第一章 生い立ち | 目次/前へ/次「いたずらの数々」 |
子供の頃から選挙が大好き
父は二十五年の参院選に当選した。塩ブリ事件で岡山県議を辞任した後、衆院選一回と県議選一回落選しており、無職が続いていた。周囲の人たちは、選挙というと目の色を変えて活気づく。このためかどうか、私自身も選挙は大好きだった。わけもわからないのにラジオの開票速報を聞いたり、上級生になってからは、新聞の立候補者一覧表に○×などの印をつけたりしていた。
小学校三年生になったばかりで、三木行治氏の知事選の時だったと思うが、桃太郎ののぼりのようなものを持って一人で街頭を歩きながら「三木さんをよろしく」とやっていたことがある。運悪くお巡りさんに出会い、呼び止められた。「これはまずい」と、のぼりでお巡りさんに殴りかかった。子どものことだから、何ともなかったが、妙なことをしたものだ。
父が家に落ち着いているというのは、選挙の開票日ぐらいしかなかった。朝から所在なさそうにしている。珍しく父と一緒に散髪に行ったりしたこともある。二十五年の参院選の投票日には、誰かに映画に連れていってもらい、西部劇「死の谷」を見た。スーパーインポーズ(字幕)が読めないから、ストーリーも何もわからない。とにかく映画を見たというだけで、子供仲間での自慢話ができた。
父が当選後だろうが、母は「国会議員の子が、あまりみっともない格好をしているのは不都合だ」と考えたのかどうか、紺のサージで学校行きの洋服を作ってくれるようになった。これを着て学校へ行くのが、どうも気恥ずかしい。普通の子どものような、木綿の市販の学生服がいいのに‥‥と思っていた。
母の話では、小学校に入りたての私は、かなりゆっくりした子どもだったようで、いつも学校に遅刻していた。先生が出席を取るかわりに 「江田君来ていますか。今日は早かったですね。それでは‥‥」と確かめて授業を始めていたという。三年の時に、風邪で熱が下がらず一ヶ月近く学校を休んだ。久しぶりに登校したとき、算数では時計のことをやっており、さっぱり解らなくて苦労した。
当時は三年で時計の他に、かけ算の九九を始めた。九九は四年までかかったように思う。今は両方とも二年のときにやってしまうらしい。小学校低学年でも、ずいぶん進ませるようになったものだ。
体格はチビだったが、負けずにあちこち遊び回っていた。家族に連れていってもらった記憶なんかないが、空地や川など、どこでも遊ぶ場所があり、また遊び仲間も必ずいた。小学校六年間を通じて、お日さまの照っている時間に家で机に向かって勉強したことは皆無だろう。
断片的な記憶だが、よくレンゲの蜜を吸っていたことを思い出す。今ではビンか何かに入れて市販されているという。あっという間に時代は変わってしまう。その他には棒ぎれや石ころなどを拾って来たりして、いろいろ遊びを工夫していた。戦災にあっているから、どこにでも瓦のかけらがころがっており、これで瓦倒しという遊びをしたりした。そんなものでも結構おもちゃになった。走るのは速くなく、野球など球技は苦手だったが、それでも遊びには十分参加できた。
近くの旭川やその用水路で魚を獲るのも楽しみだった。ハゼみたいな形でドンコツと呼ぶ魚がいた。木の枝に釣針をつけてたらしているだけで、エサなんかなくても食いついてくる。貪欲な魚なのだろうか、まったくよく釣れた。カメンターといっていたのはタナゴらしいが、きれいな魚だった。ギギというトゲのある魚もいた。遠くの池に遠征して、フナ釣りも試みたが、これは難しい。テンゴウエビやザリガエも獲った。
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