第一章 生い立ち 目次前へ次「立たされたことも」

  悪童グループとともに

 家庭生活で思い出すのは正月である。大みそかの朝、自転車で出発して五、六十キロも走るだろうか、県北部の温泉に行くのが、父の流儀だった。このときも家族水入らずではなく、そのへんにいた人は誰でも連れていくのだ。母だけは自転車に乗れないので、バスで行っていた。これもなかなか良い正月だと思うのだが、私は成長するに従って子ども仲間のつきあいがあって、家族より先に帰るようになった。書道をやっていると二日は書き初めだし、水泳仲間で元旦に旭川で寒中水泳をしたこともある。そのほかでも何やかやと子供仲間のつきあいも忙しい。大みそかの夜着いて、正月の朝の雑煮を食べるのもそこそこに、すぐに自転車でトンボ返りすることがよくあった。子供の世界もきびしいもので、仁義を忘れてはならず、家族を優先させるようでは軟弱とみられた。

 父は三十八年から衆議院にクラ替えする。その二、三年前から、正月旅行もやらなくなった。正月は家にいて、選挙区のお客さんを迎えなければならないのだ。こういう政治家のあり方というか、それを余儀なくさせる政治のあり方は問題だと思うが……。

 正月のついでに思い出すと、盆踊りとか、祭りも楽しみなものだった。浴衣を着、花笠をかぶって踊ったこともあるし、ハッピ姿で子どもミコシをかついだこともある。当時は商業主義ではなしに、こんな行事がさかんだった。それがいったん衰え、最近また復活して来ている。商業主義と結びつき、これに流されることのないように気をつけなければならないだろう。

 私は小学校四年の頃から、体も丈夫になりいろんなことに手を出すようになった。絵を習い始めたが長続きしなかった。習字にも通い、高校時代、書道に本格的に打ち込む下地となった。夏休みには、大学二年まで十二年間も続ける水泳に行き始めた。

バイオリン発表会で(小学校4年) その上に。バイオリンもある。何故か異常なほどにバイオリンを習いたくなった。母のレコードコンサートもあったし、当時ラジオの 「大作曲家の時間」 「名演奏家の時間」などを聴くことも多かった。いい音色だと思ったのだろうか。すでに習っていた同級生がいたので、ボクもと思ったのだろうか。とにかく「バイオリンを買ってほしい」と両親に何回もねだった。ある日、父が東京から帰って来て、見るとバイオリンのケースが置いてある。うれしくて跳びついたが、持ち上げるとあまりに軽い。「ケースだけか」なんて思いながら開けてみると、もちろん中身も入っている。あんなにほしかったバイオリンがこんなに軽いものかとちょっぴりがっかりした。

 すぐに習い始めたが、結局小学校の時だけしか続かず、ものにならなかった。そのバイオリンは二分の一というサイズで、さらに四分の三に買いかえた。後に普通サイズを買ったが、本格的に習うチャンスはなかった。今でも気が向けば弾くが、下手なものだ。小学校五、六年の時は合奏団に入り、ベートーヴェンの「第九」や「カルメン」「ハンガリア舞曲」などをいずれもさわりだけだけれど演奏してはいたのだが。

 母は俗にいう教育ママとは縁遠い。こういう習い事を始めるのについても、何も言わなかった。むしろ月謝を工面するのが大変だったのではないかと思う。

 一度だけ、母とと習字のことでケンカしたことがある。阪神タイガースの強打者、藤村富美男が岡山に来て、少年相手にバッティングの指導をするという。私は野球は苦手で、大した興味もなかったが、勝手に「行く」と決めていた。ちょうど習字のけい古のある日で、母は「習字に行きなさい」と、こわい顔をする。私は「習字は来週もある。藤村が来るのは今日だけだ」と生意気な理屈を言って母を押し切った。母はたぶん、いったん始めたことはきちんとやれと言いたかったのであろう。

 四年生の時の先生はちょっと変わった芸術家風の先生だった。私たちが教室の掃除を嫌がると「もうやらなくても良い」という。しめたとばかり、十日間ぐらい放って置くと、教室は極端に汚れ、ゴミの山になってしまった。やむをえず自主的に掃除を再開した。

 小学校五、六年の担任は厳しい先生で、だいぶしぼられた。算数なんかは、ある級友と競争で教科書を先へ先へと独習し続けた。このとき初めて家で勉強したし、自分自身で教科書などを読み、学ぶという姿勢をつかんだと思う。この先生は進んだ児童を対象に、どんどん難しい宿題を出す。先生は「これでもか、これでもか」といい、私たちは 「コンチクショウ、コンチクショウ」といいながら追いかけっこしていたようなものだ。今にして思えば、こんなやり方は問題も多いのだが……。

 私自身の成績は常にクラスで二番手というところだった。優等生の表彰が行われていた時代だが、小、中学校を通して選ばれたことはなかった。

 むしろ悪童グループの方から、リーダーとして頼りにされる面もあった。三年の時、級友の一人が何か悪事を働いて、別のクラスの先生に連れて行かれ、その教室で立たされてしまった。なんとか謝って連れもどそうというわけで、十人ぐらいが出かけたが、その先生に対して誰も口を開かない。やむをえず、私が「もうしわけありません。今後は僕たちも気をつけますから、今日は許して下さい」 と口上を述べた。

 私の小学校時代の教育は混乱のさ中にあったといえるだろう。一学級五十数人のスシ詰め教室だったし、教科書も整ったものではなかった。「国」と「國」のように、二つの字体を習った漢字も多い。まして「民主教育」への切替えの中で、先生たちの価値観の面でも混迷があったのではないか。

 だが迷いながらも、先生たちはそれぞれ全力をあげて私たちにぶつかって来てくれたように思う。だから私の受けた教育は良かったと思っている。教育とは先生がスジ書きどおりに生徒を引っ張り上げるものではない。教える者と教えられる者がぶつかって、何かを生み出して行くものだ。

 たしかに知識の伝達という側面はある。しかし知識は一つひとつ人類が積み重ねて来たもので、それぞれ発見された時には感動的なものであった筈だ。知識の伝達でさえ、無味乾燥な形で行われてはならないのだ。今の教育は整い過ぎた中で感動が失われているのではなかろうか。

 遊んでいたわりには、よく本を読んだ。少年少女向けの文学全集は、岩波書店のものなど三種類ぐらい読んだ。何もかまわない父だが、本だけは良く買って来てくれた。市立や県立の図書館で借りて読んだ本も多い。下村湖人の「次郎物語」や壷井栄の「二十四の瞳」に感激したことをおぼえている。「二十四の瞳」は高校時代まで繰り返して読み、今でも目をつぶれば、いくつかの情景を思い起こすことができる。「二十四の瞳」に感激したのとは別に、私はいつも学校の先生になりたいと思っていたものだ。

 いわゆる少年雑誌は級友などから借りて読んでいた。学校で朝借りると休み時間にぶっ続けで読んで、一日で読み終わってしまう。だからカネを出して買うのはバカらしいと思っていた。ある時期、雑誌を学校に持って来るのが、禁止されたことがある。私は一番の被害者で、規則づくめのやり方に反感を持った。

 そのかわり「子供の科学」を定期購読していた。当時は自然科学に興味を持ち、鉱石ラジオを組み立てたりしていた。これはよく聞こえて、十分実用に耐えた。中学時代にはゲルマニウムラジオを組み立てたが、これはハンダ付けが下手で、よく聞こえなかった。

 こういう組立てセットを買う金は、クズ鉄やクズの鋼を土の中から掘り出し、売って稼ぐのだ。日本経済が復興の途上にあり、当時カネヘン景気という言葉もあった。クズ鉄などを買う店がどの町にもあった。土の中には、戦争の名残りで鉄や鋼の製品がさびたまま埋っていた。これを掘り起こして五円、十円と稼ぐ。今の子どものように、月に何円と決まった小通いをもらったのは、中学生になってからだろう。

 娯楽といえばラジオが中心だった。「白鳥の騎士」「笛吹童子」など、夕方六時前後に毎日放送されたラジオドラマに心をおどらせていたものだ。今のテレビの子ども向け番組が一回一回で完結するのとは逆で、ずっと長く続くストーリーだった。今の方がテンポは早いが、じっくり楽しむという要素には欠ける。そのほか「日曜娯楽版」「トンチ教室」「話の泉」など、大人向けの番組も聞いていた。

 こういう子供時代を振り返って、今の子どもの生活と比較すると「一物一煩」という言葉がよく当てはまる。物が一つ増えると、必ずそれによってわずらわされるということだ。たしかに今の子どもの方が物質的には恵まれている。しかしそのために、遊びでもなんでも制約されている面が多い。私たちは何もなかった。だから自分で遊び方を工夫していくより他にしようがなかった。遊び方を決めてから、それには石ころが要るとか、棒切れが必要だということになって、集めてくるわけだ。いちがいに「今の子供はダメ」というつもりはないが、このあたりを良く考える必要があるのではないか。


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