1980

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'80参議院選挙〜ダブル選挙

 一九八〇年は「連合」という言葉がグッと現実味を帯びて浮上した年であった。

 一月十日に社会・公明両党が連合政権構想で正式合意すると、翌十一日には公明・民社両党が政権構想協議会を開催。民社党も社・公合意を了承する、といった具合だった。

 七月の参議院選挙に向けて、各地で選挙協力の話が進み始めた。

 社民連は、参議院選挙には地方区候補を立てず、全国区の秦豊一本に絞って必勝を期した。そういう時に、東京地方区で無所属の宇都宮徳馬を社民連と新自クで一緒に擁立しようという話が出て来た。

 この時、民社党は東京地方区に栗栖元統幕議長を立てて「有事立法」などと勇ましくぶち上げていた。首都の候補者としてふさわしくないと思っていた折でもあり、ハト派の長老・宇都宮徳馬の担ぎ出しに社民連として異存はなかった。外交・防衛に強い秦と宇都宮が並んで軍縮・平和を訴えれば、有事立法の栗栖とハト対タカの対決で首都決戦も盛り上がるだろうと思われた。

 しかし、東京社民連の中の社会党OBの多くは、社会党公認の加藤清政を推そうとしていた。加藤か宇都宮か、社民連内部は大混乱したあげく、加藤・宇都宮並列推薦と決まった。

 一方、いくつかの地方区で、無所属候補を、社・公・民・新自ク・社民連五党の推薦候補として立てることが決まった。五月の中旬、「五党揃い踏み」と称してまず手初めに岩手・山形二県に五党の選対委員長が乗り込むことになった。

 ところが、その五月十六日に社会党は内閣不信任案を出すという。またいつもの「儀式」かとも思われたが、あの四十日抗争後も自民の内紛はくすぶり続けている。自民党で欠席者が出れば、ひょっとすると、という恐れがあったので、阿部昭吾選対委員長は東京に止まり、議席のない菅直人副代表が代わりに出発したのであった。

 五月十六日、延々と飛鳥田社会党委員長の内閣不信任案提案理由説明が行われた後、賛否の討論が始まった。しかし、自民党席は空席が目立つ。福田・三木・中曽根・河本・中川などの顔も見えない。

 そこへ突然・田中角栄が入って来た。「おや?」と思う間もなく、自民党議員の出入りが激しくなり、安倍晋太郎が福田派の若手に担ぎ出されるように議場を出ると、入れかわりに中曽根が入って来る。もう誰も壇上に目を向ける者はなく、あわただしい自民党の出入りを目で追っていた。

 そうこうするうち、議場閉鎖。採決。

 不信任決議案に賛成は、社会党一〇三票、公明党五八票、共産党四一票、民社党三五票、新自ク三票、社民連二票、無所属一票で合計二四三票。反対は自民党一八三票、無所属四票で一八七票。不信任案は可決された。

 大平首相は直ちに衆議院を解散する旨を告げた。

 菅直人は、山形県での「五党揃い踏み」に参加しながら「内閣不信任案可決」のニュースを聞く。たまたまこの日、「菅直人を応援する会」の主要スタッフは「秦豊を再選させる市民の会」の事務所で協議中であった。その場が即「菅選対」となり、山形の菅に電話が入った。

 「今夜の夜行で帰る。明日からのスケジュールを詰めてほしい」 と菅は手短に指示した。

 五月十七日午前七時、吉祥寺駅に到着した菅は、直ちにマイクを握った。驚いたことに、約二十名の仲間がすでにビラをまいていた。昨夜のうちに作った手書きのビラであった。これほどまでに選挙態勢がスムーズに整ったわけは、前回の選対の骨格がそのまま残っていたこと、そしてそのメンバーが秦豊選対ですでに臨戦態勢にあったことがあげられよう。

 それは阿部選対・楢崎選対等でも同じであった。秦選対のためにスタンパイしていた同志たちが一斉に行動を開始した。

 この解散によって、衆参同日選挙という史上初の事態が生じた。

 当初、自民党は分裂選挙で、主流派と反主流派は野党に対するよりも激烈にいがみ合っていた。ところが、投票日の十日前に大平首相が急逝すると、今までの内紛が嘘のように収まり、大平首相の遺影が主流・反主流を問わず全選挙事務所に掲げられた。皮肉にも大平首相は死んで自民党の一本化に成功したのだった。

 社民連はこの衆議院選挙に、山形二区・阿部昭吾、東京七区・菅直人、神奈川一区・田上等、滋賀全県区・瀬津一男、福岡一区・楢崎弥之助を立てた。

 江田五月は、この時まだ参議院の任期を残していたが、衆議院への転出を決め、弁護士事務所を岡山に移していた。そこへ降って湧いたようなダブル選挙である。

 「大激動の証のような今こそ」と江田は一時立候補を決めかける。しかし江田が出馬すると、衆参六人の社民連の候補者を応援する者は田代表一人になってしまう。結局、党のために軽挙妄動すべからず、と出馬を断念、応援に徹した。

 なお、岡山県社民連はこの選挙で、岡山一区で社会党の柴田健治、岡山二区で民社党の林保夫を応援した。また参議院岡山地方区は、社会党の寺田熊雄を推した。社民連結成以来、多くの他党候補を応援してきたが、社会党候補を応援したのはこれが初めてである。

 投票の結果、衆議院では、自民二八四、社会一〇七、公明三三、民社三二、共産二九、新自ク一二、社民連三、無所属七、参議院では非改選を含め、自民一三五、社会四七、公明二六、民社一二、共産一二、社民連三、新自ク二、諸派二、無所属一三。ダブル選挙になったことで、五野党選挙協力が不発に終わったことを数字が証明している。

 社民連に限っていえば、衆議院で楢崎弥之助・阿部昭吾に加えて菅直人が当選したことが大きかった。東京七区でトップ当選。市民派らしく、勝利の瞬間も「バンザイ」と「ダルマの目入れ」ではなく、「拍手」と「Xサイン」だった。

 参議院選挙のほうは、秦豊が最後に滑り込んだ。投票日当日民社党の向井長年氏が急逝したための繰り上げ当選であった。東京地方区は宇都宮徳馬が当選、加藤清政は落選と明暗を分けた。


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