2002年6月12日

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民主党東ティモール独立式典・大統領就任式参加団報告

 「東ティモール民主共和国」は、2002年5月20日、21世紀最初の独立国として独立式典を行いました。私は、同月17日に日本を発ち、22日に帰国するという日程で、随行の江田洋一秘書と共に、この式典に参加し、あわせ現地の視察と関係団体の訪問を行いました。
 滞在中、毎日活動日誌を記し、これをパソコンで私のホームページに打ち込みました。接続事情が必ずしも良好でなく、不十分なところもありますが、現地の雰囲気を伝えるため、最小限の加筆、修正のほか、原文を再録して、報告といたします。

民主党・新緑風会 
 参議院議員 江田 五月  
(東ティモール議員連盟 代表)

              




5月17日(金)  東ティモールへ

14時のJRで成田へ。16時過ぎのJL729便でデンパサールへ。一泊して、明日から東ティモールの独立式典出席のため、4回目の訪問です。

デンパサール

現地時間で5月18日(土)0時。デンパサールのホテルにやっと落ち着きました。洋一秘書と同室でした。

夕食は、機内食のモナカアイスしかありつけていないのですが、ビールで我慢し、明日に備えて寝ました。

5月18日(土) ディリへ、大使たち、出迎え、性的被害

7時前に起きてデンパサールの空港へ。駐インドネシア・ポルトガル大使のアナ・ゴメスさんに出会って、お互いに再会を喜びました。彼女は、この3年ほどインドネシアにいて、最も困難な時代の外交を見事に取り仕切りました。その他、駐日オーストラリア大使、いずれも駐インドネシアのハンガリー大使、バングラデシュ大使などと出会いました。インドネシアから東ティモールに行くのに、外国へ行く手続きをするのも、考えてみれば、大きな変化です。

9時40分のMZ8480便で、東ティモールのディリ・コモロ空港へ。4回目の訪問ですが、こんなに平和な東ティモールは、今回が初めてです。12時過ぎに到着。タラップを降りると、赤じゅうたんが敷かれ、国連事務総長特別代表のデ・メロさん、暫定外相のラモス・ホルタさん、ベロ司教などが一行を出迎えてくれました。こんな時代が来るとは、夢のようでした。

ホテルは、インペリアル・ゲストハウスというのですが、「海の家」スタイルは、住民投票の時泊まったホテルとそれほど変わりません。それでも天井があるのは、大進歩でしょうか。

戦争被害者のみなさんとの懇談会15時から、大戦中にここを占領していた日本軍によって性的被害を受けたみなさんの話を聞かせていただきました。みなさん、お年寄りばかりで、言葉は現地のテトゥン語など。間にインドネシア語を挟み、2回通訳しながら話すので、なかなか大変です。

エレーナ・グテレスさん――「日本軍に力づくで連行され、『ミチコ』と呼ばれて将校の『妻』にさせられました。3人子どもが生まれ、2人が死にました。戦後、将校は帰国し、私は何の補償もなく、子どもと残されました。以来私は結婚していません。」

サラ・ダ・シルバさん――「19歳の頃でした。ディリから何人かと一緒にラウテンまで連行され、海岸の小さな部屋がたくさんある建物で、兵士の相手をさせられました。私もその後結婚していません。」

クリスティナ・ダ・コスタさん――「13歳の頃でした。脅迫されて将校の『妻』にさせられました。小さかったからか、子どもはできませんでした。結婚したことはありません。」

リム・ファ・インさん――「14歳の頃でした。アイレウのホテルで働いていたとき、『慰安婦は1年で交代すべし』との軍医の意見で、無理やり慰安婦の交代要員にさせられ、『ハナコ』と呼ばれて1年間働かされました。食べさせてはくれましたが、お金はくれません。その後結婚しましたが、1年で別れました。」

ミレーナ・チャンさん――「私の母は、日本軍にバザルテテから連行され、ディリの最高司令官の『妻』にさせられました。娘を差し出すことを拒んで、殺された人もいるそうです。父の名前は『アベ』というそうです。母は99年に亡くなりました。」

私が、お礼とお詫びを言い、帰ろうとすると、それまで黙っていた人が次々と、堰を切ったように話し始めました。皆、母や姉妹が、慰安婦や将校の女性にされたという話です。

「私のおばさんが12歳。私が9歳。二人で田植えをしていたとき、日本軍がおばさんを連行しました。何をされたかは、幼い私にもわかりました。おばさんは2ヶ月で帰されましたが、汚された尊厳はまだ回復されていません。」

クレメンティノ・ゴンサカさん――「『サンペイ』と呼ばれ、宣撫班で働かされ、命ぜられるつど、4人の女性を将校たちの兵舎に連行し、そこで別の者に引き渡しました。私と同じように女性の連行を命ぜられ、連れてくるのが遅いといって殺された者もいます。」

セバスティアナ・グスマンさん――「母は『ササキ』という将校の『妻』にさせられ、私はその子どもです。母はインドネシア軍の侵攻のとき死にました。」

スハルト時代に、インドネシアの弁護士が補償金が取れるからと言って、登録料を持ち逃げした事件もあったそうです。傷つけられた人間の尊厳は、簡単に回復できません。個別の被害の証明は難しくても、この人たちが訴えているような事態があったことは、疑う余地がありません。日本がこれに目をつぶって恩着せがましく援助をしても、日本が尊敬されることにはなりません。日本は、重い課題を背負っています。誠実な対応が何より大切です。

5月19日(日) 南十字星、見本市、独立式典

今日は、東ティモールの外国人支配最後の日です。昨夜、打ち込みに遅くまで苦戦し、0時を過ぎて南十字星を見て寝たので、朝はゆっくり。朝食に間に合わず、カロリーメイトと水で、9時半に松野明久大阪外大助教授・古沢希代子恵泉女学園大助教授ご夫妻と出発。

国際見本市が立っています。日本、米国、中国、韓国、豪州など各国の展示場や、東ティモールの13県の展示場があり、多くの人で賑わっていました。オーストラリアは、早速ティモール・ギャップの石油開発の宣伝をしています。中国はしゃれたオートバイの展示で、韓国はテコンドーのビデオで、多くの人を引きつけていました。日本は、JICAやJETROの人たちが工夫して祭りの雰囲気をアレンジしており、子どもには受けていましたが、ちょっと迫力不足の感じ。

戸外には、伝統的な建物のパビリオンがいくつも建ち、刃物の作り方、反物の織り方、銀の装飾具の実演など。カイコやマユの展示もあります。穀物の在来種を保存する努力もしているようです。

各国の要人が続々駆けつけているようで、UNTAETの建物周辺は、既に立入禁止。私は、これから一休みして、16時半から日本の現地事務所職員のみなさんと、レセプションに出席。次いで、21時頃から始まる独立式典にも、杉浦副大臣と共に出席できそうです。日本からの国会議員は、私たち2人だけです。しっかりと心を込めて参加してきます。

5月19日(日)〜20日(月) 独立式典ドキュメント

東ティモール民主共和国 国旗5月19日は夕方から、東ティモール独立行事に参加しました。これは全て、政府関係者しか招待されていないのですが、私も招待してもらいました。服装は、淡い色の長袖開襟シャツと濃い色のズボンと決められており、スマート・カジュアルというのだそうです。

まず、16時40分、杉浦外務副大臣の泊まっている海の船上ホテルに集合。前回、制憲議会選挙の監視に訪れたときに私たちが泊まったところです。突然、米国のクリントン前大統領が現れ、びっくり。現職を退いてもサービス精神旺盛で、その場にいるみんなと握手。私も握手し、「大統領になられる前にお目にかかりました」と話しかけ、宮沢内閣末期に米国大使館で行われたレセプションでのことを話題にしました。来週訪日するとのことでした。

17時から、国連のコフィ・アナン事務総長ら主催の外国来賓レセプションへ。暫定政府のデ・メロ事務総長特別代表とは旧知で、アナンさんに「江田さんは、大変熱心に支援してくれました」と言葉を添えて紹介してくれました。唐家セン中国外相が目に止ったので、久闊を序し、「よく復活されましたね」と労われて戸惑いました。杉浦副大臣とは、瀋陽問題で若干の鞘当て。急な立ち話ですが、「明日、武大使が小泉首相に会いに行くよう、指示しました」と新情報。マリ・アルカティリ暫定首相、マリオ・カラスカラォン社民党党首とジョアン・カラスカラォン元暫定インフラ大臣など、多くの東ティモール議員とも会いました。急ごしらえの演壇で、アナンさん、ホルタさん、アルカティリさんなどが挨拶。夕食会は失礼して、杉浦さんらと別途夕食。

21時にホテルを出て、海岸の広い砂浜に設営された独立式典会場へ。途中で、マリア像をおみこし風に担いだ大行進とすれ違いました。ミサの後のようです。ここは、敬虔なカトリックの国なのです。

会場では、壇上VVIP席は杉浦さんだけで、私たちはサイドのVIP席。21時30分、ホルタさんが開会宣言。民族衣装の踊りが続きます。13県それぞれが伝統舞踊を披露しているようです。正装に身を包んだお年寄りの気合いの入った歌が印象的でした。特別の訓練はしていないようですが、参加者の心がひとつになっていることが伝わってきます。大きなワニの張りぼての行進など、次々と工夫を凝らしています。

23時10分から、ホルタさんによる外国来賓紹介。まず、アナンさん、デ・メロさんなど国連関係者。ポルトガルは大統領をはじめ100人の代表団。オーストラリアはハワード首相。モーリシャス、モザンビーク、ナウル、南アフリカ、ニュージーランド、サモア、世銀。そしてクリントン前大統領が、在任中の人権外交への賛辞を込めて紹介されました。個別の紹介は、西サハラのポリサリオ代表までで、後は全世界の全ての人びとの代表へ謝辞。

そこで、劇的なことが起きました。「ただ今、グスマォン大統領当選者と一緒に、」と間をおいて、「メガワティ・スカルノプトリ・インドネシア大統領が到着されました。インドネシア兵士の墓地に眠る英雄たちに参拝の後、直ちに駆けつけられました」との言葉に続き、2人が並んで入場。ドタキャンかなと思った矢先で、劇的な演出です。歓迎する東ティモール側も立派で、心から拍手をしました。これが1975年に実現していれば、第2次世界大戦後の現代史で最悪の「戦争」はなかったのにと、つい恨み節。次いで、子どもたちの演技。この子たちのために、皆頑張っているのです。

ハン・ソン・スン国連総会議長が権限委譲の演説。「あらゆる希望を打ち砕かれた20年余を経て、今、21世紀最初の独立国となった東ティモールを、国連加盟189か国は心から歓迎します。」アナン事務総長の演説。「長い話しは出来ません。なぜなら、0時が迫っていますから。45年前の私の故国ガーナの独立の時と同じように心が躍っています。こんなに小さな国のために、世界中がこんなに団結したことはありませんでした。この日を夢に見ながら亡くなった人々のためにも、祝福します。全ての人類が誇りとすべき日です。独立は言葉でなく実績です。東ティモールの人びとは、どうか約束して下さい。結束こそが力です。国連は今後も支援を続けます。」

0時、独立。黒人歌手のすばらしい“We shall overcome.”の歌声に乗って、国連旗が降ろされ、ル・オロ国会議長が独立宣言。ファリンテル代表から国防軍兵士に新国旗が渡され、国歌の吹奏の中を掲揚へ。議長により、グスマォン大統領の就任宣誓。署名。グスマォン大統領の就任演説最後に、就任したばかりの大統領が、英語、ポルトガル語、インドネシア語、テトゥン語と、4カ国語を使って就任演説。「東ティモール問題の解決は、国際社会の責任でした。そこで、こうして全世界から代表が集まってくれました。私たちはここに、自由で民主的で豊かな国をつくります。皆さんはその証人です。」各国代表への謝辞に続き、UNAMETのイアン・マーティン代表へも言葉が添えられました。国連、ポルトガル、インドネシア、オーストラリアには、記念品の授与。最後に力強く、「私は、この会場を“Garden of Peace(平和の庭)”と名付けます。私たちは責任を果たします。ビバ、東ティモール!」と締めくくりました。

盛大な花火。大混雑の中をホテルへ着いたら、2時を回っていました。

5月20日(月)人権団体、政治犯収容所

今日20日は、独立東ティモールの初日。ゆっくり起きて、14時から、「ヤヤサン・ハク」にジョゼ・ルイス・オリベイラ君を訪ねました。ここは、東ティモール最大の人権団体で、彼を日本に招請する交渉です。話し合いはうまくいきましたが、手続きがややこしそうで、悩ましいことです。

15時から、ジャシント・アルベス君の案内で、インドネシア支配下の政治犯収容所跡を視察。ポルトガルの刑務所でした。住民投票後の騒乱で、今は荒れ果てています。「潜水艦」と呼ばれる暗黒房もありました。拷問も行われ、壁に恨みの落書きも残っています。ジャシント君はここに1年、他の刑務所に3年収容されていました。政府はここの管理を「政治囚協会」に委ね、受容真実和解委員会が2年間使用します。協会は、将来ここに人権関係の会議場や歴史資料館を造りたいとのこと。

夕食は海岸の魚レストラン。期せずして、世界の人権活動家と会うことが出来ました。

5月21日(火) ホルタ外相、日本大使館等、帰国

21日は、独立行事の休日が明けて、東ティモールのオフィスで初仕事が始まる日です。

ラモス・ホルタ外相8時から、大統領、外務省、議会などが入った建物に、ラモス・ホルタさんを訪ねました。暫定でない正式の外務大臣です。予定表を覗くと、各国大使などのアポイントで一杯。連絡を入れてもらい、待つこと1時間で、会うことができました。1986年に最初に会った時は、お互いに髪も黒々でしたが、今や共に白髪混り。彼は当時、フレテリン海外代表部の外相でしたが、ついに独立国の外相になりました。

お祝いを言い、日本での支援運動の草分けのひとりである貴島正道さんから託された手紙を渡し、日本占領中の件の処理を含めた日本との外交関係のあり方につき、簡単な意見交換。大使館は、リスボン、ブリュッセル、ジャカルタ、クアラルンプール、ニューヨーク、キャンベラに設置。日本へは、当面は設置は無理で、ディリで直接扱うとのこと。日本側は、駐在事務所を対外的にはエンバシーと呼ぶことにしています。

オフィスは、コピー機のトナーが切れたり、パソコンのプリンターが壊れたりで、混乱気味。独立の第一歩は、こんなことから始まっています。

シャナナ・グスマォン大統領の部屋を覗くと、秘書のイネスさんが「彼は、今日はくたびれて、夕方から出てきます。」とのこと。その他、日本へのスピーキング・ツアーで旧知の友人たちが、外務省スタッフとして働いています。心から祝福し、健闘を祈りました。

議会第1党は、抵抗闘争を率いてきたフレテリンですが、行政能力という点では、不安が指摘されています。第2党は「民主党」で、若手のホープが集まっており、そのスタッフと会いました。秋には党大会を行うそうで、交流を提案しました。

10時半に在東ティモール日本大使館へ。海沿いにあり大変風光明媚です。

11時に東ティモール女性連絡協議会「フォクペルス」へ。急いで昼食をとり荷物をかたづけて、12時にジャイカへ一瞬だけ顔を出し、空港へ。

14時前のMZ8490で、デンパサールへ。つかの間のトランジットで世界一のクタビーチのサンセットを眺めながら一休み。ドリアンとインドネシア料理をパクつきました。

23時50分のJL720便でデンパサール発。

5月22日(水) 帰国

7時40分、成田に着陸し、JRで東京へ。


2002年6月12日

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