1977

戻る目次前へ次へ


江田氏と社会主義

 
社会党への決別宣言・社会市民連合の結成宣言ともなった新著「新しい政治をめざして」の出版記念会が開かれた四月二十三日。江田さんは意気軒こうで決意を語り、談笑していた。だが、急死の夜の夫人の話では、その出版記念会から帰り着くと息も絶え絶えの疲労ぶりだったという。病魔は既に深く江田さんをむしばんでいたのである。

 今にして読み直すと、この著書はそのまま江田さんの遺言の書である。そこまで、社会主義運動にささげた五十年の半生の回顧、あすの日本の政治への展望と決意が語られ、花あれこれ、母への思い出までが記されている。

 江田さんの政治信条は次の一節に凝縮されよう。

 「私にとって、社会主義はご神符ではない。社会主義運動とは、人間優先の理念に立って、現実の不合理、不公正の一つ一つをたたき直してゆく、終着駅のない運動のトータルなのであり、そのことを国民の合意のもとに行おうというのであり、右だ左だというのはつまらない観念の遊びであり、大切なことは、現実の改革に有効なのか否かである」

 愛 着
 
三月二十六日の離党声明の前夜、江田さんとじっくり話し込む機会があった。私はこう言った。
 「あれから十五年は長過ぎましたね。ツーレイト(遅すぎる)でなければよいが―」

 すると、江田さんはこう応じた。
 「ポクは短気で飽きっぽいという定評だが、案外、我慢強いということさ。それに、生涯をかけた社会党への愛着が断ち切れなかった。だがまだ間に合うよ、間に合わせてみせるよ」

 十五年前とは、江田さんが構造改革論を提唱し、“江田ビジョン”を発表した当時のことである。江田ビジョンとは、具体的目標として「アメリカの高い生活水準、ソ連の行き届いた社会保障、イギリスの議会制民主義、日本の平和憲法」の四つをわかりやすい形で提示したものだった。

 確かに平板なら列で、科学的厳密さはないが、今考えればなんの変哲もない常識である。それが社会党内で、非社会主義だ、ダラ幹だと袋だたきにされ、江田さんは党書記長の座を追われた。以後十数年、社会党は不毛の左右抗争に明け暮れ、とめどない地盤沈下を続けることになる。

 新 鮮
 江田ビジョンが提起した問題意識は今もその新鮮さを失っていない。まして、いわゆる構改路線なるものは、その後共産党も後追いせざるを得ない革新の主潮流となったのではないのか。

 好悪や喜怒の振幅の大きい人柄や、党内派閥感情の渦が江田グループの多数派形成を妨げた、といった点はいくらでも指摘できよう。だが、江田さんの若々しい先取り精神と先見性はだれしも認めざるを得ないのではないか。

 もう一つ、たとえその政治路線に批判的な人たちも、江田さんがおよそ私利私欲や権勢欲のとりことなるような人柄でなかったことだけは同意するだろう。その意味では、これからの政治家に最も大切な個性を備えていたといえよう。

 私はいたずらに死せる人を美化するものではない。政治家は、その個人的評価を越えて、歴史と国民大衆によってその政治信条と政治行動を裁かれねばならない。

 遺 志
 
江田さんの“遺児”の「社会市民連合」は、その名の示す通り「社会派」と「市民派」の二つが雑居している。それは相互に矛盾するとは思わないし、むしろこの両者の結合にこそ新しい革新の進路があるのではないかとも思われる。だが、現実には連合の内部で“新社会党”たらんとする人たちの志向と“新市民党”たらんとする人たちの意図とは、背反する危険をはらんでいることも否定できない。

 江田さんはその幅広い視野、新鮮な時代感覚、そして奥深いキャリアによって、この異質の二つに架橋し、統括する大きな存在であった。その人、今や亡し。連合がどこまでその遺志を継ぐことができるか、その前途は多難であろう。

 ただ江田さんは、自らの急死を予知したかのような次の言葉を残している。
 「だれだったか忘れたが、人間歳をとると、妙に天下国家を口にするものだ、と語った。これは生物としての本能なのかもしれない。私にしても、自分がどういう地位につこうというのではなく、レールを敷いておきたいのである。その上を、だれが走るのか、時代が生み出してくれるだろう」 (新著のあとがき)

 だれが走るのか、次の世代に望みを託した江田さんの壮烈な戦死とも呼びたいその急死を生かすかぎは、江田さんの二人の子息や、政治的遺児の社会市民連合だけではなく、社会党がどう自己改革できるのか、また無党派層に代表される幅広い国民の政治的要求にこたえる新政治勢力の結集が実現できるのか、にかかっている、といえよう。
(1977年5月24日「山陽新聞」)

共同通信論説委員長 内田 健三


戻る目次前へ次へ