1988 |
山形県社会民主連合 草の根運動を中心軸に
毛 屋 実
山形県の社民連は、それまで三十年間もの草の根運動を革新運動の原点としながら、しかし常に組織立った運動構築を実践してきた人たちによって旗上げされた。或る意味で、山形県の社会党運動の本流というべき人たちの、中央における社会党に対する大がかりな造反という性格をもっていた。それだけに衝動的な急激な旗上げではなくて、江田三郎が脱党し、そして俄に死んで、大柴滋夫が脱党、江田五月が参院選挙に立ち、社市連が発足し、参院選敗北で成田執行部が退陣して党改革運動が起こって、そして例の如く言葉だけで挫折して、田、楢崎、秦三議員が脱党し、続開大会で飛鳥田委員長が登場しようというときまで実に九ヵ月間かけて、阿部昭吾代議士と守谷、和田、佐藤の三県議、市町村議員六七名、社会党員三二七名が脱党し、一斉に立ち上がって山形県社民連を旗上げしたもので、他のところでは例をみない計画的に準備し議論した上での旗上げであった。
公明党、民社党、新自クとの中道結集を着実に固めるとともに、幅広い市民的結集、草の根結集に中心軸をおいて県政界での存在感を重くしてきた。
同時に、次の統一地方選においては新しい県議員を当選させて四名とし、新市町村議員を当選させ、さらに社民連メンバーの中から二人の町長を当選させて今日にいたっており、また各市町村の首長選挙において中道結集の政治力量がキャスチングボートを握ってきた。特に、定数是正によって一議席減になった六十一年ダブル選挙において、阿部昭吾代議士が連続八回目の当選を勝ち得たことがその好例である。前回より二万三千票程増票の支持を得て激戦を乗り超えたということは、草の根の底地からと中道結集、幅ひろい市民的結集の強さを示したものであった。
これはまた、戦後上林学校といわれた上林与市郎元衆議院議員以来の地域における「革新運動は斯くあるべき」という不動の確信の上に構築されてきたものであり、構造改革理論を実践してきたということだといえる。
現在、山形県新社民連の最大課題は、県内における革新勢力の幅広い連合結集を如何に実現するか、中央の動向と連動しながら如何に推し進めるかということに全力投球でシフトし、正に接着剤の役割に徹している。同時に、この中から新しい人材の発掘に腐心している。山形県社市連もまたローカルな草の根の政治集団ながら、明治変革期に挺身した人たちのように激浪に棹さし続けている。