議員二十五年
政権とれず
恥かしや
1976年、社会党書記長をつとめた江田三郎が永年勤続表彰を受けたとき、衆院事務局に請われて揮毫(きごう)した色紙が、憲政記念館に保存されている。
しかし、恥ずかしい、ではすまないと考えたのだろう。翌77年3月、江田は社会党に見切りをつけて離党、社会市民連合を結成したが、2カ月後がんで急死した。69歳だった。
都心のホテルで<江田三郎没後30年・生誕100年を記念する集い>が開かれたのは、先週の12日夕方である。今年はじめに実行委員会が組織され、実行委員長の山岸章元連合会長は、
<我々と一緒に政権交代を求めつづけた親子2代の悲願が今そこまで来ています。江田さんゆかりの方々のご参加を……>
と案内状で呼びかけたものの、果たして何人集まるものやら。30年の歳月は長い。
ところが、フタをあけてみると、意外な光景が展開される。続々、という表現が当たっていた。期待数の倍をはるかに超え、会場は約1000人の参加者でむせ返ったのだ。
「びっくりしましたなあ」
と長男の五月(参院議長)が嘆声をあげた。集いを企画したとき、議長就任などもちろんケもなかった。やはり江田のカリスマ、魅力がいまに生きているとみるほかない。
同時に、分厚い「政治家の人間力−江田三郎への手紙」(明石書店)も出版され、参加者に配られた。時代を超えた人間力を思わせる不思議な集まりになった。
演壇の真ん前に、江田の側近、かつて社会党の顔の一人でもあった貴島正道(元非議員中執)が車イスで陣取る。曽我祐次、船橋成幸、加藤宣幸、笠原昭男ら東京・三宅坂の社会党本部を牛耳った面々も。いまは社民党本部の建物は、江田が金策に駆け回って建てたものだ。
なつかしの顔、社会党衆参議員OBたちも会場を遊よくしている。阿部昭吾、及川一夫、河上民雄、川俣健二郎、貴志八郎、楢崎弥之助、西風勲、安井吉典、山口鶴男……。発起人に名を連ねた秋山長造、田英夫は体調悪く欠席だという。
「きょうは同窓会。これがもう最後だな」
そんな声があちこちでもれる。
「こんなに集まって。江田さんの人徳だねえ」
「五月君はほんとによかった。我々もやってきたかいがある」
かつて社会党を支えた山岸以下の労組幹部、地方議員、活動家、秘書、支援者たち、ほとんどが高齢者だ。肩をたたき合っている。
現役組も多かった。河野洋平衆院議長、横路孝弘同副議長、山東昭子参院副議長、小沢一郎民主党代表、菅直人同代表代行、藤井裕久同最高顧問らは、五月議長のお祝いを兼ねたのだろう。五月はあいさつで、
「30年はまさに『光陰矢の如(ごと)し』の感を深くします。しかし、いま、父の目指していた政治の改革が、目前に迫っている。国会全体がこれまで経験したことのない緊張感に包まれ……」
と江田の古い仲間たちに語りかけた。
集いの前のシンポジウムでは、菅直人が、
「江田さんの生誕103年までには政権を取りたい」
と3年以内を約束したが、どんな展開になるか。
社民党に改名し、<社会党>の名称が消えて約12年、自・社55年体制はもはや昔のことである。時ならぬ江田フィーバーには、次の政治変動への熱い期待がこもっているように思えた。(敬称略)
毎日新聞 2007年10月20日 東京朝刊掲載