第二章 遊びと友達と勉強と |
ファイアストーム事件
生徒会のことでは「ファイアストーム事件」がある。秋の運動会は生徒会が運営することになっていた。私たちが入学する前の三十一年までは、終了後ファイアストームをやっていた。しかし何故か私たちが一年の時から中止された。三年の秋の運動会の後にやらなければ、私たちはファイアストームを知らずに卒業してしまう。「復活させよう」という声が沸き上がってきた。
私たち生徒会総務としても、もちろん賛成で、運動会のプログラムに組み込んだ。先輩に聞いたりして、手順もだいたいわかり、消防の許可が必要だというので、それも取った。ところが教師の側から「ダメだ」という指揮権発動があった。もちろん、そのまま引き下がるわけにはいかない。「僕たちはやると決めている。生徒総会でやるかやらないか、全生徒の意向を問います」と、生徒総会を招集した。
運動会の前々日が生徒総会だった。多数の生徒が集まり、教師も参加する。私が議長をやったが、異常なほどの熱気の中で論議した。教師が反対意見をぶつわけだが、「学生から学を取ったらセイしか残らん。君たちは学ぷのが本分だから勉強してりゃいいんだ。勉強を忘れてファイアストームなんかに血道を上げるとは何事か」「ファイアストームで夜になっても興奮さめやらぬ生徒がたくさん残っていると、いろいろ不祥事が起こる可能性は高い。君たちはそれを絶対に起こさないといい切れるか」などという言い方だった。
生徒の側は「じゃあ学生からセイを取ったら学しか残らんじゃないか。高等学校で、こういう青春を楽しんだんだという、後々まで思い出になるようなことが大切だ。学ばかり、勉強づくめでは、特攻隊の青春となんら変わらないではないか」「生徒が自主的に企画しているのに、先生がそれを押しつぶすとはけしからん。それが教育なのか。生徒の創意工夫を援助し、それを伸ばすのが教育じゃないか」と応酬した。私の議事運営は生徒の側に有利なようにやっており、中立公正なんてものではなかった。しかし、もともと生徒総会なのだから、教師に発言を許したことだけでも十分公正過ぎるともいえるが。延々議論をしていくうちに、いろいろ用事のある生徒は帰ってしまう。こんな議論はバカらしい、家へ帰って勉強した方がマシだという者もいただろう。さらに、運動会と、その後に続く文化祭の準備も忙しいころだった。真っ暗になってから、さて採決となってみると、全生徒数の三分の二という定足数に足りない。学校に残って、いろいろ練習している生徒を全部かき集めてきても、まだ足りない。定足数不足を前提として採決してみると、多数はファイアストーム実施だった。生徒会決議にならなかったのが残念という気持の一方で、これで生徒会対教師の全面対決が避けられたというホッとした気にもなった。
その翌日、つまり運動会の前日だが、運動部の連中は「何が何でもやる」という。三年の各クラスを回って意見を聞いてみても「生徒総会の決議が成立しなかったということは、中止する理由にならない」と、断固やるべしの声が多い。私は「断固やるという連中にまかせて決行されると、それこそいろんな不祥事が予想される。やはり生徒会で責任を持ち、統制を取ってやらなければならない」と、再び生徒会でファイアストームに取り組むことにした。
教師の側は「絶対にやらせない」との姿勢を崩さない。強硬派の生徒の親を呼んだりしてつぶしにかかって来た。ある教師は私たちに 「やるならやれ。だけどやったら君たちは全員退学だ。私も教師をやめる」という。「そうしましょう。私も退学になる覚悟だから、先生もいさぎよくやめて下さい」と、開きなおったのは河原昭文君である。彼は現在、岡山で弁護士をやっている。私もいったんは覚悟を決めた。「退学になっても高校卒業資格検定試験を受ければいいや」なんて思ったりした。
対立のまま運動会当日になった。運動会の催しを進めながら、裏ではファイアストームをやるかどうか議論している。まったくせっぱつまった場面になっていた。
そんな中で偶発的な事件が起きた。ムカデ競争で、私のクラスのチームが倒れてしまった。一番前にいた背の高い友人が、皆の下敷きになってしまった。上にいた連中が皆起き上がっても、動けなくなっている。すぐ救急車を呼んで運んだが、首の骨を折るという重傷だ。今でも胸から下がマヒして車イスで生活しているという、不幸な事件だった。
余談だが、このとき私は 「すぐに救急車を呼ぼう」といった。教師の一人が「もう少し様子を見てからでいいじゃないか。たいしたケガでなかったら、ムダになる」と反対する。「冗談じゃない。ムダになったっていい。呼ばないでおいて大変な事態だったらどうするんですか」と押し切った。ファイアストームのことがあるものだから、何かあるとすぐにケンカになってしまう。いたるところで口論ばかりしている運動会だった。
こういう事故を起こしたことで、生徒会としては意気消沈してくる。教師の側の説得工作は熾烈を極めてくる。書道部の河田一臼先生は私に「活人の剣を使え」といった。「どうにもならない。やめよう」と私が言い出したように思う。
ここまでやったんだから、もう事実上ファイアストームをやったも同じことだ。みんなで教師と対立して、青春を燃焼させ尽くしたのではないか。これ以上、ファイアストーム決行にこだわると、被害の方が大きくなる。やむをえない。我々もやれるだけやった、教師の側も我々が最後に踏みとどまったことを高く評価するだろう。美的センスからしても、ここであきらめる方が、美しい終幕だ――と説得に回った。私としてはスジを通したと思っている。しかし、「なぜ勝手にやめたんだ」とつめ寄る親友もいて、つらい思いをした。
決行派も大部分はあきらめたようだ。「それでも」というのは一部残ったが、彼らには実行するカはない。そのかわり運動会終了後、タバコをふかしたり、ウイスキーを飲んだり深夜までつきあった。
もう一つ岡山県生徒会懇談会というのがあって、岡山朝日高校が会長校だった。懇談会では生ぬるいから県生徒会連合会に変えようという話が持ち上がっていた。この仕事が忙しく、県下の各学校へ行って、生徒会の幹部と頻繁に接触した。
昭和三十四年だから、六十年安保の前年だ。駒場寮籠城事件などがあった。東京では高校生の活動家もいたらしい。私たちは「東京の学生はすごいことをやるな」とは思っていたが、懇談会を連合会に変えるということは、そんなこととは無関係だった。しかし県教委が神経をとがらせたらしい。校長を通じて、これに横槍を入れて来た。
校長とも何回も話したし、県教委へ行って話したこともある。このときも「高校生は勉強が本分だから」などと繰り返し言われた。そんなことは分かっている。一度校長と話をしていて、ついうっかり口をすべらし「バカヤロー」と言ってしまったことがある。聞こえたかどうかわからないが、言ったとたんしまったと思ったものだ。その校長とは、今も往き来がある。
この方は校長が何を言おうが、県教委が何を言おうが、規約改正が通ればおしまいだ。結局連合会に改組してしまった。
生徒会総務の任期は九月で終わりだが、この年は残務処理に追われた。まず運動会で大ケガをした友人のための募金活動である。再び生徒総会を開いて、きちんとした形での募金を決めた。後任の生徒会総務の人事にも介入した。教師との対立感情が背景にあり、県生徒会懇談会の問題もある。いいかげんな人間を総務にはできない。おおいに口を出して後任を選んだのだから、その後の運営についてもアドバイスしなければならない。そんなことで、翌年一月の生徒会連合会の総会まで出席し、三年生の一年間を通して生徒会をやっていたようなことになってしまった。
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