、諄々と自説を主張した。「野次られるのを楽しんどるよ」とこの当時父は私に言った。負け惜しみでも強がりでもなく、本心だったと思う。
三月二十六日、父は離党届を出し、同時に七月の参院選に立候補の決意を表明し、「社会市民連合」の結成を提唱した。私は、父の行動に心から拍手し、自分は裁判官だから動けないが、妻に「できる限り応援はしなきゃいかん」と話した。
その後、父は精力的に動き出した。「ジンマシンで八キロやせた」と聞いたのは、二十日ほど後のことだった。二十日で八キロもやせるなんてただごとではないと思い、「人間ドックに入りなさい」とすすめたが、父は「あれは大げさでいやだ」と聞き流していた。
四月二十四日、父は菅直人君らのグループと公開討論会をやった。両者の考えは、一致を見た。「社市連」の結成準備は、着々と整った。
離党直後から父が書き続けた著書「新しい政治を目ざして」の出版記念会と「社市連結成全国準備会」を併せて、五月二十五日に大集会を開催することも決まった。だが、こうした動きに反比例して、父の健康は日ましに悪化していった。
五月二十五日の三日前に息を引き取る無念さを、父は、私の誕生日に「駆け込み死」することで私に伝えようとしたのではないか。こういう思いが、一時に頭の中にあふれた。私は、「後を継げ」というみんなの説得を天の声と聞くべきだと思った。
裁判官から政治家へさっそく、裁判官辞任手続きをし、二十四日、父の葬儀の日に私の辞職が閣議で了承された。
自由に政治的発言ができる立場になったので、葬儀が行われた麻布の一乗寺で記者会見をさせてもらった。一時間あまり話した中に、冒頭に記した「政治家一日八時間労働」など、政治家としての「問題発言」がいくつもあった。私が強調したかったのは、政治の体質の根本的変革の必要性だった。国民が政治家にすべて任せ切るのではなく、積極的に政治参加する。逆に政治家自身も、市民感覚から遠ざかった生活をしていたのではダメだ。また、何事も神聖不可侵なものはないのだから、一度決めたことがうまくいかない時は、やり直しを躊躇してはいけない。この信念については、もちろん今でも間違っているとは思わない。
翌二十五日、「出版記念会」は急遽「追悼集会」に切り替えられた。この席で私は、父の跡を継いで参議院選挙に全国区で出馬すると宣言した。二十六日は朝から、新聞、雑誌、テレビのインタビューが続いた。
父が入院した頃から、前から不摂生で痛んでいた私の胃が急速に悪化し、とうとうこの日は途中から胃痛がひどく、駿河台の日大病院に入院してしまった。だが、病床でもインタビューの残りを消化しなければならなかった。
「一日八時間の政治」は初日から崩れた。
寝ながら選挙入院して検査後、「相当に深い潰瘍で切らなければならない」と言われた。参院選は迫ってくる。無理はできない。手術までの間に、一日一仕事ずつ片づけていくことにした。
六月一日、友人の上着を借りてポスター用写真を撮影。
六月二日、立候補声明と社市連代表就任の記者会見。
六月三日、手術で胃の三分の二を切除。NHKの政見放送のビデオ撮りは、期限ぎりぎりまで延ばしてもらった。その時も流動食 ばかりで、医師は「体力的に耐えられるかどうか」と心配していたが、何とかなった。
参院選の公示は六月十六日だったが、私は三十日まで入院生活を続けた。規則正しい生活で良く眠れ、精神的に落ち着いた。
三十日退院後、渋谷で第一声を上げた。反響は大きかったが、聴衆の拍手に送られて宣伝カーのまま立ち去るという劇的な振舞いは、腹の縫い目にこたえた。選挙カーとは別の、安楽に座れる車に乗りかえなければならない。おかゆをいつも持ち歩いて、一日六回ゆっくり食べ、終わったら三十分は横になって休まなければならない。手のかかる候補者であった。
それでも、倉敷、岡山、大阪、京都、名古屋、横浜、川崎、浦和、大宮などへ出かけた。どの演説でも、多数の人が熱心に聴いてくれ、声援してくれた。岡山では土砂降りの雨なのに、多くの人が駅頭で待っていてくれた。新宿では、宣伝カーから降りると聴衆に取り囲まれ、もみくちゃにされた。方角がわからなくなり、「俺はどこへ行きゃいいんだ」ときいたら、誰かが「国会へ行きゃいいんだ」と答え、再び拍手が起こった。
最終日の夜、吉祥寺駅前では、あらかじめ場所取りをする人手のない悲しさで、ある候補者から「七時半まで」という約束で場所を譲ってもらった。その後、駅からやや難れたデパートの前へ場所を移して最後の三十分の訴えをすると、大勢の人たちが宣伝カーについて歩いてきてくれた。
「今、日本では組織に属していることから物事を発想するのではなく、一人ひとりで自立し、判断できる市民が数多く誕生しつつあります。新しい日本の政治の夜明けが始まろうとしています」と結んで、八時きっかりに演説を終わった。開票の結果、139万2475票、田英夫さんに次ぐ第二位で当選した。岡山県では、一区、二区とも衆院選でも当選できそうな数の票が集まった。故郷のありがたさを身にしみて感じた。
衆議院への転身参院選に当選した投階で、六年も先のことをはっきり考えたわけではなかったが、政治家として一歩踏み出した以上は、いずれ衆議院に議席を持たなくてはならないと思っていた。
日本の議会制度は二院制だが、平等な二つの院ではなく、衆議院が政治の表舞台、参議院はチェックをする役という構造になっている。「日本の政治全体を大きく変えていこう」という初心からすれば、衆議院に議席を持つことをめざすのは当然だった。
「東京四区で衆議院をめざせ」とすすめてくれる人も大勢いた。しかし私は、政治家は、特に衆議院の場合は、「有権者と議員との間に、言葉では言い尽くせない一体感が必要なのではないか」と思っている。「有権者に本当の自分の姿を理解してもらっている、自分もまた有権者の懐に飛びこんでいける」という信頼感。順風満帆の時も逆風の時も、マスコミにのっている時も日蔭になっている時も、いつも自分を支えてくれる選挙民がいるということは、政治家には非常に大切なことだと思う。
コンピュータの世論調査に従って政治を行っても良い政治ができない。それは代表する者と代表される者とは人間的絆で結ばれていなければならないのに、コンピュータにはそれがないからだ。私自身が、「この人達のために! この人達を誇りとして!」と言いうるのは誰か?と考えた時、私は、何の躊躇もなく私が生まれ育った故郷の人々を頭に思い浮かべた。衆議院なら「岡山一区」としか、私の選択肢はなかった。
父、江田三郎は岡山二区から出馬したのに、なぜ一区から出たのかという質問を時々受ける。
まず政治の世襲はよくないということ。また私が尊敬し誇りにもしている父、江田三郎を引き継ごうというのに、できあがった基盤の上に唯々諾々と乗るのでは、形の上では父を引き継いでも、父の志を引き継ぐことにはならないと思った。自分の手で開拓し、努力して自分自身の選挙区の基盤を作っていくことが父の志を引き継ぐことであり、父もそのことを喜ぶはずだ。
さらにいえば、父も生まれ育ったのは一区であり、戦前、特高に追い回されながら農民運動をしたのも主として一区だった。
父、江田三郎を温かく励ましながら支えてくれた二区のみなさんのことを思うと心が痛むが、およそ地元利益に不得手な父を支えてくれた二区の人々であるから、私の政治家としての心情を理解してくれるだろうと信じた。
また二区には、社、公、民、ひとりずつ代表選手がそろっており、与野党逆転のため不必要な争いは避けたかった。一区と二区で協力して野党勢力を多数にしなければならないのだ。
そうした思いから、それまで司法研修所で修習中机を並べた上原豊弁護士に甘えて、弁護士として上原事務所に「寄生」していたのを、昭和五十五年の春、高校の二年後輩で最も信頼する友人の一人、高原勝哉弁護士に頼ることとし、第二東京弁護士会から岡山弁護士会に登録変更して、岡山市に弁護士事務所と江田五月会事務所を出した。その時は予想もしなかったのに、それから二ヵ月たたないうちに前述の大平内閣の解散があったのである。多くの友人から、「この激動期に安穏としていてはダメ。お前はもう、岡山一区で衆議院を決意しているのだから、断固討って出るべし!」という励ましを受けた。私自身も決意しかけたが、楢崎弥之助さんはじめ経験を積んだ社民連の先輩に諫められ、断念した。
あの時立候補していたら、「破滅型人生」になっていたかも知れない。今でも社民連の先輩からは、「年寄りの言うことは聴くもんだ」と注意されている。いかに私が言うことを聴いていないかを示しているのだろう。
鯉のぼり − 選挙準備活動スタート昭和五十六年四月、岡山市の新興住宅地にローンで土地を買って家を建て、私は家族と共に転居した。家の設計と施工は、私の高校の下級生がやってくれた。みんなでアイディアを出し合いながら造り上げたものだ。
大学のゼミの先輩で作家の庄司薫さんが、こんな忠告をしてくれた。「この家はハイカラすぎる。選挙をするなら泥くさくなければいけない。土着性を出すため提灯をぶら下げ、招き猫を飾り、のぼりを立てるべし」。
私の名前が「五月」ということもあり、鯉のぼりを立てることにした。一年中立て続けて、「鯉のぼりのある家」として大いに注目を集めようと思ったのだが、六月になると、さすがに鯉のぼりも哀れだし、またどことなく照れ臭そうにしている子供たちも哀れになり、妥協して降ろしてしまった。それが、選挙からさかのぼること三年八カ月前の、選挙準備活動のスタートである。
こうして、私の生活の本拠地は岡山になり、東京は国会活動や全国的な政治活動の場になった。
「おはよう七・三〇」と称して、毎月曜日の朝七時三十分(時々遅刻するが)から八時四十分まで、岡山駅前で街頭演説を始めた。また、選挙区の中を街頭演説をして回ったり、国会報告会を開いたり、ホームミーティング形式の会合を開いたりして「江田五月会」の組織づくりにとりかかった。
「江田五月株」の発行八三年に実施が決まっている選挙は、四月の統一地方選挙と六月の参議院通常選挙だが、この二大選挙にプラスして衆議院も、翌年の任期満了を待たずに解散、総選挙となるだろうというのが、大方の見方だった。
問題はその総選挙の時期だ。ロッキード丸紅ルート公判で検察側は、田中角栄元首相に対し、「懲役五年、追徴金五億円」を求刑した。これで、秋の判決の内容もほぼ予想できたから、田中元首相の周辺は、何とかして判決前に総選挙を持ってこようとした。二月説、統一地方選とのダブル選挙説も浮上したが、五十五年の衆参ダブル選挙が自民圧勝だったことから「二度めの衆参ダブル選挙」説が有力だった。しかし前述のとおり、中曽根首相は粘った。
十月十二日の田中判決は、政界にとって直下型大地震だった。「懲役四年の実刑、追徴金五億円」。私の予想どおりだ。しかし、保釈金を三億円積んで、田中元首相は自由を買った。判決は、こういう金権体質が国民に与えた政治不信を「社会に及ぼした病理的影響ははかりしれない」と強い調子で断罪した。
こういう情勢でどう選挙運動を進めるか、私の仲間は連日討論を繰り返した。
三つの異なる選挙の候補者が宣伝合戦をくり広げているのだから、有権者から見るとややこしくて仕方ないはず。それに埋没せぬよう、「江田五月」のイメージをくっきりと印象づけるのが第一。そのために話題をつくることが大切で、選挙の話になると必ず「江田五月」が話題になるようにしようと思った。
「フレッシュなイメージを」、とまず考えた。「鯉の滝のぼり」のシールを作り、合言葉は“For Tomorrow”とした。そのシールを、支援者の自動車に貼ってもらった。「江田五月株」も発行した。資金カンパの募集なのだが、将来の有望株を買ってもらうことになぞらえて、カンパの領収証にかえて株券を発行する。もちろん商法に基づくものではない。
選挙スタッフの方は、「五月株」は資金集めよりも運動の盛り上げに役立つと思っていた。結果を見ると、運動も確かに盛り上がったが、金銭的にも1000万円を超す資金が集まり、これで選挙財政が支えられた。
一株1000円として、千円株、三千円株、五千円株、一万円株の四種類を発行した。私たちの予想に反して、一万円株がいちばんよく売れた。しかもこれは、一部の資産家が買い占めたわけではない。そんな資産家がいないから苦労しているのだ。多くの人々が、少しずつ株を買い、よりよい政治を私に期待して支援してくれたのである。
「江田五月株」は、組織づくりにも大いに役立った。選挙スタッフは、横の広がりと縦の広がりの両面をめざした。横とは地域のことで、岡山一区の全市町村に何らかの核をつくり、岡山市内では各学区ごとに核をつくることをめざした。縦とは職場や業種や学校やあらゆるつながりのことで、私自身や支援者と関係のあるつながりをたよって組織化の努力をした。小・中・高・大の同窓会関係、「税理士による江国五月後援会」をはじめ、弁護士、司法書土、医師等々の人々が、支援に立ち上がってくれた。
既存の組織の人々との提携も、もちろん大切だ。 その結果、私は二重、三重の選挙協力をいただくことになった。
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