1976年 社会市民連合結成

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結成前夜

 社民連の歴史を語るならば、暦を逆流させて、江田三郎が社会党を脱党した、その前年の一九七六年から書き始めるべきであろう。この年は、戦後政治史の中でも特筆すべき激動の年であった。


 一九七六年二月四日、米上院外交委員会多国籍企業小委員会(チャーチ委員長)公聴会で「ロッキード事件」が発覚した。

 ロッキード社のコーチャン副会長は「航空機売り込みのため、児玉誉士夫や政界の某大物に数十億円のコンサルタント料を払った」と証言した。この“コーチャン証言”を皮切りに、以後次々と衝撃波は海を越えて日本の政界を揺さぶることになる。

 二月六日、衆議院予算委員会のロッキード事件集中審議の初日に、社会党の楢崎弥之助は三木首相に対し、「私は断言してもよい。これは田中金脈の一環である」と言い切った。

 そう言い切るには、充分な根拠があってのことである。楢崎は、この六年前に日航と全日空がエアバス導入を決めて間もなく、「ロ社の売り込み合戦に政治家が格んで暗躍している」という黒い噂をキャッチした。以来、衆議院予算委員会でも度々エアバス導入を取り上げ、特に一九七五年十月二十三日には、今回チャーチ委員会で問題化した政治的背景をいち早く指摘している。

 これは、米上院銀行委員会(プロキシマイヤー委員長)の八月二十五日の公聴会における「ロッキード社からのワイロが日本政府当局者、要人に送られたのではないか」という質疑を踏まえたものであったが、なぜかこの時マスコミは取り上げなかった。

 この後楢崎は、プロキシマイヤー委員長に対して私信を送り、□社尋問の根拠と資料を要求していたのである。

 こういう下地があってこそ「田中金脈の一環」と断言できたわけだが、果たせるかな、翌日のチャーチ委員会は、小佐野賢治国際興業社主の介在を明らかにして、楢崎の指摘の正確さを証明したのである。

 アメリカから続々と重大ニュースが届き、世論は沸騰した。各党は争ってアメリカに調査団を派遣する一方、衆議院では、証人喚問をするしないで与野党が渡り合っていた。

 そのさ中に「“新しい日本を考える会”発足近し」というニュースが報道され、社会党内に波紋が広がった。

 新しい日本を考える会というのは、松前重義東海大学総長(元社会党代議士)を代表として、江田三郎社会党副委員長、矢野絢也公明党書記長、佐々木良作民社党副委員長の社公民トリオや、評論家の松田道雄等、学者・文化人が呼びかけ人として名を連ねる新しい「政策集団」である。

 今、国民は、ロッキード事件に代表される政治腐敗の原因が三十年にわたる自民党一党支配にあることを完全に理解し、田中金脈に続く今回の疑獄の発覚で、自民党の土台も揺らぎ始めていた。常識的には、政権交代となるケースである。だが、それを望む声は国民の側からほとんど出て来なかった。なぜか。

 三木首相が真相究明に積極的、ということも一つの理由であったろうが、野党第一党の社会党に大きな原因があった。

 いまだに建前ばかり言って、現実的改革を口にしようものなら、社会主義協会に袋叩きにされる――こうした教条主義体質が有権者に嫌われ、旧くからの支持者の中にも愛想を尽かして離れて行く人が目立ち始めた。

 与党もいやだが野党もいやだという「支持なし層」が、三〇%を超える分厚い層になっていたのである。

 新しい日本を考える会は、この「支持なし層」の結集を促し、旧態依然たる“革新”を革新する政策づくりの場、つまり政策集団なのだが、社会党内では、呼びかけ人の顔ぶれを見て社公民路線の政治集団と、勝手に思い込んでしまった。社会主義協会ばかりか佐々木(更三)派からも江田批判の声が上がった。

 江田三郎は二月十九日の社会党中央執行委員会で、「社公民路線指向のための会合ではない」と釈明。中執委はこれを一応了承したものの、「今後は党の方針−全野党共闘−に従って行動すること」と釘を刺した。

 こういう経過を経て、政策集団「新しい日本を考える会」は三月二十四日に発足した。

 一応、ロッキード事件のほうは、二月十六・十七日の両日、衆院予算委員会で小佐野賢治をはじめ、全日空の若狭社長、丸紅の桧山会長、大久保専務らの証人喚問を行った。証人たちの「記憶にございません」の連発は質問者を苛立たせ、テレビにかじりついた国民を白けさせた。しかし、「記憶にございません」という科白によって、彼らは後に偽証罪で逮捕されることになった。

 そういうこともあって、自民党の大勢は証人喚問に慎重となり、日を追って真相究明に消極的になって行ったが、三木首相は積極的であり続けた。

 もともと三木政権は、田中角栄前首相のダーティーなイメージを払拭するため、「椎名裁定」によって、青天のへきれきのように誕生したのであるが、ロッキード事件の真相究明こそ“クリーン三木”の使命であるかのごとく、党内の風圧にも姿勢を崩さなかった。稲葉法務大臣と井出官房長官という二人の長老議員も、三木を支えて頑張った。

 こういう三木首相に国民は好感を持ち、各紙の世論調査の結果は、自民党の支持率下降と三木内閣の支持率上昇という対照的なグラフになって表れた。

 しかし、党外で信頼されることは自民党内では不信感に変わる。

 「三木ははしゃぎ過ぎだ。側隠の情がない」と、三木政権の産婆役、椎名副総裁が率先して“三木おろし”に動き出した。なりふりかまわぬ“ロッキード隠し”であった。

 六月十四日、河野洋平、田川誠一、山口敏夫ら六名の議員が自民党を脱党した。

 「党内での改革に限界を感じた。私はこの際、“出直し論”“みそぎ論”などの言葉ではなく“愚直”に行動したほうがよいと考えた」 「新党を結成し、“新しい保守”を模索する」 と河野洋平は語った。そしてさまざまな慰留工作を振り切り、六月二十五日、正式に自民党を離党、新自由クラブを発足させた。

 政権党からあえて脱党した六議員の決起に、国民は惜しみなく拍手を送った。

 この頃、社会党はますます国民の希望とは逆方向へ傾斜しつつあった。

 この年の三月、共産党でさえ「プロレタリア独裁」 の大看板を「プロレタリア執権」と塗り替え、イメージチェンジを計ろうとした。ところが社会党では、勝間田清一理論委員長が「共産党がプロレタリア独裁をぼかしたことは大衆迎合で誤り」と批判し、「わが党こそプロレタリア独裁を目指すマルクス・レーニン主義の党」と強調して、国民を失望させる始末であった。

 こうした社会党の硬直した体質が頂点に達したのは、六月二十一日、御殿場で開かれた社会党全国書記長会議である。

 全国の書記長の顔ぶれを見れば、社会主義協会系が大半を占め、会議が江田批判に終始することはわかりきっていた。

 大柴滋夫、阿部昭吾、山田祉目、川俣健二郎、貴島正道ら江田周辺は、社会主義協会との全面対決を決意、「江田批判、受けて立つべし」 の方針を決めた。

 果たして、当日の発言者は九対一の割合で江田攻撃。しかしいずれの発言も、中身は「新しい日本を考える会は独占の意図する保革連合」の一語に要約できるもので、さながらエンドレステープ。

 発言者の三人めぐらいから大柴はたまりかね、江田の膝を突ついて「諸君とは見解の相違であると言って打ち切ってしまえ」とすすめた。ところが、いつもは気短な江田がこの日は、貴島正道が前夜まとめた江田路線についてのマニュアル通りに懇切丁寧に答え、議論好きの社会主義協会をますます興奮させてしまった。議論の内容としては圧倒的に江田の勝ちであったが、怒号のボリュームは圧倒的に社会主義協会が勝った。砂を噛むような時間が流れた。

 その時、終始黙っていた成田委員長が立ち、「考える会への参加は中執で了承し、大会でも承認されている。積極的に党の方針を浸透させ、活躍してほしい」と、江田の行動を肯定する発言をした。

 これで一応、怒号も収まったのだが、翌日の新聞には、まったく異なる報告が塚田総務局長の「座長集約」として載っていた。あの成田委員長の発言が「考える会への出席は事前に中執委の了承を必要とする」と正反対の内容にすりかわっていたのだ。

 この「座長集約」は七月一日の中執委で問題化し、塚田総務局長も「あれは一般論を述べたもの」と釈明した。しかし、社会主義協会と反協会との対立は、これをきっかけに一層深まったのである。

 六月十二日、ロッキード事件で最初の逮捕者が出た。丸紅専務の大久保利春と全日空幹部三人である。これを嚆矢として丸紅・全日空関係者が次々と逮捕された。六月二十九日には、児玉誉士夫の秘書・太刀川恒夫が逮捕された。

 稲葉法相の「これまで逮捕した連中は相撲にたとえれば十両か前頭十三、四枚目。これからどんどん好取組がみられますよ」という発言が新聞に載り、世論を沸かせた。

 これに先立ち、五月十四日には衆議院で、五月十九日には参議院で、ロッキード事件調査特別委員会が発足した。衆議院ロ特委委員長には元法相の田中伊佐次が就任したが、これまた硬骨で鳴る人だけに、自民党内の制止をはねのけて野党の要求を呑み、灰色高官の名を公表した。

 田中角栄、二階堂進、佐々木秀世、加藤六月、福永一臣の五名である。

 「やはり角栄がいた」と世論は沸き立ち、野党は証人喚問を要求した。自民党内の“三木おろし”の動きは、再び活発化してきた。

 七月二十七日、田中角栄前首相が逮捕された。直接容疑は外為法違反。“ピーナツ” “ピーシズ”と呼ばれた五億円は、首相当時の田中角栄に渡ったことを、丸紅の桧山社長が自供したのだ。稲葉法相流に言うならば、一気に横綱逮捕である。 「他の政権なら指揮権発動だったかも知れない」 「三木・稲葉コンビはよくやった」という投書が各紙の投書欄を埋めた。

 ところが、これで“三木おろし”は収まったかというと、反対に一層激化したのである。 「灰色、灰色」と言われるよりは、主役の逮捕でかえってすっきりした。毒喰らわば皿まで、この際一気に三木を追い落とそうということなのであろう。

 今までは三木首相を支えていた福田赳夫副総理も、今回は“三木おろし”に加わっていた。ポスト三木の首相の椅子に最短距離の立場にあったことを意識したのであろう。

 八月十七日、田中角栄が保釈金二億円を積んで保釈されると、動きはさらに加速して、八月十九日には福田、大平、田中派等が寄り合って挙党協を結成。元衆議院議長の船田中を座長に据えて、公然と三木退陣を要求した。

 このていたらくに絶望して、宇都宮徳馬が自民党を脱党した。しかし、これで反省するような挙党協ではなかった。

 八月二十三日、江田派は熱海で全国討論集会を開き、「党改革への提言」を発表、「公明党との連合を先行させるべきだ」と社公先行路線を打ち出すとともに、自民党の分裂した部分についても、政策の一致を前提に「頭から否定することはない」 とした。

 また、「日本における社会主義への道」に対して初めて批判を展開し、次の大会では社会主義協会と全面的に対決することを決めた。

 九月二十七日、江田三郎は二十五年永年勤続議員の表彰を受けた。江田はその心境を、

 議員二十五年 政権もとれずに恥かしや

の一句に託した。

 一方、自民党は挙党協だけでは足らず、今度は党議実現推進委員会なるものを保利茂実行委員長のもとに発足させ、「三木はガバナビリティー欠如」という言い回しで攻撃した。

 三木首相は、国会を解散したくてもできない状態に追い込まれた。挙党協には三木派三十六名を除く八〇%が参加していたから、数からいえば勝負はすでに明らかだった。にもかかわらず三木が任期満了の総選挙まで持ちこたえた手腕は、“バルカン政治家”の名に恥じぬものではあった。

 総選挙の投票日は、一九七六年十二月五日と決まった。

 第三十四回総選挙は、野党にとってきわめて有利な状況であった。

 社会党では江田派や新しい流れの会が「連合の時代を切り拓く」を合言葉にして、「支持なし層」へも精力的に働きかけた。

 ところが、東京七区に、「働きかけ」を受けなくとも積極的に政治に参加しようとする「支持なし層」が現れた。「あきらめないで参加民主主義をめざす市民の会」という市民グループである。ユニークな名称でもわかる通り、メンバーは全員若かった。

 彼らは一九七四年の参議院選挙で、「市川房枝さんを勝手に推薦する会」を結成し、前回落選した市川房枝前参議院議員をかつぎ出した。

 この第十回参院選は、田中角栄首相が直接指揮して、主に官僚出身の全国区候補者を大企業の系列ごとに割り当てる「企業ぐるみ選挙」や、糸山英太郎に代表される「金権選挙」を自民党が採れば、対する野党は大企業・官公庁労組に依存する「労組選挙」といった具合で、参議院全国区はますます国民に縁遠いものになっていた。

 「勝手に推薦する会」の若者たちは、こういう全国区で、あえて市川房枝が長年実践してきた理想選挙を貫いたのである。結果は、これまた金を使わぬ選挙の青島幸男が一位、市川房枝は二位で当選した。

 市川房枝をかつぎ出した若者たちらは、もとは「より良い住まいを求める市民の会」 「恐怖の化学物質を追放するグループ」「消費を考える葛飾の会」「政治資金問題研究会」という別々の市民運動グループの参加者であったが、市川房枝選挙の後もネットワ−クを組み、学習塾を経営したり大学祭へグループとして参加したりして資金をかせぎながら、「シビルミニマム」という機関紙を月一回発行していた。

 そうした時にロッキード事件が発生、金権腐敗の自民党とそれを有効にチェックできない野党という、現在の日本の政治体質を浮き彫りにして見せた。

 「もう政治の観客でいるのはよそう」と若者たちは立ち上がり、東京七区に菅直人を立候補させることを決めた。推薦団体は「あきらめないで参加民主主義をめざす市民の会」(後に「あきらめないで」をカットして「参加民主主義をめざす市民の会」と改称する)。

 菅直人の立候補は「無謀」といわれた。「選挙には看板、地盤、鞄が必要。市川さんは鞄はなかったが、看板と地盤はあった。菅君は三つとも無い“三無選挙”じゃないか」という好意ある忠告も度々受けた。

 しかし、カンパとボランティアによる選挙戦の結果は、マスコミや世評に反して七万一、三六八票。菅直人は次点となったのである。

 「実験成功」と若者たちは喜んだ。この時の菅選挙事務所の主なメンバーは、片岡勝、田上等、湯川憲比古、宮城健一等である。

 第三十四回総選挙の結果は、自民党は前回二七一の議席を二二も減らして二四九議席と大敗した。社会党は五議席増の一二三議席。公明党は二六増の五五議席。民社党は十議席増の二九議席。共産党は二一減の一七議席。誕生したての新自由クラブは、一挙に一七議席を獲得した。

 中道各党の躍進が目立ち、五五年体制の終焉、連合時代の幕開けが数字で示された。

 だが運命の皮肉といおうか、連合時代の要となるべき江田三郎が、この選挙で落選してしまう。江田は、「敗軍の将、兵を語らず」とのみ語った。

 十二月十七日、三木首相は辞任した。

 今回の自民党大敗は、ロッキード事件とそれを隠そうとした挙党協の側に原因があって、三木首相の側にはない。にもかかわらず三木は、「憲政の常道に従って出所進退を明らかにしたい」と「私の所信」を発表して退陣した。

 十二月二十四日、第七九臨時国会が召集された。午後一時からの衆院本会議で、首班指名投票が行われた。結果は

福田 赳夫(自民)
成田 知巳(社会)
竹入 義勝(公明)
春日 一幸(民社)
野坂 参三(共産)
河野 洋平(新自ク)
二五六票
一二二票
 五五票
 二八票
一九票
一八票
無効(白紙、投票者または被指名者の氏名の記載もれ)一〇票

 投票総数の過半数にわずか一票差で、福田は薄氷を踏むようにして首班に指名された。議場はどよめいた。

 この後、参議院で行われた首班指名選挙でも、過半数を上回ることわずか一票であった。

 衆参軌を一にして「一票差」。与野党逆転は、にわかに現実問題として全議員の意識するところとなった。


1976年

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