2010年6月10日発行 文藝春秋 7月号掲載

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極貧生活の中で


 江田五月(参議院議長)

 母の誕生月は大晦日で、娘時代から常に大童の最中だから、私の妻が気を利かせるまで誕生祝はなかった。それどころか、結婚時から最晩年に至るまで、終生多忙で気が休まることはなかったと思う。農民運動で官憲に追われていた父だが、結構人に好かれ、政治と無関係の母を嫁に世話してくれる人がいた。しかし新婚生活は極貧の中で、母は行商をして獄中の父に差し入れをしていたらしい。そんな母に向かって、「シリウスはまだ見えないか」と、大洪水と続く豊作を告げる星の到来を、父は願った。私が生まれる前のことだ。

 難を避け人を頼って中国に渡った父を追って、母は私を連れて華北へ。帰国の旅では、引揚げ者の世話ばかりの父の後を、母は弟を背負い私の事を引いて、小柄な体躯で懸命に追った。郷里に帰っても、父は政治ばかり。一九五〇年から国会議員になるが、日刊の政党新聞経営に歳費を全て注ぎ込み、家庭は赤貧。

 客に茶菓子を出せば、後でおこぼれが回って来るかと悪知恵を働かせて、気が利く振りをして私が母にお手伝いを申し出ると、客が帰った後に大目玉を食らった。私も面食らったが、質屋通いの母にそんな余裕は無く、私の無神経に腹が立ったのだ。小学生のころだ。

 それでも母も「市民運動」にいそしみ、ご近所の女性を集めてレコード鑑賞会、操り人形教室、更紗染色教室と、次々と手掛けた。私も傍らに席を与えられ、当時のメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲が今でも耳に残っている。父は地元に戻らず、選挙区を走り回るのは専ら母の仕事で留守がちだった。そんな訳で、私が高校時代に水泳や書道や生徒会活動に熱中していても放って置いてくれた。大学で学生運動が過ぎ、退学処分になっても、何も言われなかった。

 元来は大変なロマンチストで、女学生時代から、ハンセン病の長島愛生園に慰問に行き、服部忠志先生の同人「龍」で短歌を作り始めた。自分でも仲間を集めて指導を試み、晩年、歌集を二冊出版して「聖良寛文学貰」を貴けた。かつてあこがれた油絵にも取り組み、「倉敷野鳥の会」の会長をして自然観察に熱中した。

 私が岡山市に移って暫くして、母にも同居して貰ったが、九六年一○月、八十歳で忽然として世を去った。葬儀は私の知事選拳告示の前日で、喪章をつけて選挙戦に臨んだが、僅かに及ばなかった。昨年の政権交代は、父とともに眠る母にも報告したが、知事選敗北の報告は忘れたままだと思う。親不孝が続いている。

文藝春秋 7月号(6月10日発行)掲載


2010年6月

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