第一章 生い立ち 目次前へ次「悪童グループとともに」

  いたずらの数々

 いたずらにもいろいろ手を出した。カエルをつかまえて、かまぼこ板を手術台にして解剖したり、食用ガエルのオクマジャクシを空カンのなべで煮たり、自慢の手製のパチンコで猫の尻をうったり、死んだヒヨコを醤油のつけ焼きにしてスズメの代用にしたり、思えば残酷なことばかりしていた。子供とは、そういうものではないかと思う。

 このころはいつも犬を飼っており、私の子分にしていた。一度、拾ってきたノラの子犬を「厳しくしつけよう」と思い、ベルトでビシビシたたいたら、ひどく卑屈な性格になってしまったことがある。過ぎたるは及ばざるがごとしで、可哀そうなことをした。猫も飼った。すぐ床下侵水する家だから、湿気が多いのだろう。よく病気で死んだ。その都度、近くの旭川の土手に手厚く埋葬した。そうしたことすべてが、子供の生活であり、遊びであったのだ。

 父は参議院議員になってから、二十七年四月に発刊する日刊紙「社会タイムス」に全力を投入していた。二年半しか続かずに(というべきか、あるいは悪戦苦闘のなかで、二年半も持ちこたえてというべきか)廃刊してしまうのだが、議員報酬など全収入を「社会タイムス」に注ぎ込んだ。講和問題や社会党分裂について、さっぱり記憶にない私だが、家が経済的に苦しかったことだけは強く印象に残っている。

 たとえば、級友の家へ遊びに行って、ケーキをごちそうになった。こんどその級友が私の家へ遊びに来たので、母に「ケーキを出してくれ」と要求した。もちろん断られたうえ、友人が帰ってから、「家では、ケーキなんか出すお金はありません」と、こっぴどく叱られた。こんな情けない思いを続けていたわけだ。国会議員なんてものではない。倒産寸前の中小企業の生活という感じだ。

 こんな事情のためか、当時までの生活の実感は、貨幣経済を基本としたものではなかったように思う。売買以外の方法で、できる限りのものは調達し、どうしても不足するものだけを買っていたと思う。捨てる物は極めて少なく、何でも再利用していた。今は資源危機の下でリサイクルが強調されているが、私たち日本人は、とっくの昔にこれを経験している。忘れないようにしたいものだ。

 子どもが家事を手伝うのも当然のことだった。私が時々、朝飯を作っていた時期もある。私の家ではマキが燃料で、カマで飯をたいていたのだが、火の調節などさまざまのコツを教えてもらうと、結構楽しい。失敗しながらも、自力でやれるようになると嬉しかった。母の都合の悪い日は、飯とみそ汁ぐらいは用意できるようになっていた。

 父の「社会タイムス」への熱中は、私たちの生活にシワ寄せがあっただけではない。選挙区の支持者の反発も招いたようだ。父は、「私の履歴書」で、「社会タイムスの二年半あまり、僕は党のことも国会のことも選挙区のことも、いっさいを捨てて、タイムス一本でやってきた。選挙区からは、こんなことでは次の改選に協力できぬと、心配してくれての強談判もあった。僕は国会議員である前に革命家なのだ。革命がこの仕事を僕に要求しているのだといって、けんか別れをしたこともある」と書いている。

 この場面だったのかどうか、家に人が来て父と激しい議論を始めたとき、私が居合わせたことがある。父が興奮して、手に持った湯飲みをドンと机にたたきつけた。湯飲みが割れ、手が切れて血だらけになってしまった。

 こういうことを思い出すたびに、父は戦後の半生を社会党建設に捧げつくしたのだと思う。世代の違いはどうにもならないが、父が社会党書記長として白髪でテレビに出ていたあたりからのころしか知らず、何か国民の人気取りばかりやっていたと考えている人も多いらしい。これでは父の活動をほとんど理解していないというより、曲解しているようなものだ。私自身も、党建設を第一歩からやりたいと思っている。社会市民連合で最初から代表というのは重荷だ。余裕があったら代表からはずしてもらいたいところだが……。

 こんな状況だから、父には、子供のことなんか全く考える余裕もなかったのではないか。東京生活で長い間留守をした後など、そのおわびの印であるかのように 「さ、ふろに行こう」と私と拓也を銭湯に誘うところまでは良い。しかし普通の父親のように手などひいてくれない。石けん箱をかかえて、さっさと先に立って歩くだけだ。拓也が転んでも起き上がるために手を貸すこともない。ふろに入っても、自分の体を洗うだけだ。私たちの体を洗うとか、着物を着せるとかも、もちろんやらない。自分が上がりたいときには 「上がるぞ」と一声かけるだけで、まったくのマイペースである。だから父と銭湯に行ったときは、体も洗わず、パンツをうしろ前にはいて帰ったりして、母を嘆かせたものだ。

 小学校高学年のころだろうか。夏休みか何かに東京の父から電話がかかり、明日何時にどこそこへ来いという。奈良を見物したときと京都から大津あたりを回ったときと、二回あった。父にしてみれは家庭サービスのつもりであろう。だが、行先きも何も言わず、父は一人でどんどん歩いて行くのだ。荷物を持ち、私たち子ども二人を連れた母が、追いかけて行くのがやっとという感じだ。まったく奇妙な家族旅行だった。

 西大寺の女学校を出ていた母は、当時としてはモダンな方だったのだろうか。党活動の中で文化活動をかなり積極的にやっていた。家や公民館を会場として、講師を呼び、版画教室や人形作りの講座をやっていた。レコードコンサートもあった。電蓄やレコードはもちろん借り物。レコードはSPだ。メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲などをおぼえているが、もちろん楽章の途中でプツリプツリと切れるし、合計四、五枚のレコードを表裏とっかえひっかえかけ直す忙しさだったはずだ。グラフや表を使って「戦闘機一機作るのに何億円かかる。住宅が何千戸建つ」というような内容の学習会もあった。再軍備が政治問題になっていた時期だった。


第一章 生い立ち 目次前へ次「悪童グループとともに」