1987 社民連十年史/明日の連合にむかって |
江田三郎没十年墓前供養・語る集い
五月二十四日午後二時から、岡山県建部町で「江田三郎十年墓前供養」と「故江田三郎を語る集い」が盛大に行われました。十年前、江田三郎が新しい政党(当時・社会市民連合)の結成を宣言して社会党を離れたのは、単にもう一つの野党をつくるという小次元の行動ではありませんでした。江田三郎こそ、野党結集による自民党に替わり得る政権をめざし続けた屈指の政治家であり、それは将来への大きな布石としての大胆な決断だったのです。
いま、没後十年にして江田三郎のロマンと悲願に陽光がそそぐなか、生地・福渡(ふくわたり)の墓前に、東京・永田町をはじめ、全国各地から「江田路線」 の同志たち約三百人が集い、結集への前進を誓い合いました。
助走から跳躍へ 事務局長 石井 紘基
江田三郎が没して十年。墓前供養に当たってご協力いただいた、とくに社会党、公明党、民社党に対して、深く感謝を申し上げたい。
思えば野党の歴史は分裂の歴史であった。十年前、社会党と社民連の間は、対立と憎悪の壁で分断されていた。社会党と民社党はもっと長い時間、堅牢な壁で遮られてきた。
しかし、今ようやく時代は変わろうとしている。分裂と離反の時代から結集と統一の時代へ。無謀とも見えた脱党と新党によって、五五年体制の崩壊を象徴した江田三郎の没十年が、奇しくも再編・連合への助走の時期となったと言って良いであろう。
既に労働界は、数年に亘る交流や協議の積み重ねの上に今秋、全民労連として結集する。
野党四党は、売上税法案をめぐって四カ月間、固い結束の実績を築いてきた。これが国民の期待に応える道であることは明らかだ。
それ故、社、公、民及びわが党幹部は、売上税の決着とともに行動を開始した。
社会党の幹部は過去の不幸を反省するとともに、野党結集について「江田路線」を実行することを表明された。
公明党の矢野委員長は、江田三郎の墓前に言葉を寄せ、「私も遺志を受け継ぎがんばってみようと思う」と決意を述べられた。
そして民社党幹部の方々も、新聞・雑誌等で野党結集に熱弁、剛筆をふるい 「協力し合っていけば、将来に向かって野党政権の展望が開けてくる」、重要政策で一致できれば「合併」は「必然的」とさえ述べて居られる。
いよいよ結集に向けてイニシアティブを発揮されつつある各党指導者に心から敬意を表し、拍手を贈る。大いなる成果を期待してやまない。
江田三郎路線は、助走から跳躍の時代に入った。われわれも全力をあげてがんばる覚悟である。1987年5月22日
生地、岡山建部町に超党派で
江田三郎が急逝して十年を迎えた生地・福渡の墓前には、多賀谷真稔衆議院副議長、山口鶴男社会党書記長、永未英一民社党副委員長、田辺誠前社会党書記長ほか国会議員十六名を含む約三百人が参集し、全員が焼香をしました。
追悼のことばでは、山口社会党書記長が「野党が結集して売上税に反対し、一会派のごとく団結して廃案に追いこんだのは、江田(三郎)さんの唱えた野党連合の路線を実践した成果」であり、また「社会党の新宣言も、江田路線に沿ったもので、十年遅れたが今現実となった」と述べました。
永末民社党副委員長は「労働運動の統一とともに新しい労働者の政権の樹立を墓前に誓います」と手を合わせました。
また、矢野絢也公明党委員長の「江田さんの遺志を受け継ぎ全力を尽くしたい」とのメッセージが披露され、焼香に訪れた支持者のひとりは「江田三郎の政治思想が、深く根を張っていますね。郷土の誇りです」と感慨深げでした。
多賀谷真稔衆議院副議長も「(江田三郎の)構造改革理論は、活発な議論のないままに埋没したが、今の社民連、社会党に大きな影響を与えている」と述べ注目されました。
田英夫前代表は「江田(三郎)先生が考えていた新しい道が今、大きく開かれました。社民連は子息五月さんが立派に引き継いでいます」と墓前に報告、遺族を代表して江田五月氏があいさつし、意義深い集いとなりました。
江田三郎を語る会に各界から集う
「ひと世かけて夫のなししは何ならむ嵐ふく夜に思うただ思う」と遺族あいさつの冒頭に江田三郎未亡人光子さんは自作を吟詠しました。この江田三郎没後十年の意義は大きな時の流れのなかで結論が出るものでしょうが、そのひとつの区切りとなる会となりました。
「江田三郎を語る会」が墓前供養に引き続き、午後三時から建部町保健センターで開かれました。
黙祷のあと、江田三郎の生涯をつづるスライドが上映され、生まれてから急逝するまでの貴重な記録を見ることができました。
そののち江田三郎の思い出を、田辺前社会党書記長、山口社会党書記長、楢崎弥之助衆議院議員、秋山長造参議院議員、石川真澄朝日新聞編集委員、永礼達造津山市長、栗村和夫宮城県小牛田町長、椿繁夫元参議院議員が語りました。
次いで江田三郎の社会党離党、社市連結成時のテレビインタビューのビデオが放映され、江田三郎の愛唱した「船頭小唄」の合唱のあと、遺族あいさつで閉会しました。
山口社会党書記長は、江田三郎が十九票差で敗北した委員長選挙を回顧し、また、現在運動方針小委員会で答弁する身になって、代議員の追及に白髪をふりみだして応じる江田三郎の姿をありありと思い出しますと語りました。
田辺前社会党書記長は、江田三郎が大学を中退したひとつの理由が、谷川岳登山で雷雨に襲われ肺炎を起こしたためだとエピソードを披露し、また江田三郎危篤にかけつけた際の「壮烈な戦士」の印象を常に胸に刻んでいると述べました。
長年岡山の盟友として活躍してきた秋山参議院議員は、「ちょうど墓地の上にあたる小高い丘で、眼下に流れる旭川の輝きを眺めながら、ツルゲーネフの『猟人日記』を読んでいました」と、江田三郎の、政治を構築する力の源泉のひとつに、芸術的ともいえる感性があったことを語りました。
「墓前供養」と「語る会」 の世話役をつとめた大亀幸雄岡山県社民連書記長は、「生前政界にさまざまな影響を与えた江田三郎の政治思想は、急逝から十年をすぎてなお光を放っている。その先見性には今さらながら驚かされます。そのロマンが実を結ぶ日は近い」と、明日に向けてさらに意欲を燃やしていました。
また、岐阜経済大学教授・佐藤昇氏の基調講演がありました。佐藤教授は、江田三郎が伝えたかったものとして、「社会党の革新・再生」「政界再編」「統一された社会主義政党を中軸にした野党連合政権」の三つの問題をとりあげ、そのいずれもが、今日現実のものとなりつつあると述べました。