1977/05/24 | 社会市民連合結成 |
死を超えて継ぐ志
二十三日夜。東京・麻布台、ソ連大使館横の日蓮宗廣栄山一乗寺に向かう通夜の客は、二時間にわたって列をなした。政界の党首たちにまじって、社会主義者荒畑寒村がツエをつき、両腕を若者に支えられて現れた。白いスーツの女性が、花束を抱いてそのあとにやってきた。くろぐろとした寺の屋根の上で、東京タワーのネオンが夜空をつき刺していた。
集票能力を重視
その数時間前、一乗寺の庫裏で故江田三郎氏の長男、横浜地裁判事補の五月は裁判官の辞任願を書いた。夕方になって社会市民連合は五月を、江田の後継者として参院選全国区に立てることを内定した。
五月は、江田が急死した夜、東京・西新橋の東京慈恵医大病院で、暗示的に語ったものだった。「私の三十六回目の誕生日に、父は死んだ。まるでその日に合わせるかのように、父の肉体は、どんどん衰弱していったんです」。東大教養学部自治会委員長。江田が社会党書記長だった三十七年、大学管理法反対運動で退学、そして復学。四十年、代議士となった横路孝弘らとともに司法試験合格。五月は父に似て、すでに起伏に富む半生を送ってきた。
(1)路線の継承 (2)社会党を分解させるパンチ力 (3)参院選での集票力――社会市民連合のグループや、旧江田派社会党代議士たちが、事務所から寺の境内の片すみへと、場所を移しながら鳩首協議して後継者に求めたものは、つまるところ、この三点であった。すでに離党を決めた代議士大柴滋夫に続いて、いったい何人が党を抜け出て新たな戦列に加わるのか。百万票を超え、あるいはブームを呼ぶかも知れぬ、といわれた江田に、だれが代わり得るのか。周囲は、五月の能力はむろん、加えて、寄せられるに違いない「同情」を重く見た。が、新生の党にそぐわぬ「世襲」への批判をどうかわせることか。
「日本の歴史に新しい時代を開く連合政権のための、捨て石の役割を果たしたい」 (著書「新しい政治をめざして」)といっていた江田は、どこへ向かおうとしていたのか。
「市民戦線」めざす
革新中道の“江公民路線”から、一歩進んで、全く新しい「革新市民戦線」に向かおうとしていた、と分析してみせるのは東大教授(政治学)の篠原一である。東京地方区から出る菅直人と、その「参加民主主義をめざす市民の会」に代表されるような市民運動グループなどが、確かに江田を幾重にも取り巻きはじめていた。これらは従来、「政治は汚い」とそっぽを向いていた“議会外野党”グループで、彼らの参加は、新しい政治の潮流といえた。
江田自身も、その方向へ踏み出そうと決意していたとも受けとれることを絶筆になった文のなかに書いている。四月二十四日、保谷市の東伏見小学校体育館で開かれた「社会市民連合」と、菅直人らのグループとの公開討論会の模様を収録したパンフレット「創造への参加」に江田が書いた「開かれた市民参加の道」と題する短い一文である。
江田は、新たな仲間となる菅らを「イデオロギーを教条的にとらえて自己満足している青年よりも、きわめてラジカルな青年たちだ」と語り、彼らと議論するうちに「身体の奥からエネルギーがわき出てくるのを感じた」と喜ぶ。そして、菅を社会市民連合の代表に迎えたことで、「ようやく社市連は態勢がとれ、本格的なスタートをきれることになった」と結んでいた。確かに、「社会市民連合」は、江田の死の直前から、若い「市民連合」へと傾斜しはじめていたのだ。
五月は、その流れを引き継げるだろうか。江田の重い病を、陣営が最後まで隠そうと努力したのは、巣立とうとする社会市民連合から江田を欠くことの衝撃度の大きさを物語っている。「いろんな屈折はあっても、連合政権時代のニューフェース革新市民戦線の路線はいっそうはずみがつくだろう」(篠原)といった好意的な観測もある。しかし、五月を加えた社市連の前途はけわしい。
対応急ぐ各陣営
政治の世界は、冷たく、現実的である。各陣営は早くも江田抜きの参院選の票読みと、対応を始めた。波乱の要因が一つ消えて、政局の「安定化」は「白、共」に有利。江田とムードが似ていた「新自ク」はさらに有利。「公、民」にとっては、票を食われる心配はなくなったものの、念願の政局再編計画では、痛手。江田とともに離れる票が去ってしまって、「社」はそう変化はないが、いくぶんは持ち直しか―など。そして連合の組み合わせの再検討が始まっている。
江田の死は、激しく政局のうずまく中での参院選を、まるで象徴するかのように劇的であった。(1977年5月24日「朝日新聞」)