いよいよ、だ。人事のあとは衆参ねじれの臨時国会がフタをあけるが、未踏の地を行くようなところがある。それが日本の政治をどう変えるのか。
主舞台は当然参院。民主党出身の新議長、江田五月の手綱さばきに目が注がれる。参院議長がこれほど脚光を浴びるのは、36年前、全野党が担いだ自民党出身の改革派、河野謙三以来だ。
注目度は多分、河野を上回るだろう。そのおい、河野洋平が衆院議長のイスに座っている。江田は、就任の記者会見で、
「最終的には両議長が英知を発揮し、良い結論を出す」
と決意を述べたが、英知だけでは収拾つかないきわどい場面がやってくるかもしれない。
とはいえ、政治は人である。河野謙三には実兄、一郎(元建設相)の実力の陰に隠れたようなところがあった。江田も父親、三郎(元社会党書記長)の存在が大きく、一郎、三郎とも自・社時代の寵児(ちょうじ)だった。
だが、それがかえっていい。目立とうとする政界にあって、さほど目立ちたがらない堅実な歩みをしてきた人物が、最高ポストにつくメリットである。言動に信頼がおけるからだ。
政界入りを果たしたとき、江田は一冊の本を著した。前半生をつづった「出発のためのメモランダム」(78年、毎日新聞社刊)である。
表紙の写真は、あの銀髪がトレードマークだった構造改革派の旗手、三郎が国会の前庭を散策し、まだ学生服の江田が右手をポケットに従っている。父子相寄るほほえましい図柄だ。
そのころ、江田は2世議員などまったく念頭にない。だが、76年暮れの衆院選で三郎が落選(旧岡山2区)、翌年、社会党を離党し社会市民連合の結成を目前に、69歳で急死した。
臨終の知らせで病院に駆けつけるタクシーに同乗していたのは学生時代の友人、のちに<ミスター円>と呼ばれる大蔵省キャリアの榊原英資(現早稲田大教授)である。たまたま、
「政治をやれ」
と説得にきたのだった。江田は横浜地裁の判事補、裁判官をやればやるほど好きになっていた。説得に乗らない。車中で榊原は、
「そんなこと言ったって、日本の官僚もダメになっているんだぞ」
とつぶやいた。
<私には、日本は政治はダメだが、官僚がしっかりしているから、何とかなるとの考えがあった。しかし、官僚もダメ、政治もダメならどうしようもないなあ、という思いがふっと湧(わ)いた>
と江田は同書に書いている。30年前、父の遺志を継ぐ決意をした心理的動機の一つだ。
同じ司法界からでも、弁護士出身の政治家は大勢いるが、裁判官はめずらしい。裁判と政治は異質だ。江田も、転身を意味づけるのに、
<その間に私の人格として何かつながりがあるのだろうか。自我で完全に分裂しているのではないだろうか。
私自身、真剣に心配した。人間の決断は、決して理論で行なわれるものではない。理屈を越えた、人格的跳躍であるからこそ、決断と言いうる。……>
と裁判官らしいきまじめなことを記している。
人格的跳躍、は若き江田の造語だろう。<精神の冒険>という言葉も使っている。66歳のいま、新たな成熟した跳躍、冒険が求められているのではなかろうか。
10月12日には、東京都内のホテルで<江田三郎没後30年・生誕100年を記念する集い>が開かれる。愛息が議長席に座るとは、三郎も想定外だったに違いない。天上からハラハラしながら見詰めている。(敬称略)
毎日新聞 2007年8月25日 東京朝刊掲載