1977〜78 |
― 社会民主連合結成 ―
阿部昭吾社会党離党
一九七七年九月の社会党大会で、成田委員長の後継者は飛鳥田横浜市長に決まりかけていたが、社会クラブの三議員の離党によって白紙に戻っていた。
飛鳥田は横浜市の幹部職員を集めて、「社会党委員長説が流れているが、私は横浜市民と共にあります。皆さんは心配せず、職務に打ち込んで下さい」という主旨の演説をしたりしていた。ところが、十一月に入って成田委員長に説得されると、あっさりと受諾してしまった。
十二月続開大会の第一の任務は、社会主義協会規制を基本とする「党改革方針」を実行する新執行部を発足させることであった。しかし飛鳥田は、基本的には社会主義協会勢力に依拠し、今回もそれに担がれていた。これでは、飛鳥田新委員長の下で社会党「再生」が実現するはずはない。にもかかわらず、党内は「臭い物には蓋」をして、見せかけの統一と団結に向かおうとしていた。
十二月十二日午前十時、阿部昭吾は議員会館に成田委員長を訪ねた。
離党届を手渡すと、成田委員長は弾かれたように立ち上がって、
「ちょっと待ってくれ、何とか思い直してくれないか」
「それはむりです。あなたが率いて来られた社会党と、私が三十年間心に描き続けて来た社会党とは、全く違うものになってしまいました。それで私は決断したのです。今さら変えることはできません」
「上林さんとは、このことを相談なさいましたか」
「もちろん、十二分に相談しました。おやじは間もなく東京に着くはずです」
「上林さんと三人で話し合いたい」
と、なおも追いすがる成田委員長に背を向けて、阿部は断腸の思いで記者クラブに向かった。
離党声明衆議院議員 阿部 昭吾
私は、三十年間、わが青春と人生の全てをかけてきた日本社会党を離れ、新たなる激闘のなかに踏み出すことにいたしました。
私は参院選後、党改革の運動が大きく燃え上ってきましたので、これに必死の望みを托し、全力をあげてきましたが、しかし党改革は挫折してしまいました。
「幅の広い国民常識の党として、社会の斬新的な改革をめざす」―― これがいまは亡き浅沼さんや江田さんたち、多くの先輩によって、日本社会党がつくられた当時の立党の理念、結党の精神でありました。ところが最近の数年間のうちに今日の社会党が、教条的マルクス・レーニン主義者集団(社会主義協会)によって、党の中枢がいわば、党ジャックされてしまい、何でも反対型の尖鋭的革新を口にしながら、実際は革新とは正反対の硬直的保守で国民の現実の要求にこたえることができないばかりか、本音と建て前を使いわけた言行の不一致、無責任さは全体をおおい、先輩たちが築いてきた遺産を食いつぶし、勤労国民の期待を裏切ってきたといっても過言ではありません。
私は終始、政党と政治家のよって立つべき原点は「人民に献身し服務する」ことにあると信じてきましたし、いやしくも政党や政治家の都合を優先させて、国民のこころをふみつけるようなことは議会制民主主義への敵対であり、参加民主主義に対する冒涜であり断じて許すことはできません。
飛鳥田氏の委員長就任劇は、氏が年来、口にしつづけてきた市民的モラルと市民参加のルールを完全にじゅうりんし、横浜市民と国民を裏切るものであるばかりでなく、党内の水と油のような熾烈かつ明確な論争にフタをしていることも明らかであります。また飛鳥田氏の基本的立場がさまざまに粉飾されていようとも、教条的マルクス・レーニン主義者集団の上に依拠していることも明らかであります。飛鳥田体制は社会主義協会を中心とする社会党積年の病弊の除去ではなく、完成であるといっても言い過ぎではありません。ことここにいたっては、私がこの党にとどまって改革のために努力することはもはや無益のことと判断せざるを得ません。
おもえば、戦後の混迷期、学生時代、十九歳の身で、日本の民主的革新のため、日本社会党に投じて以来三十年、多くのよきすぐれた先輩や仲間に恵まれて、私の郷里山形県をかけめぐり、草の根の民主主義運動に徹し、この党と運命をともに、喜びも悲しみも分ち、ひたすらに歩んでまいりましたが、私の信じつづけた人間のこころに根ざした社会主義、多くの先輩たちが築きあげてきたこの党のよき伝統を継承し実現する道は、もはやこの党とたもとを分ち、新しい政治、新しい社会主義、社会党本来のよき原点に立った新しい党をめざして決起する以外にないと信じます。
私は党中央のゴタゴタのためにではなく、国民のためにすべてをかけて活動したいと思います。飛鳥田体制のもとになっても党内の矛盾は絶えることがありません。なお党内にとどまる同憂の士が、いつの日か立上ることを期待して止みません。
一九七七年十二月十二日
阿部が東京で離党記者会見をしているのと同時刻に、山形では、守谷吉男・佐藤絹一郎・和田広弥の三県議が、「阿部を孤立させることはできない。われわれは阿部を信じ、行を共にする」と発表していた。
山形二区では、社会党員の約五割が一斉に離党した。
社会民主連合結成へ
阿部の離党によって、社市連と社会クラブの合流に弾みがついた。連日のように会合が開かれ、政策のすり合わせ等が行われた。これは社市連がすでに持っているものに社会クラブが「外交・防衛」部分を補強して完成した。
問題は党名であった。
「社会市民連合」をそのまま残す案。社会主義協会に毒された社会党を脱皮させる意味をこめた「新社会党」案。横文字にしても通用する名前をという「社会民主党」案などが出たが、結局「社会民主連合」と決まった。
英語訳は当初「ソーシャル・デモクラティック・フェデレーション」となったが、英語に堪能な田が、「フェデレーションという訳語だと“政党”と思われないんじゃないかな」と言い出した。
田はこの後、外人記者クラブの昼食会に招待された時、この問題を持ち出してみた。その結果わかったのは、「フェデレーションというのは、異なる組織の人たちが一つの連合体をつくる時に使うもので、同じ意見の人たちが集まってつくる時はユナイテッド」ということであった。
そこで田が「フルネームでいえばユナイテッド・ソーシャル・デモクラティック・パーティーということになろうが、多少略して、ユナイテッド・ソーシャル・デモクラット(USD)でどうだろうか」と言うと、司会者は「ジャズ・アイディア」と大きくうなずいた。「いかす考え」という意味のスラングである。
「ユナイテッド」という考え方は、市町村社民連−都道府県社民連−全国社民連という組織形態にもかなうもので、英語名もこれで決まった。
結成準備会の形で、まずは一つにまとまった三グループは、今度は江田三郎離党一周年にあたる三月の二十六日の本格的結成大会の準備にかかった。
結成大会の演出については、「既成政党とは異なるスマートなものにしよう」という点では一致したが、さて、どういう形式にするのか。
この時、田が「参考までに」と前置きして、こんな思い出話をした。
四年前の九月、田は江田三郎を団長とする「社会党訪米代表団」の一員としてアメリカに渡った。この旅がきっかけで江田と田はぐっと親密度を増すのだが、それはさておき、アメリカからの帰途、一行はスウェーデンを訪れ、社会民主党大会に招待された。その大会の演出がしゃれていてソフトなのに一行は驚き、日本でこういう党大会が開かれるのは、四五十年先だろうな」と江田三郎は苦笑していた―と。
スウェーデン社民党大会の進行について田が語ると、若い江田五月や菅直人には即座にイメージが湧き、会場の雰囲気までが理解できたようだった。
「田さん、それでいきましょう」
「型破りにするなら、中途半端でなく徹底的に型を破ろう」
と言い出し、皆も賛成した。
田は結成大会の演出について、テレビマンユニオンの萩元晴彦、作曲家の芥川也寸志という二人の親友に相談した。
二人は大変興味を示した。芥川は「三月二十六日というのは、シューベルトが一生にただ一回の音楽会をやった日なんだ。それまでピアノを持てなかった彼は、この音楽会のあがりで念願のピアノを買ったんだ」という話をして、「よし、それでいこう」ということになった。
ただし、芥川自身は、演奏旅行でこの日は出られない。「その埋合せに、せめて、社民連の皆さんが歌うようなさわやかな歌を、女房に作らせよう」と約束してくれた。
アッピール 未来に顔を向けよう
私たちは、いま、新しい党、「社会民主連合」結成のための出発点に立とうとしています。
さまざまなグループの私たちを、一つに結び合わせている絆は、わが国の社会主議運動への根本的反省と、市民の政治参加によって、沈滞し、行き詰まった日本の政治を、いわゆる五五年体制のワク組から解放し、活性化させようという一致した目標に外なりません。
一九七八年、世界と日本は戦後の一つの新しい時代を終り、もう一つの新しい時代へ大きく足をふみ入れようとしています。政治においても、いまだ過渡期にあるとはいえ、明らかに、「連合」と「変革」の新しい時代が始まろうとしています。私たちがあえて新発足を告げようとしているのも、そうした連合と変革の時代が私たちの運動を求めていると信ずるからであります。
私たちは、今日の政治状況の下では、社会の漸進的改革をめざす、すべての社会民主主義勢力の結集こそが、連合時代の政治変革のために最も有効な方法であり、戦略であると考えます。私たちは、そのための主導的な一単位として、「新しい多数派」をつくり、自民党政治に替る新しい民主政治の扉を開いていく決意であります。
私たちははっきりとその顔を未来に向けたいと思います。人間を疎外し、生態系を破壊に導く産業社会に替って、人間の権利と生活が保障され、自由と公正と連帯の三大価値が実現される共同社会の建設、いわば人間社会の「本史のはじまり」を私たちはめざします。今日の成熟と危機の高度産業社会においては、そのことはけっして抽象的な言葉ではなく、すでに実践的な課題になりつつあるからです。
私たちはこうした転換の時代のなかで、新しい党を準備するために、何よりも頂点における国政の活動、そのための新しい同志の結集、各級選挙を重視します。それと同時に市民社会のすみずみにおける、新しい社会改革のための運動の先頭に立ちます。一方における労働運動、他方での市民運動、いいかえれば、大衆の生産と生活の両面において、従来の質から一段と高い新しい型の民主主義運動との連携を一層強めていきたいと考えます。私たちは、その前途にさまざまな苦難が存在することを否定するものではありません。しかし私たちが自らの路線を時代と社会に絶えず合致させるように全力をつくすならば、歴史が味方し、より大きな前進の機会が開かれていることを確信しています。
私たちは、政治への参加を求めながら、これまでその道を閉ざされていた多くの市民、ともすれば不安や暗い先行きに心が沈みがちな若い人々、さらに社会党の内部でなお改革を試行している人々に、私たちの新しい運動への参加を心から呼びかけたい。未来を信じ、社会改革のために身を投じようとしているすべての人々に私たちの門戸は開かれている、と。そして私たちの手によって、明日また、陽はのぼるであろう、と。
私たちは、国民の皆さん、市民の皆さんに、数カ月後の「社会民主連合」の新しい発足を約束するとともに、この事業のための協働を心から望むことを、ここに表明します。
一九七八年一月二十二日社会民主連合結成準備大会