2014年5月27日

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吉野作造・民本主義の研究 丸山真男教授「日本政治思想史」演習  東京大学法学部 江田五月 
1964年10月23日発表


吉野作造・民本主義の研究

丸山真男教授「日本政治思想史」演習

 

東京大学法学部 江田五月

 

「吉野作造」報告

・資料
[原典]
   吉野作造博士民主主義論集
    第一巻  民本主義論
     ・憲政の本義を説いて其の有終の美を済すの途を論ず
     ・所謂天皇親政説其他を評す
     ・国家中心主義と個人中心主義、二思潮の対立・衝突・調和
     ・民本主義の本義を説いて、再び憲政有終の美を済すの途を論ず
    第二巻  民主主義政治講話
     ・現代政治思潮
     ・現代政治の根本問題
     ・デモクラシーの史的発展の観方について
     ・板挟みになったデモクラシー
     ・政治学の革新
     ・民主主義と宗教
    第三巻  日本政治の民主的改革
     ・我国憲政の解剖
     ・我国憲政の畸形的発達
     ・言論及び思想の自由に就いて
[参考書]
   日本人物史大系 近代V                  朝倉書店
      三、吉野作造          守屋正通論文
   吉野作造                田中惣五郎著    未来社
   日本における近代政治学の発達  蝋山政道著【蝋の字は正式には旧字体です】 実業の日本社
   近代日本の思想家たち       林  茂著      岩波新書
   大正デモクラシー史U                    日本評論社
      民本主義論争          信夫清三郎
   近代日本思想史講座T                   筑摩書房
      歴史的概観
   日本の歴史12  世界と日本                 読売新聞社
   日本の思想家                           毎日ライブラリー
      奈良本辰也編         北山茂夫論文
   日本の思想家U                        朝日新聞社
      朝日ジャーナル編       武田清子論文

・報告
―まえがき―

  戦後日本にデモクラシーが移入されて以来、今やデモクラシーという言葉は完全に定着したようである。ちょうどキリスト教国において人は物心ついてクリスチャンである自分を発見するように、既に日本ではデモクラシーは一つの選択の対象ではなくなっている。個人の自由な選択がデモクラシーの生命であるにもかかわらず、日本ではデモクラシーはその生命を失い形骸化してきていると言える。これは、今までデモクラシーの伝統が全くなかった日本に戦後外から移入されたものだからであると言われているが、果たしてどうであろうか。
  明治維新により芽をふいた日本の近代思想は自由民権運動の時代を経て大正デモクラシーと言われるピークを迎える。これは、最後に資本主義世界へ仲間入りした日本が、日清戦争・日露戦争を経て急速に帝国主義として成長していき、初めての世界戦争に参加していく時代である。大正の政変に始まり、護憲運動を経て普通選挙権の制定に至るこの時代は、明治時代の藩閥と軍部の結びつきが官僚と軍部へと変わる時代、近代化の要請と国権論の癒着が次第に分化していく時代、そして、労働運動の勃興と社会主義の台頭により、近代化の動きが分化し、同時に一方でファシズムが準備されてくる時代である。
  およそ現実に存在するものは、全て抽象的な命題とは何らかの形で異なっている。何らかのゆがみをもっている。民主主義一般というものは現実にはどこにも存在しえない。そして又、一度現実に存在したものは、決してそれが存在したという事実を抹消し去らない。大正デモクラシーの旗手と目されている吉野作造の民本主義は、決して民主主義一般ではなかったし、又それはその時代のみに偶然に存在していたのではなく、その後の日本の動き、そして又戦後のデモクラシーの移入ともかかわり合いを持っていると見なければならない。その意味で、吉野作造の民本主義の研究は、そこに焦点をあて、それを媒介にして、近代における日本の政治思想およびその動きを究明する事に他ならない。

第1. 吉野作造の理論の再構成

  先ず、吉野作造の政治に係わる考え方を再構成してみる。ここでの資料は、吉野が大正2年、欧米留学より帰朝してから本学において講義をした時の内容(蝋山政道【蝋の字は正式には旧字体です】、日本における近代政治学の発達)とみられている「現代政治思潮」、及び彼の代表的著作「憲政の本義を説いて其の有終の美を濟すの途を論ず」(大正5年1月)、「民本主義の本義を説いて、再び憲政有終の美を濟すの途を論ず」(大正7年1月)である。
  政治とは、広義には人類の社会生活が客観的支配―外部の力による統制―に依って統制せらるる現象を総括して謂い、狭義には「国家」と関連する客観的支配関係である。とする由縁は、国家の内にある客観的支配関係も他種のそれと何ら異ならず、又国家的強制権は我々の生活から離れて存在しているのではない事を明らかにする為である。客観的支配関係は我々の生活において複数に存在するが、その内絶対最高のものは国家である、又はそう要求し、そうなっていく。
  我々の日常生活においても、生活を規制する外部的規範は必要であるし有効である。各人の内面的決意は、一旦之を客観的規範の形にかえて来ないと実践的指導原理にはなりにくいものだ。この場合、この客観的規範は本質的自己―憧憬の対象・期待さるる自己のよりよき姿・向上の一路を辿っている自己―の低迷的自己に対する警醒的呼びかけとなる。之が実にいつまで経っても人類の生活に客観的支配と云ふ現象の附き纏って離れざる所以である。このため、客観的支配の存在は合理的であり必然的である。 (参照 日本人物史大系近代V「吉野作造」)
  客観的支配には二種類ある。一は、自己と全く関係のない単純なる強制の現象であり、二は、前述の我々の生活を引き上げるための強制である。後者は表面は外部的強制だが其実は真の自己の要求を遂げること、自己に還ること、自由の恢復である。古い自分、現れている自分、自然的存在が、客観的規範を媒介にして、新しい自分、未だ現れていない自分、霊的存在へ、つまり真の己れ、よりよき姿に発揚していく。こうして人類は絶えず進歩向上する。
  そこで、前の意味の客観的支配を、後の意味のそれに代えていく努力が必要である。所謂客観的支配をして国民の内面的要求に一致せしめる為の意識的乃至無意識的の努力奮闘は古来の歴史上に極めて顕著な事実である。又、或る時期に於ける或る特定の即ち具体的の客観的規範は、時の連続に伴って系列する客観的全支配現象の一環として相対的な存在の権利は認め得るが、それは或る限られた一瞬時には合理的存在であっても次の瞬間には最早古い煩わしい破壊さるべき存在になるという運命を免れえない。これは人類の無限の発達を前提とする以上当然である。従って客観的規範に対して常に弾力的に、不断の反省を怠らぬことが重要である。合理的な客観的支配は、外から観れば客観的支配であり、内から観れば自律的進化である。必然的な様式に従って、その生活を規律するのが自由であり、これの識得が自覚である。
  これは社会についても同じである。人民の外に権力がありこれが支配服従という関係になるというのは、政治を以て主権者もしくは支配階級の特殊的任務と解した時代の謬想である。今日では権力というもその淵源を人民に有する。客観的規範(法)は合理的なる限り人民を拘束する力において絶対的である。国家は法を定めるのに一定の拘束に従わねばならない。これは国家の自己制限であり、その全可能性と矛盾しない。国家生活の向上により、人類の生活内容も複雑豊富になり、客観的支配の現象も具体的には繁多になる。しかしその合理性は高まり又各個人もそれに自己の生活を合致させるに敏感になるから、少なくとも観念的には客観的支配の現象は減少する。そこで無限の将来には無政府状態が期せられる。これがアナキズムの本来の意味であり、この夢を追ってその影を捉えるに熱中するという所に生命の神秘が潜むのだ。
  政治現象は社会現象である。これには、1、規範を実質的に創る者、2、之を実地に施行する者、3、その規範の対象となるものがある。3は人民であり、2はそれぞれの国により伝統によって何でもよい。1は民衆全体あるいは、その中に生まれる天才の任務であるべきである。これは貴族政治とも言える。実質的な規範の創設は天才のみこれをよくする。大衆はただこれを自己の体験によって、いずれが最高か判断していく。
  政治家はその職務の性質からして、これが唯一の正しい途だと自分の方策を信ずる。しかし、実際には何が正しいか、即ち合理的客観的規範かわからない。そこで大衆の判断により何が最高かを定める。また一度定められたものであっても常に顧みられなければならない。こうして常により良いものへと上昇していく。その制度を保障する必要がある。その為の制度は、1、「多数決」の原則、2、「代議政治」の制度である。その前提として、大衆は何が自己にとって最も好ましいかを判断できる程度に進歩している必要があり、又、全て常に誠実に行動する、その社会生活を限りなく発達してやまぬということが必要である。こうする事により、交戦の舞台は民衆一般の良心となり、武器は抱負経論の言論に依り、勢力消長は民衆の自由の良心の判断に委ねられる。
  代議制度とは、自己の採るべきより良き立場を他人に見出すことであり、その人のつくる法律規則が合理的客観的規範であり、それは委任ではなく代表である。その意味で哲人政治、善政主義は誤りである。
  現在の近代政治は理想通りにいっていないが、近代政治の前提条件としては、1、多数決の原則の理想的適用を見るためには、イ、民衆それ自身が知識的道徳的に相当の発達をしていなければならぬ、ロ、民衆の自由判断を保障する制度が必要、選挙法など、ハ、民衆をして一旦の決定に拘泥せしめざること、従って政党が民衆に地盤をつくることはいけない、民衆が政党に加盟する事はいけない。2、代議制度の理想的な運用を見る為には、イ、選ぶ者と選ばれる者との関係が、道徳的信頼以外の何者によっても結ばれて居らぬこと、ロ、出来るだけ民衆一般にその決定の自由を保障すること、ハ、選挙の技術的方面の細目の規定を出来るだけ合理的ならしむること、などである。
  こうして近代政治の基本は、その客観的規範を創る際の又は改める際の運用の仕方にある。これは、主権運用の方法である。これが民本主義の一つの意味である。即ち主権の運用は大衆の意向によるという事である。これはby the peopleであり、この意味における民本主義は絶対的普遍的である。何故なら、これによってはじめて、合理的客観的規範が見出されるからである。
  更に、民本主義は、主権の運用の目的に関する意味にも使われる。自由尊重の説、最大多数の最大幸福説であり、主権運用の目的は大衆の利福の増進にあるとする説である。この意味における民本主義は相対的なものである。国民一人一人の利福を増進する事によってのみ国家を強める事ができるというのも、又国家を強大にしていくことによりはじめて個人の利福もありうるというのも、共に相対的な真理であり、絶対的真理はその中間にある。それがうまく二つ調和してはじめて、絶対的真理となるのである。ところが、前述したように、何が絶対的真理かはわからない。そこで、政治家は自己の信ずるところを絶対的真理として信ずるべきだが、我々はそうであってはいけない。国家中心主義の跋扈している時は個人中心主義を強調せねばならないし、又、個人中心主義の盛んな時には、国家中心主義を説かねばならないのである。従って、この意味での民本主義は国家主義と相並んで、その調和においてはじめて絶対的真理が得られるという性格のものである。
この二つの使われ方を有する民本主義に対し、民主主義というのは、主権の所在は一般民衆にありとするものである。これはしかし国によっていろいろその伝統により異なり、我が国のように君主主権がはっきりしている国では、そもそも問題にならない。
政治学とはこうした客観的支配関係、客観的規範を論ずる学である。人が生活する時、社会生活をつくるという事は必然である。これを継続的に可能にするものが強制組織により秩序づけられた社会であり、これが国家である。この国家を政治学は対象とするが、それは、社会の存在を云々しているのではない。
社会生活の目的は最高の文化の展開であり、その為にどういう強制組織が必要か、又、ある強制組織が良いか悪いかを論ずるのである。従来はこの点において、先ず強制組織が絶対に価値のあるものとされた。そして、この強制組織の為にあらゆるものが動員されたが、現在ではこの強制組織そのものを問題としている。ここに政治学の革新がある。
最高の文化とは倫理の問題であり、これを政治学は追究する。ここに政治倫理学がうち立てられる。
これを考えていく態度ないしは方法は二つある。一つは、政治的活動に対し、絶対最高の指針を与える事であり、これも確かに政治学の任務の一つである。而しながら、真理が何かという事はわからない。国家を客観的に取り扱う科学者の立場から言えば、或る特定の人の主観に於ける所謂唯一の真理のみに、国家の指導を託するのは危険であると言わなければならない。
故に客観的に政治を観る科学者は、常に功利的な立場を離れず、利弊を按じて政策を変易するを怠る事は出来ない。政治の方針に関するイズムは一元ならざるべからずと言うのは、主観的に政治を観る人の立場である。之を研究するものを或いは政治哲学と言ってよかろう。之に反して二元的対立の基礎の上に政治の方針を定めんとするは、客観的に政治を取扱ふ人の立場である。之を研究するものを、或いは科学的政治学若しくは単に政治学と云ふて差し支えあるまい。

吉野作造は以上のような考えに立って、更に具体的に政治の状況、課題に関し、積極的に中央公論誌上などで活動していく。その刃は、先ず軍部官僚に最も鋭く向かっていき、軍部改革、貴族院改革などを主張していくのであるが、彼の立場は一貫して彼の科学的政治学の立場であったと言える。即ち主として主権の運用の方法の問題で論陣をはるのである。彼の普通選挙の要求もまさにその立場であったと言ってよい。以下、彼の以上の考え方とその活動に関して、二、三の論点につき述べてみたい。

第2.「民本主義」と現実との妥協

 一般に吉野作造の民本主義は、国体をはばかって民主主義というところを民本主義と言ったのだと言われている。例えば、朝日ジャーナル編「日本の思想家」において武田清子氏は、「ただ単なる西洋からの借りものによるのでもなく、また、理論的精巧さ、厳密さのみが正しいとする公式主義でもないところの、天皇制下のデモクラシー、すなわちきびしい現状認識に基づきながら、そこでの目前の一歩を克服して前進するための実践的可能性を堅実に追求しようとする現実主義的実践的デモクラシーの一つの姿を見出す」として、吉野作造のこの立場を絶賛しており、又博士の子息、吉野俊造氏も「民本主義論」編纂後記において同様の事を書いている。これは一面においては正しいが、しかし又、あまりに事を単純に見ているように思われる。確かに当時において現実に官僚軍閥に肉薄していくという事に、そしてそれを一歩でも民主的なものにしていくという事に吉野は主眼をおいた。彼が、理論として、あるいは理想として完全なものを求める事よりも、現実とどう交渉していき、現実にどうかかわり合いを持っていくかという事により重点をおいた事は、随所にうかがえる。例えば、彼の政治哲学と科学的政治学の考え方もそうである。「明治文化の研究に志せし動機」においても、明治文化の研究の意義の一つとして、それにより「歴史の光」を明らかにして、「老輩が多年の実験によって堅めた見識を打破る」ことを上げている(参照 日本人物史大系 第七巻)。吉野の民本主義論が、山川均を中心とした左翼からの批判に会っても、吉野はこれに対してほとんど反論をしていない。ただその生活倫理を批判しているのみである。又、吉野作造のアナキズムの評価、あるいは学生運動の評価などから考えても、吉野が単純なる反社会主義ではなかった事は明らかであるが、しかし、彼にとっては、そんな事は大した問題ではなかったのである。
 それは、客観的合理的規範が何かという事に属する事であり、「現在」に生きる政治家でなく、「永遠」に生きる科学者としては、何をもってその真理とするかは決し難いのである。歴史は結局必然的に落ち着くところへ落ち着くのであり、ただその必然性の貫徹を妨げる要素を除く事が大切である。それは、破廉恥な政治家共であり官僚であり、軍隊の機構である。こうして、吉野は現実との係わり合いをもっとも重視して、主権運用の方法に関しては自己の信ずる所を一歩もゆずらないのである。彼は、現実政治に肉薄していく為に相当程度まできわどい妥協をしていく。例えば、天皇親政説論者との論争においては、浪人会との立会演説会での討論会において、「私は浪人会一派の諸君が暴力を以て思想を圧迫せんとする態度を非難するのである。大阪朝日新聞や村山龍平氏の思想の内容が如何なるものであるかはしばらく論外である。如何なる思想にせよ、暴力を以て圧迫することは絶対に排斥せねばならない。思想に当るに暴力を以てすることは絶対に排斥せねばならない。思想に当るに暴力を以てすることは、それ自体に於いて既に暴行者が思想的敗北者たることを裏書きするのである。それもしかかる暴力を以て、或る種の思想に対する制裁の意味に於いて是認せんとするならば、問題はまた異なった内容をもって来る。立憲治下の我が国に於いては、国民の制裁をなす権限は天皇陛下にある。この陛下の赤子に対して個人が勝手に制裁を加えることが是認せられるならば、これこそ却って乱臣賊子ではないか。国体を破壊する者は浪人会一派の諸君の行動ではないか。」と言う。ここでは彼は、絶対的天皇親政説を認めそれを逆手にとって相手を窮地においつめているのである(菊川忠雄「学生社会運動史」)。つまり彼にとって、何が客観的規範として最善かという問題よりも、どうすれば、それの実現を保障しうるかの方がより根本的な問題である。そしてこの意味でのみ、吉野は「きびしい現状認識に基づきながら、そこでの目前の一歩を克服して前進するための実践的可能性を堅実に追求しようとする現実主義的実践的デモクラシー」となりうるのである。吉野作造においては、伝統的な、諸行無常的世界観は未だその半分しか破壊されていないのである。しかし、その破壊は決して観念の世界にとどまっておらず、実践的な性格を強く持っていたと言うことができる。

第3.吉野作造の民衆衆愚論

  大正デモクラシーの時代は政治の舞台に民衆が登場した時代である。政治を現実に動かしていく要素の一つとして民衆が登場してきた。そして、そういう現実の展開というものが、又、吉野作造の民本主義を生み出したと言えるであろうが、それでは果たして彼の民衆観はどうであろうか。これに関しては、彼に関する論文のほとんどが何らかの形で扱っているが、それらの評価は二つに分かれる。一つの代表としてここでは、大正デモクラシー史U、第5章 民本主義論争における信夫清三郎氏の観方を上げてみる。
 吉野作造は、大正2年から3年にかけての民衆運動のなかに「積極的に主張のある人間」を見出さずに「脳中無一物である下層級の人」と「無責任の学生」だけを見出し、その手段を「破壊的」であり「革命的」であるとみ、その態度を「フランス革命当時の乱臣」に比した。彼らは「いちばん煽動にのりやすい」し、したがってまた「いちばん危険な分子」であった。
 吉野作造は、大正初期の民衆運動を正しく理解する事ができなかった。彼はその背後に「国民の不平」として民衆の深刻な生活問題があったことを看破することができなかった。・・・もし彼が心底から民衆の友として語ったならば、彼は何にもまして「下層級の人」たちの運動に組織と方向をあたえる方策について語らなければならなかったはずであった。
 もちろん吉野作造は民衆を無視したのではなかった。彼は「民衆が多数あつまってさわぐということは、大体において実は憂うべき現象である」と考えたが、しかし「また他の一面においては、日本今日の憲政の発達といううえからみて、この民衆的示威運動という現象は、一つのよろこぶべき現象である」とも考えた。彼は、官僚・軍閥の「暗室政治」を嫌悪した。そこから、彼の絶対主義にたいする批判がうまれ、その批判の原理としてのデモクラシー論がうまれ、そのデモクラシー論を実現するためのテコとしての民衆運動の評価がうまれた。
 吉野作造にとっては、民衆は官僚・軍閥の「暗室政治」をうちこわすのに「民衆の力をかりる」ために必要であった。官僚・軍閥の支配にたいするブルジョアジーの反抗運動でつねに民衆が実戦部隊として動員されたのは、ブルジョアジーだけではそのたたかいをかちとることができなくなったからであるが、日本でも、官僚・軍閥の「暗室政治」の打破は、「民衆の力をかりる」ことなくしては不可能であった。しかし、それは当然にゆきすぎる危険をもっていた。だから、吉野作造は民衆運動が「革命的」になることを警戒したが、彼は「政治問題の解釈ないし政権の授受に関する終局の決定を民衆の判断の左右するところたらしめる」政治を主張し、そして「民衆の判断を政治上重要な意義あるものたらしめる政治」を「民衆政治」(デモクラシー)と呼んで「私は断じて民衆政治論者である」と断言した。

第4.吉野作造の民衆主体論

  しかし、吉野作造の「民衆政治」は、民衆の政治ではなく、民衆による政治でもなく、その理想においては「民衆政治を基礎とする貴族政治」であり、現実の理想はイギリスにおけるブルジョア・デモクラシーの政治にあった。
 これが一つの判断であり、更にこれと対照的な観方として、前述の武田清子氏の観方を述べる。
 山川らの批判は、「哲人政治か衆愚政治か」という事を問題にし、吉野は民衆を信用していない、哲人政治であるとする。吉野は、「民本主義と国体問題」および「現代政治思潮」で述べる。1、衆愚の世論は愚論ではない。2、しかし民衆は善導されねばならない。という。彼は全ての人間は無限に成長すると信じ「教育」を深く信じていた。彼のいう哲人は「衆愚自身の未来像」であり、衆愚のふところから生み出されていく指導者である。
 民本主義は「よりよきそれ」を発見することを学ばせ、人間を完成させる活動と思っていた。それ故に労働運動を評価した。労働者の内面的自覚にもとづいて、労働階級が新文化創生の積極的原動力となることを期待している。
 こうして、武田氏は、吉野の「人格主義」をほめたたえ、それは彼がキリスト教徒であったが故であるとしてその論を閉じるのであるが、しかし、東大時代の「新人」での活躍の時代を除いては、彼はキリスト教に全てをもっていくという、良くありがちな信者の態度は全くなく、「憲政の本義」においては、真理が一つしかないと信ずる者の一つとして耶蘇教をあげその戒律主義を批判しているようにも読みとれる箇所があるのである。従ってこの武田氏の論が果たして正しいかどうか、疑問であるが、それは別として、彼が政治の局面において民衆に期待していたものは多くはなかった事は、前述の通りである。確かに彼が民衆の限りない発展を信じていた事は間違いないが、しかし、又、民衆が発展していく行きつく先は、「貴族政治」によって作られた合理的客観的規範が、完全に真の自己への開眼と同一となるという事であり、民衆自身が政策をたてるという事ではありえない。結局彼の人格主義も、主権の運用の局面においてのものなのである。
 吉野が民衆のことを言うとき、彼は確かに政治の方法・主権の運用の方法を民衆の意向によるものとし、又、主権の運用の目的を民衆にあるとしていたが、しかしながら、彼は、民衆が実力をもって実際の政治の上に登場してくる事は決して好まなかった。「民衆的示威運動を論ず」などでも明らかなように、民衆が運動を行うことは、衆愚のばかげた行動、ないしは危険な行動とみなした。彼は民衆に政策を創る力を認めなかった。ただ彼が認めたものは、民衆が、自分の前にいくつかの政策が提示された時、そのいずれが正しいかを自己の生活感懐により判断できる能力のみであった。しかしながら、その能力を示すのは、自分に政策が提示された時のみであり、自分自身が何かの政策を要求するという事、又、その能力が民衆にあるという事は認めなかった。
 こうして、彼の興味の中心は、民衆よりもむしろ、政策を提示する側、政治の指導者のあり方へ移っていき、彼の政治倫理学をつくるのであるが、この指導者のつくる政策にも民衆の動きが反映されざるをえない事を彼は見えなかった。その意味で、彼の政治学は、政治を動的に見ることができず、スタティクな政治学に終わらざるをえなかった。
 しかしながら、彼は自分の考えが世を風びしたのは、民衆の力によるものであると後生語っている。又、普通選挙権において民衆の先頭に立っているのである。彼の場合、主権の運用に関する限り、その民主制を確立する為に民衆の力を必要としたのだが、しかしながら、主権の目的、ないしは主権の所在に関しては民衆が全面に登場してくることを認めることはなかった。それは彼が、既にブルジョア革命を基本的には経ながら、なおブルジョアデモクラシーの全く不備な社会にいて、ブルジョア革命時代の理論家などその理論を貫徹しえず、その限界を先取りしていたということを示していたと言えるであろう。その意味では、日本の思想家、毎日ライブラリーの「死の年には、日本国家社会主義全国協議会がもたれるという時期であり、彼の死は何ら記念されなかった。戦後は彼の民本主義をこえてすすんでいる為に彼は顧みられない」という北山茂夫氏の指摘は、彼の理論の現実との絡み合いを的確に表しているであろう。
 しかし、山川均が、「民主主義の煩悶」でいうように、人民の主張としては、人民による、人民のための政治で人民の政治でないものはありえないのであり、即ち、人民による人民のための政治を人民が要求する時、それは必然的に人民の政治の要求として結実化していくのであり、この意味で吉野の民本主義論の中から、多くの吉野をのりこえた子弟を輩出させてきたことに、信夫氏はもっと注目すべきではないであろうか。彼が、ブルジョアデモクラットか、プチブルかといった論争に私はあまり意義を認めないものである。

 


2014年5月27日 吉野作造・民本主義の研究 丸山真男教授「日本政治思想史」演習  東京大学法学部 江田五月 
1964年10月23日発表

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