2010年1月21日 |
私にとっての日米安保
【日本経済新聞 2010年1月21日朝刊掲載】
「反対」世代の共通体験
―― 日米安全保障条約改定から50年が経過しました。
「1960年1月19日の調印時、地元の岡山で高校3年生でした。東京の方の学生は乱暴だなと思いながら様子をみていました。そして4月に大学に入って、もう入学式のその日から学内は大騒ぎ。学生を集めて檄(げき)を飛ばしている上級生もいて、クラスでも大議論だった」
「そんな中で自治会の役員を選ぶというので、ひょっとしたらおもしろいんじゃないかと手を挙げると、自治委員に当選した。全く右も左もわからない中、ただただ何かありそうだ、という感じだった。同年の6月15日、樺美智子さんが反対デモで亡くなったときもデモに参加し、国会の敷地内に入りました」
―― 安保反対運動に参加したのはなぜですか。
「怒られるかもしれないけど、当時はそう大きなことを考えていたわけではないと思うんです。ある種の世代的な共通体験というか、社会的な出来事に国民的な関心がわき上がっている政治状況に触れ、高揚した一体感を自分もしっかりと踏まえておきたい、そんな気持ちがあった」
―― 父親で社会党書記長などを歴任した江田三郎氏の影響は。
「あったでしょうけど、別に存在だけですね。父から何か言われたことは全くありません」
―― 抗議運動で自民党本部に入り、逮捕もされました。
「起訴するかどうかで検事が大変悩んで、父を呼んだそうです。謝れば、不起訴にすると。ただ、父は息子が確信を持ってやったことを謝りに行けるか、とすっとばした。結局、処分保留で釈放されて、しばらくじっとしていたら起訴猶予になった」
―― 70年の安保反対運動時はどうでしたか。
「70年の安保反対運動は、僕らからみれば大変おとなしかった。自分は裁判官になって、69年から71年まで英国に留学していましたから。かかわっていません」
―― 鳩山政権は「対等な日米関係」を掲げています。
「自民党政権が終わるまでは日本は文句の一つも言えずに米国が右と言えば右、左と言えば左という日米関係だった。もっと対等な、そしてそれが世界の役に立つ、日本としての世界観を持った日米関係になるべきなのではないでしょうか」
参院議長 江田五月氏
1960年東大入学、学生運動で一旦退学になった後、再入学し、66年卒業。68年東京地裁判事補。77年参院初当選。参院当選3回、衆院当選4回。2007年参院議長。68歳。
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