1979/11/5  いまこそ社会民主主義勢力の結集を

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確実にすすむ五五年体制の崩壊  野党はいまこそ政権構想を
岐阜経済大学教授 佐藤 昇


 再び乱世の時代へ
 今度の総選挙の結果は、「五五年体制」の崩壊が着実にすすんでいるということを、端的に見せつけている。

 「五五年体制」の崩壊というとき、そこには二つの側面がある。一つは、自民党単独支配の終焉という意味で、もう一つは、社会党型革新路線の破綻であり、この党が革新の首座から落ちてゆくという面である。

 この観点から、最近のわが国の政治状況をふりかえってみると、「五五年体制」の崩壊が加速度的に進行した時期があった。一九七四年の末に、田中内閣が金脈問題で倒れ、自民党内では異端である三木内閣が登場した。同時にロッキード問題が表面化し、田中前首相が逮捕され、ついで三木おろしをめぐって、自民党内で、党をあげての抗争が展開された。この過程で、新自由クラブが結成されるという時期だったわけである。

 このとき国民は、自民党単独支配の崩壊過程を目のあたりにする感をもった。七六年の総選挙で新自由クラブが躍進したことも、国民にそれを実感させた。このときの自民党一党支配の危機の集中的表現は、多年の政権独裁による腐敗という問題だった。

 他方、この時期は、社会党内でも党の路線をめぐる抗争が尖鋭化した。七七年春の江田離党、社民連の結成があり、この年の参議院選挙で社会党が敗北し、成田執行部が辞任するという一連の事件があった。この後、党の再建をめぐって全党的な抗争が展開され、九月の党大会で田さんたちが離党されるという状況を生んだ。社会党の方も劇的な動きがあった。

 だがしかし、「五五年体制」の崩壊といっても、それがドラマティックな形で進むだけでなく、停滞、逆流、後退を伴いながら進むものであることが、やがて示される。

 自民党側では、七六年末の総選挙で敗北し、その責任を負って三木内閣が退陣して、いわば異端の政府が姿を消した。こうして保守本流の福田内閣が発足した。社会党側では、協会派と反協会派の抗争が結局妥協に終わり、引き分け的状況の上に飛鳥田体制ができて、小康状態を迎えたわけである。

 このように、自社両党がそれぞれの劇的危機を表面的にきりぬけて、一応の小康状況を保った。このことが「五五年体制」の崩壊過程における小反動期を形成させることになった。この小反動期は、七七年から今年の衆院解散まで約二年半つづいたわけで、重苦しい憂うつな時期だった。日本社会の深部では、「五五年体制」の崩壊は進んでいるが、表面的にはからくも小康状況が保たれているという意味で、小反動期と規定したい。

 保守復調といわれる現象はこうしてできた。福田内閣は終始不人気だったが、補欠選挙や地方選挙では、保守復調を示す徴候もたしかに生じた。もう一つは、公明党、民社党を中心とする中道勢力の右シフトが、顕著になったのもこの時期の特徴である。

 江田離党にいたる前は、公明も民社も「社公民」路線にたってゆくということをはっきりさせていたが、社会党の内紛が小康を迎え飛鳥田体制ができると、民社党は社会党相手にせずという路線に変わった。しかし、中道勢力全部を合わせても社会党に及ばない状況下で、社会党と手を切って進もうとすれば、どうしても保革連合の方にむかわざるをえない。

 公明党も、民社のこの方向に、事実上同調する姿勢が顕著になった。中道の保守化傾向である。

 ただここで、中道の保守化とか、自民党寄りというだけでは一面的であろう。現実に密着した政策路線を探求したいという意志も働いていたのだろう。また、公民を自民党寄りに追いやった根本には、江田氏を叩きだした社会党の行動があったことは明瞭だ。以上を考慮に入れるとしても、この時期の右シフトは否定できない。同時に、この時期は、新自由クラブと社民連の受難期であった。この二党は、いわば乱世の子であって、乱世でないと活躍のチャンスがない。

 新自由クラブは、それがだんだん大きくなって第二保守党に育つというのではなく、それが引き金となって、自民党の大きな分裂を惹き起こす。その過程で独自の役割を果たすというものだろう。したがって、福田首相の下で曲がりなりにも挙党体制ができると、新自由クラブの存在も、かすんでくるのは避けられない。

 しかもこの党は、七六年の選挙でブームにのり、かなりのびたし、それは自民党の金権体質への国民の反発にのった一過性のものだった。組織的基盤も弱く、路線も最初から河野的コースと西岡的なものとがあり、対自民党姿勢も一貫していなかった。その弱点が全面的に露呈したのが今度の選挙結果である。

 同じことは社民連にもいえる。社民連の存在意義も、それが自立的に大きくなって、第三の社会主義党をつくるというところにあるのではなく、半ば共産党に占領されたような社会党と、それへの対抗意識から半ば保守化した民社党という、まともな社会民主主義党がないという不幸な状況を、うち破るところに使命がある。

 また、この不幸な日本的状況が、四分の一世紀にわたる自民党の政権独占を許してきたわけだ。この状況をうち破り、右は民社党から左は社会党内の非協会部分までを含む政治勢力を一丸とする、近代的で大衆的な社会民主主義党、もしくはブロックを創りだすという、日本の社会が切実に求めている歴史的課題を果すための触媒、接着剤となるところに立党の意義があった。

 だが、飛鳥田体制で、深い対立がありながらも挙党体制がつくられ、非協会派が一種の仮死状態になっているこの時期には、社民連も動きようがなかったのではないか。

 安定多数獲得の夢破れる
 「五五年体制」崩壊の小反動期には、もう一つの特徹があった。それは七六年の衆院選挙、七七年の参院選挙で共産党が連敗し、その発言力がいちじるしく低下したことだ。この結果、社公民路線も進展しないが、社共統一戦線も余り意気が上がらず、独り保守復調だけが目立つという状況だった。

 以上のような状況下で今回の総選挙となったが、解散を行った大平内閣について少しみておこう。

 昨年の総裁選挙のときには、大平は福田のタカ派的路線と違い、ハト派的に思われた。国際路線でも有事立法問題でも、民主主義的感覚をもっているんじゃないかと思われた。対野党対策でも、多数の力で抑えこむというより、与野党スレスレという状況は止むをえないから、これからは部分連合も避けられないという認識をもっているかに見えた。しかし、大平内閣はその後、この半年間に、国民が期待し、野党も推測していた政治の基調から大きく逸脱したのではないか。

 大体、解散・総選挙で安定多数を獲得するという路線自体が福田的発想で、安定多数の時代は去ったんだという認識をもっていると思われた大平が、解散・総選挙に踏み切った。

 彼が名分なき解散を強行した原因の第一は、保守復調を過信したのではないか。日本は保守が支配する以外にない国なんだという、長年の政権独占からくる一種のおごりが、大平をとらえたのではないか。さらに第二に、総裁選挙における番狂わせ的勝利で、自民党内におけるヘゲモニーについても自信過剰となったのではないか。第三に、中道勢力とくに公明・民社党は、ほっといても寄ってくるという、なめてかかる発想があったことも否定できない。

 こうして大平は、多少の反対はあろうが、結果において安定多数を獲得してしまえば、勝てば官軍で、批判も消えてゆくだろうという計算があった。その上で、来年の参議院選挙でまた勝ち、来年末の自民党総裁選で勝利して、長期政権をつくるという構想だったと推定できる。この大平首相の計算については、マスコミの大部分もこれに同調するような推測記事を書いていた。

 だがしかし、大平首相の計算に欠けていたものが、たった一つだけあった。それは有権者の動向であり、国民の意識だった。この議会制民主主義の根底を忘れたのだが、まさにこれに復讐されたのが、今度の自民党の敗北ではなかったか。

 では、保守復調といわれたものの実態はなにか。これは自民党に対する国民の支持、信頼の回復ではなかったことは明らかである。ただ不況の深化とか、エネルギー問題などによって、国民の間に将来への不安が生じ、将来の生活に自信がもてないところからくる一種の生活保守主義があったと思う。もう一つは、野党の側が、国民に対して国民の生活を中断することなく政権を引き継ぎ、しかも、国民の不満を合理的に解決できる党はわれわれであるということを、納得させえないでいることである。

 この野党の無力と国民の生活保守主義が結びついて、それが結果的に保守復調というかたちをとった。今度の選挙ではこのことが非常にはっきりしたと思う。

 保守復調は終わり、与野党伯仲の激化へ
 今度の選挙の結果、浮き彫り的に明らかになった自民党をめぐる政治状況をみておこう。

 前回は、ロッキード事件という自民党にとって非常に不利な状況下で行われ、しかも三木おろしで党が二つに割れている状況が重なっていた。しかも任期切れで総選挙をやらざるをえない事情のもとで行われた。しかし今度の選挙は、大平首相自身が党内外の反対をおし切って、安定多数を獲得するという積極的展望をもってやった。したがって、よほど勝たなければ、自民党の勝利とはいえない。明らかに敗北といわなくてはならないと思う。

 自民党は、得奉示率では二・八%ふえたから、長期低落に歯止めがかかったという評価もあるが、これは不正確だ。二・八%というのは相対的得票率で、本当の意味で支持率を表すものではない。今回は、公明党が候補者をしぼったことと、社会党が百万以上減らしたためにでてきた数字にすぎない。絶対得票率では三〇・四%から今回は三〇・〇%になり、〇・四%減っている。自民党の一長期低落傾向はつづいており、「五五年体制」 の崩壊は進行しているといってよい。

 「五五年体制」崩壊の小反動の頂点は、この春の統一地方選挙で終わったのだと思う。小反動期が終わったということは、再び乱世が始まったということを意味する。

 次にもう一つの特徴は、与野党伯仲が改選前よりつよまったことだ。与野党の議席が接近したために、抗争の展開いかんでは、主流派、反主流派いずれも、多数を維持しえなくなる危険に直面した。全体の粋が小さくなったので、余裕をもって党内抗争をする条件はせばまった。

 にもかかわらず、自民党がゆうゆうと喧嘩していられるのは、最大の野党である社会党が敗北したからであり、野党側になんら結集の徴候がみられないからである。

 いまこそ社会党は決断を
 今度の総選挙での最大の敗者は社会党である。それは自民党以上の敗北といってよい。長期低落傾向に歯止めがかかったどころか、低落過程をまさに進んでいる。この党は、浮動票をとれなかっただけでなく、本来の基盤であった労働者の票をも失っている。この前の参院選の敗北のときには、成田・石橋執行部が辞任し、全党あげて再建論争が起こったが、今回はそれもなく、党内から執行部の責任追及の声も起こらない。

 しかしながら、敗北のショックは徐々に社会党の全身に浸透しつつあるのも現実だ。この党が敗北し、その右側で公明・民社党が伸び、左側で共産党が伸び、自民党は一層敗北し、内紛を激化させている。

 これらの状況のもとで、社会党は一つの決断を迫られている。もしこの際、決断しないと、社会党は来年の参院選での敗北を予想せざるをえない。勝利の見通しは全くたたない状況に追い込まれる。社会党は、野党第一党としての面目を保つためにも、政権構想を発表し、他の野党との協力関係をつくりださなくてはならないところにきているといえよう。

 総評からの圧力もあり、社公両党の協力の話し合いが行われるようだが、社公中軸といっても二つのコースがある。

 一つは、依然として全野党共闘という枠をはずさない、対共産党や協会の処理も手をつけないというコースである。それは、総評の支持だけでは票が足りないから、創価学会の票も欲しいという程度の技術的協力の道である。

 もう一つは、党の基本路線として明確に社会民主主義路線をとるんだということをうちだす、当面は社公中軸でゆきながらも、これを中道諸党との連携に広げてゆく戦略をうち出すことである。これには共産党との関係をはっきりさせ、社会主義協会の処理を明確にすることが条件となる。

 社公中軸を発展させてゆくうえでは、公明党の責任も大きくなった。この党はいまや要党になったわけだが、この地位に伴う責任が生じた。社公協力を技術的にとどめず、自民党にかわって、政権を握れるような連合の主体づくりの一環としてこれをとりあげていくという責任である。この点をはっきりさせないと、社公民路線の提携を実現する前に、民社党が自民党との協力を決意してしまうかも知れない。

 こういう状況なので、社民連の役割が大きくなる。社民連は乱世の党であり、政界再編の起爆剤、接着剤といわれるが、それだけではないと思う。やはり社民連は、自民党に代わりうる、右は民社党から左は反協会派までを含む、大きな国民的主体を結集する、それを指導する中核的イデオロギーを先どりしている。

 歴史的にも機の熟した真の社会民主主義路線の成立を展望し、うちだしているのは社民連である。まさに社民連の出番である乱世が始まったわけだから、大いに決意を固めて頑張ってもらいたい。

(一九七九年十一月五日講演)


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