2012年法政大学大学院政治学講義 | ホーム/講義録目次/前へ/次へ |
2012年11月16日 第 8 回講義「政治家と秘書の日常」 講師 政策秘書 江田洋一
【自己紹介】
今晩は。時々、教室の後ろに座っておりますけど、まず自己紹介から。江田五月の秘書の江田洋一です。苗字は同じ江田ですけど全く赤の他人でして、身長は大体一緒なんですけど体重は 20 s違います。頭の中身も大分違います。私の出身は実は岡山でして、岡山大学付属小学校・中学校、付属の高校はないので、岡山芳泉高校、議員が出た岡山朝日高とは姉妹校です。それから岡山大学に進学しました。丁度大学 4 年の時に。 7 月に参議院議員任期満了で、次は衆議院に鞍替えというそういう時期に、江田五月さん(当時は参議院議員でした)とたまたま岡大の学生の時に出会いました。私が大学の時に専攻していた政治学のゼミに、丸山真男さんの最初のお弟子さんで半田輝夫先生という方が教授でした。江田五月も丸山真男のゼミをやっておりまして、まあそういったことがあって、政治学と実際の政治はどのくらい違うのだろうか、江田五月さんに半田ゼミで講演いただいたのです。それが御縁でそのまま、今でいうインターン、当時はそういう言葉はなかったですが、選挙準備をして、次解散いつになるかわからない、学生に政治の方の手伝いしてもらえないかということがありました。ちょうどその後、昭和 58 年の 12 月 8 日が衆議院の解散になって選挙になりました。
江田五月さんは岡山 1 区から初挑戦でトップ当選ということになりました。私は大学 4 年で就職も決まっていましたので、そのまま大学出た後事務所で手伝わないかと声も送っていただきましたが、まあせっかく親に育ててもらって就職も決まっていましたし、私としては大学まで岡山で暮らしていたということもあり、今でいう、あいおい損害保険会社、損保会社の本社に、東京に勤務しまして5年務めました。 5 年務めるうちに、江田五月の私の前任者の秘書に、衆議院議員、決算委員長で自宅の前で右翼に刺殺されてしまいました石井紘基さんという方がいらっしゃいました。そういった方が私の前任者で、私は丁度昭和 63 年リクルート事件がまさに吹き荒れる時に会社を辞めて手伝えと、自分の秘書を務めていた石井さんが国政に挑戦し秘書を辞めるので、国会の秘書の方を君にやってくれないかとなりました。昭和 63 年から、翌年の 1 月 7 日が昭和天皇の崩御ですから、平成になる直前、今平成 24 年ですので、約 24 年江田五月の秘書をやっております。
その中で、衆議院は 4 回当選したり、 1996 年の岡山県知事選挙に江田五月が立候補して負けました。これは大きな選挙の最初で、 10 月 27 日に知事選挙に落選し、私も無職となるということでした。実は 96 年 1 月 31 日に娘が生まれておりまして、乳呑児を抱えながら父親が無職になる、なおかつ浪人生活を江田五月も送りました。私も実家が岡山にありますので、実家に単身赴任するという男にとっては大変面白くない単身赴任でしたが、 10 ケ月の娘と離れて約 2 年間、江田五月と一緒に岡山で政治生活を務めました。その間、江田五月は政治活動を続けていましたが、弁護士の資格もありましたので弁護士事務所を開設し、顧問先を探してこれるのが一番、私が適任だろうということもあり、 2 年間浪人生活を共に送りました。
その間の身分というのは、全国江田五月会という政治団体があります。その政治団体を事業所の登録をして、そこの職員というかたちで、健康保険とか年金とかを賄い、あと他に 3 名職員がいましたが、そういう形で 1998 年の参議院選挙で復活をして、また東京の国会の方に戻ってきて、以来、私も秘書を続けています。主には公設秘書で、最初は第二秘書、それから第一秘書、今政策秘書の資格を持っていますが、江田五月が参議院議長をやっていた時は前回講義した大蔵さんが事務取扱いの議長秘書で、私は政務担当の議長秘書というかたちで、この場合は国会議員の秘書は離れて参議院の職員になります。任命するのは江田五月議長ですが、給与を決めたりするのは事務総長で、事務総長の方から辞令をもらいます。給与は参議院議長秘書の給与表というのがありまして、それに則って全く違う仕事をしています。
江田五月は 3 年務めましたが、実は私は 2 年前の 7 月に選挙がありましたので、 4 月 30 日に議長秘書を辞めて 5 月 1 日から岡山の方に入り、 7 月選挙に向けての準備を選対事務局長として行い、また勝ち上がって、政策秘書に戻りました。そして 1 年後に政権交代が起き、江田五月が法務大臣になりましたので、また公設秘書を辞めて、法務大臣の秘書官、これも事務取扱いの秘書官と大臣が政務を司る秘書官を任命できますので、そのまま私は今度法務大臣の秘書官に、合わせて 6 月から環境大臣兼務となり、私もそのまま環境大臣秘書官兼務するというような、ある面では民主党の中ではそういう経験をした人というのはあまりいません。
96 年に旧民主党ができ、江田五月は 98 年の参議院選挙から民主党に参画していますが、新しい政党で、私は 24 年もやっていますので、実は民主党の秘書の中では最古参というかたちです。最初は社民連の秘書会の会長をやり、その後日本新党と合併した時には秘書会長代行を、その後、新進党になった時には副会長とだんだん会長からさがってきました。参議院の民主党に入った時は事務局長、だんだん下がってきたのですが、その後長くなりましたので秘書会長を経験しました。その後超党派で秘書協議会という、これはもう民主党から自民党、共産党からさまざまな会派から代表がでて秘書協議会がありまして、その会長をしました。
秘書協議会というのは国会、議員会館の中で仕事をするにあたり、例えば食堂のメニューがあまりにも酷い場合は、これは値段に見合わない、そういった時には業者に交渉するとか、それからトイレなど使いかってが悪い場合どうするかとか、それだけではなくてエレベータの使い方、駐車場の確保であり、今回は新議員会館、来週国会見学に来ていただくことになると思いますけど、新議員会館のいろんなスペースの使い方であるとかそういったことも協議するような、いわゆる互助会というか、仕事をしやすいようにする会です。これは秘書だけでなく、国会議員も、働く参議院の職員とか、それから衛視さんとか、それから来られるお客さんの使い勝手がいいような、そういったことも協議するような機関の仕事もしてきました。
【議員の一日】
今日は「政治家の秘書の日常」ということでございまして、まあ公民のおさらいみたいな形になると思いますが、国会議員が普段どういうことをやっているのか年間を通して、それから秘書は年間どんな仕事をしているのかということを皆さんにお伝えしていきたいと思います。一枚めくっていただいて、本日の日程表をつけました。朝 8 時に麹町の宿舎を出て、 8 時半から障がい者 PT 雇用ワーキングチーム、障がい者差別禁止 PT 合同会議、これは厚労省から障がい者の雇用対策の現状についてヒアリングです。実は朝から緊迫します。何故かというと雇用ワーキングチームの座長が初鹿さんという衆議院議員ですが、この人が昨夜に離党するという話になり、離党するという人がこの会に出てきて、この会をどう仕切るのか、そういう緊迫がある中、朝 8 時半に来ました。まだ離党届を民主党に出しておらず民主党に籍はあるので、この会は責任もって出ますといったところから始まりました。 9 時半からの議員総会というのは、 10 時からの本会議での法案の賛否をどういうふうにするのかを確認し、合わせて国会の情勢を会派のみんなで共有します。そういった会議が本会議の前、いつも 30 分開かれます。 10 時からの本会議については、公債発行特例法案、年金二法、これは国家公務員の年金が今とり過ぎているのを是正しようというもので、それから一票の格差を最低限是正するという、衆議院では 0 増 5 減、参議院では 4 増 4 減の法案を通しました。そして合わせて、身を切る覚悟を示せと先日の党首討論で野田総理が言った議員定数を減らすまでは歳費を 2 割カットしようという法案を本会議で採決して可決成立しました。 11 時半から、財務省の理財局というのがありまして、ここは通貨製造委託などを行います。岡山に印刷局がありましてここは紙幣を印刷する印刷局で、貨幣をつくるところです。これは独立行政法人ですが、大事なものを扱う機関が岡山にあるという事で、財務省の理財局が、バングラディシュの硬貨を造幣局が受託し製造するという状況を、説明するために来られました。 12 時からの「国のかたち」というのは、いわゆる民主党の中の緩やかな派閥で、野田グループ、前原グループ、鳩山グループとかと一緒になります。その中で菅直人さん、江田五月を中心にまとまる緩やかな派閥です。ここが本日衆議院解散ということなので、今日を最後に次、落選したら会えないかもしれないという国会議員がいますので、最後の顔合わせ、最後でなく次に必ず勝ち上がって頑張りましょう、そのために菅さん、江田さんは皆さんのところへ応援に行きますからと。そういう約束をする出陣前の固めの盃みたいな事を、お酒は飲まず弁当ですが、そういう会合を昼飯会でやりました。
1 時は週刊現代のインタビューです。今年末ですので今年亡くなった人の特集、文芸春秋でも来月号でいろんな人が出て、江田五月も楢崎弥之助さんのエピソードの中で追悼、おくる言葉が出ますが、それと同じような取材がありました。この全議員政策懇談会というのは実は 2 時に今日開かれずに、今、開かれています。合わせて、同時刻にリナカー関係者表敬というのがあるんですけど、これが実は今日、江田五月が講義に来られない理由です。 19 時のところにリナカーカレッジ創立 50 周年記念会合、オックスフォードにリナカーカレッジという所がありまして、江田五月がそこの卒業生で、募金活動の会長をやっています。三笠宮、ひげの殿下、今年亡くなったんですが、江田五月と三笠宮殿下はオックスフォードでの学友でして、その娘さんが今日代わりに出られるということもあって、それからイギリスから大学を代表した方も来られるので、今日はみなさんに大変ご迷惑かけることに至ってしまいました。
15 時から、野呂明彦さん、前の三重県知事が陳情に来られました。 15 時半から本会議で、今日解散する前にあげてしまえという法案が、朝に間に合わなかったのが、退職手当、私学助成、自衛隊法とか、本会議で可決した後、 15 時 50 分過ぎぐらいでしたか、野田首相から解散詔書が藤村官房長官に渡って、官房長官が紫のふくさを持って本会議場に入って、横路衆議院議長に渡し、議長が憲法 7 条の規定により衆議院を解散するという宣言で、万歳三唱で衆議院が解散されました。それが終わった直後に民主党も常任幹事会を開き、その後 5 時から両院議員総会という形で野田さんが出て来られて、畳を掻きむしってでも皆さんはえ上がって帰ってきましょうと挨拶しました。その後 6 時から、記者会見、今やっていると思いますが、これと同じような話をしていると思います。全議員政策懇談会に江田五月もちょっと顔を出して、今、リナカーカレッジ創立 50 周年記念会合のアークヒルズに向かっているという状況です。これが一日の日程です。今夜は最終の新幹線に間に合いませんので、麹町宿舎に戻りますが、明日の朝、飛行機で高松へ行きまして、マニフェスト集会の四国ブロックがあって、江田五月は党を代表して、マニフェストのできた事、できなかった事を報告して、その後終わったら岡山に帰ってくる、そういう日々の生活をしています。今日は解散がありました。特別タイトではありましたが、そういう一日を送っています。
資料の次をめくって下さい。これはホームページを見ればわかりますが、 10 月の活動日誌の見出しをつけてみました。そして次のページに週間ごとに大体どういうようなことをやっているのかという1ヶ月分を皆さんに知っていただきたいと思いつけました。なるほどなあ、こんなことをやっているんだな、こんなつまらないことに時間さいているんだな、まあそういったことを是非見ていただければと思います。
【国会議員の日常〜江田五月議員がやってきたこと】
では最初に戻りまして、国会議員の日常ということについて、どんなことをやっているのか、皆さんにお話ししたいと思います。国会は通常国会、臨時国会、特別国会の3つがありまして、通常国会というのは毎年 1 月中に開催することになっていまして、会期は 150 日間、会期中に議員の任期を満了する場合、その日で終了します。延長は 1 回しかできません。臨時国会は衆議院か参議院のいずれかの 1/4 以上の議員が連名で議長を経由して内閣に開会要求書を提出します。それから衆議院議員の任期満了による総選挙、参議院議員の通常選挙が行われた場合に召集されて、議員の任期の始まる日から 30 日以内に召集しなければなりません。つまり、臨時国会は衆議院選挙が終わった後に開かれることになりますが、これは延長を 2 回することができます。特別国会、これは衆議院の解散による総選挙後に開かれます。総選挙の日から 30 日以内に召集され、通常ここで新しい総理大臣、首班指名が行われる。延長 2 回。今回の場合、衆議院の選挙は 12 月 4 日公示、 12 月 16 日投開票なので、 30 日は年内を跨ぐんですが、これは選挙の結果、どういう形になるのかによって、年内に開かれるのか、年を跨いで開かれるのか、わからないんですね。 93 年に宮澤内閣の不信任が可決されて宮澤総理は解散をしました。その時に細川連立政権が出来上がる時に、あの時の「さきがけ」が自民党とついても過半数を超えるし、「さきがけ」が社会党と民社党と、改革フォーラム 21 、日本新党、社民連、連合、 6 党 1 会派、 7 グループが一緒になるのに時間がかかりました。時間がかかってから特別国会が開かれた、そういう例もあります。まあ、国会というのは3つあるということです。
毎週金曜日に帰っていますが、地元日程というのが通常金曜の夜から日曜の夜、これは参議院バージョンでして、衆議院の場合は火曜日の朝に帰ってきます。何故かというと参議院の場合、本会議定例日が月・水・金となっていますので、月曜に本会議が開かれる場合があるので、日曜に上がってくる。衆議院は火・木・金が本会議の定例日になっているので、月曜は開かれないので、金曜日に帰って火曜日に出てくる、合わせて閉会中は地元にいるのが多いです。何故かというと江田五月は民主党の顧問をやっています。月に 1 回常任幹事会が開かれますし、解散になりましたので、岡山の総選挙の陣頭指揮をとらなければいけません。普段は国政報告会とか党員サポーターの集会であるとか、支持者回りであるとか、あとまあ町内会とか運動会とか、団体会合や労働組合の会合とか案内がきまして、行く必要性がある所へ行って挨拶をする中で、会合の中で開催する主旨について理解を深めたり、いわゆる陳情を受けたりするようなことになります。
それから選挙対策については、自分の選挙ですよね、それから今回の衆議院選挙。昨年は統一自治体選挙がありました。地方議員選挙の応援。それから先月は岡山の県知事選挙がありました。来年になると岡山市長選挙があります。来春には合併した市町村の首長選挙が全国的にあると思います。自治体の市町村からの陳情とか、現場に出かけて行って視察をするなどしています。
本会議の定例日が参議院の場合、月、水、金です。その 30 分前に会派の議員総会を開きまして、法案の賛否、質問者がこういう趣旨で質問するから応援してくれとかですね、会派の運営がよろしくない時は厳しい質問が出たり、激しいやりとりをする場合もあります。それから常任委員会というものがありまして、江田五月は今、法務委員会の理事と決算委員会に所属しております。特別委員会というのが7つありまして、江田五月は政治倫理の確立及び選挙制度に関する特別委員会、これは先ほど言いました 0 増 5 減とか 4 増 4 減とか、そういったことを審議する委員会です。昨日午前中に衆議院を通過して、その日に参議院に送られてきたので、 6 時 45 分頃からこの委員会が開かれまして 8 時 20 分までやりまして採決をして、今日の本会議にかかったのです。その他にも、政府開発援助( ODA )に関する特別委員会の委員をしています。調査会というのもあって、参議院は解散がありませんので、任期は 6 年でその半分 3 年間かけて、じっくり討議できる、いろんな事を研究できるという特性を生かしたもので、調査会というのは 3 つあります。それ以外に憲法審査会、政治倫理審査会がありまして、江田五月は憲法審査会の幹事。憲法審査会とうのは 8 年前にできたのですが、実は 8 年前からずうっと通してみてきたのは江田五月しかいないというそういう状況なので、憲法審査会について、江田五月は重要視していますし、大切な役割を果たそうとしています。
選挙というのは国政選挙、参議院選挙と衆議院選挙、それから自治体選挙、これは県議会議員選挙、市議会議員選挙、村議会議員選挙、あと来年は東京都議会議員選挙。その他、首長選挙、知事・市長・町長・村長の選挙がありまして、それにいろいろコミットしていきます。
あと議員連盟という、議員外交、世界各国の議会がありまして、特に江田五月の場合は参議院日本モンゴル議員連盟会長、ハンガリー議連会長、ブルガリア議連顧問、東チモール議連顧問、ハンセン氏病の最終解決を求める議員懇談会の顧問、まあこういったことを中心にやっております。モンゴルにつきましてはレアメタルなど資源がありますし、モンゴル自体がロシアと中国に挟まれていて、日本を第三の隣国と認めている中で、非常に親日的です。実は、モンゴル議連会長になった時、江田五月は訪問したことがなかったので、今年の 1 月 2 日から 6 日にかけて訪問しました。前に江田五月が話したかも知れませんが、私も同行させられたというか、しました。マイナス 35 度ですよ。実際、外に出ると 5 分程いると靴の下から冷さが伝わり、 20 分もいると足が腐り始めるようなそういう世界で、冬の寒い時に行けば、夏の一番いい時に大歓迎してくれるのではないでしょうか。モンゴルら首相、議長が来た時も対応しているんですけど、この夏は政局が、税と社会保障の一体改革で国会がずうっとありましたので、とうとう行くチャンスを今年の夏は失ってしまいました。ハンガリー議連では昨日、外務副大臣が来られてハンガリー大使館でレセプションが用意されていましたが、残念ながら、さっき話した政治倫理特別委員会があり、行くことはできませんでした。ハンガリーには、実はスズキ自動車の大きな工場があったり、岡山市自体がハンガリーと友好姉妹都市関係を結んでいますので、そうした縁でハンガリーの議連会長をやっております。ブルガリアは大関琴欧州の出身国で、訪問した時に両親とお会いしたりして、そういった縁でも友好関係を進めています。
東ティモールについてはポルトガルが宗主国で、支配を止めて国を返すよといった時に、突然、インドネシアが侵攻してきて、ここはインドネシアの領土だといって旗を立てたのです。それ以来、東ティモールの人たちは民族自決、民族独立運動をしていて、その時代から支援をしていまして、国連の非植民地化特別委員会で江田五月が出かけて行って演説をしたりしました。来週日本に来る、ラモス・オルタさん、ノーベル平和賞をもらった人で初代大統領になった人です。その方が独立支援を求めて来日した時に、日本全国でスピーキングツアーをやったり、独立する前から支援をしておりました。住民投票の選挙監視では私も一緒に行って、ゲリラに囲まれながらも公正な選挙をするという選挙監視であるとか、独立の式典には参加するとか、参議院議長になった時の最初の訪問国に東ティモールに行って、向こうは向うで友好議員連盟を立ち上げて、相互の訪問をしていこうとやりました。日本も「当時は大使館もなかったですが、今は大使館もあって、そういった形での活動をやっています。
社民連時代から始めておりまして、東ティモールなど独立支援しても選挙では一票のメリットもないのですが、やはり世界の中で民族が独立しようという、そういう活動を支援することは大事です。今は東ティモールは、例えばアジアの中でも日本が国連の安全保障理事国になる時に必ず応援するという関係になっていますし、実はオーストラリアとの国境のところに、東ティモールギャップという、世界有数の海底油田があり、大事な地域となっています。
それからもう一つ、ハンセン病の議員懇談会というのをずうっとやってきました。なかなかやり手がいなかった。岡山に二つ療養所がございまして、そういう方々が虐げられた、隔離された生活をしていることに対して支援の手をのばしていかなければならないという活動を長くやってきました。熊本でそういった政策の過ちを認めて、国の賠償の裁判をした時に、患者の皆さんと一緒に官邸前で座り込みして、小泉首相に国の控訴を断念するように働きかけをしました。今は厚労省の前に記念碑をたてました。 82 才にもなって、もう故郷に帰れない人たちです、皆さんここにいる人たちは。そういう人たちが最後にふとんの上で、自分は若い時、辛い時期を過ごしたかもしれないけれど、こういう形で最後認められたという、今も支援しています。療養所が国立なもんですから、例の行革で職員が減らされたのですから、そういうことがないように国会、衆議院、参議院で決議しました。自民党の方の議員連盟会長は中曽根弘文さん、民主党の方の会長は江田五月で、あと超党派で参加しています。実は、今週ぐらいに野田総理にそういったお願いに行く予定になっていたのですが、解散になってしまい、次の機会どうしようかとなっています。
それから今、公職としまして公益財団法人日中友好会館会長、日本の中に中国と友好関係を結んで、いろんな交流をする団体が7つあります。友好会館というのは、一つは中国人の留学生を受け入れる寮の運営管理をしています。ここは日本に留学する中国の幹部候補の人が若いうちに来ます。そういった人たちの寮です、それから青少年交流、最近復興予算で話題になりました。絆プロジェクトを通して中国の人たちに被災地に行ってもらいました。今度、逆に日本からも中国に行って、いろんなジャンルの人たちがいろんな形で現場の人たちと民間で交流するという活動をしています。もう一つは友好会館の中で美術館がありますので、そこで美術展だとか交流行事をやっているというようなところの会長をやっています。
それから、鳥類保護連盟の顧問をやっています。野鳥のつどいとか愛鳥週間とか、日本全国で野鳥保護のつどいが毎年 1 回、常陸宮殿下が参加して行われます。もちろん、トキの保護についてはいろんな形でカンパを集めたり、絶滅危惧種、例えば小笠原のアホウドリをもう一度増やそうなどの活動をしています。あと憲政記念館で、毎年、麹町小学校の生徒が来て、一緒に巣箱かけをやったりして、参議院議長時代には議長公邸に巣箱かけをしました。
又、江田五月は古式泳法という水泳を高校時代からやっていて、岡山県水泳連盟の顧問をやっています。
与党と野党で、所属した政党名を書きましたが、社会民主連合という一時期 4 名しかいなかった社民連という党は聞いたことがありますか。(学生―あまりない)。日本新党というのは知っている。(学生―知らない)。新進党というのは。(学生―知っている)。これは小沢さん、羽田さん、海部さんとか。新進党というのは、もともと民社党、新生党、自民党から出てきた人たち、公明党もいました。公明党は衆議院では新進党なんですが、参議院では公明で、衆参で分かれていました。当時 10 近い政党があって、自民党の一党支配を何とか突き崩そうとして、最終的に民主党にだんだん固まっていきました。小沢さん自体は、最初自民党から出て改革フォーラム 21 をやって、その後新進党、そして自由党、民主党と合併して、又、国民の生活が第一になった。自民党の政権を倒すために、そういういろんな事が起きていました。江田五月も 98 年民主党になる時、これが最後の拠り所という形で頑張ってきました。 93 年の細川内閣の時、 8 ケ月間だけ自民党が野党になった時がありました。しかし、復活するのを阻止できませんでした。よく、菅さん、江田議員と話す時に、あの時の失敗があって何とか民主党をつくって、ここまで頑張ってきたのだからと 3 年前までしていました。だからいろんなことを我慢しながら今回やってみたのですけど、まあ今日解散して国民がもう一度どういう政治がいいのか選ぶ、そういう時期になりました。
それから 93 年細川内閣の時、科学技術庁長官、 5 年前に参議院で民主党が第一会派になったので、第 27 代参議院議長に選ばれ、昨年は法務大臣と環境大臣をやった、ということです。
ざあっと江田五月がやってきたことと国会議員の日常についてお話しさせていただきました。皆さんの方で質問とか、実際、本当のところはどうなんだなど、ありましたら受けたいと思います。
(学生)社民連というのがあまりよくわからない。社会党とどう違うのか。
(江田)江田三郎さん、江田五月のお父さんが社会党の書記長をしていたんです。社会党は野党第一党でした。当時衆議院は 540 ぐらいあったんですけど、 270 人以上候補者出さないと過半数にいかないじゃないですか。政権取るためには 300 人ぐらい候補者たてないといけないのに、社会党というのは 200 人ぐらいしか立てないんですよ。そんなんじゃ、自民党の揚げ足取ることはできても迫力はないし、ダメだ。そういうことは卒業して、江田三郎さんは社会党を離党したんです、 1977 年 3 月に。社会党を離党して新しい党、社会市民連合をつくる事にしました。江田三郎は 5 月 22 日に亡くなったのです。その時、 7 月の参議院選挙に立候補する準備をしていました。その亡くなった日が江田五月の誕生日で、当時江田五月は裁判官で、これは自分の天職だと思って、裁判官を続けるつもりでしたが、自分の父親が社会党の書記長までやって、こういう政治はダメだと自分一人で飛び出して新しい政治の道を歩もうとした。その夢の途中で、自分の誕生日に死んだので、これで裁判官辞めて自分が立候補すると、 7 月参議院選挙に出ました。その時に何人か社会党を離党してついてきてくれた人たちとつくったのが社会民主連合という小さな政党なんです。もう亡くなられた田英夫さん、阿部昭吾さん、楢崎弥之助さんは国会の爆弾男と呼ばれ、リクルート事件を追及した人です。そして、もう一人は菅直人さん、社民連の政調会長でした。この社民連というのはいろんな実験をしました。社会党だけでも過半数いかないわけですから、社会党と民社党と公明党と社民連の4つが手を組むと候補者の数も過半数を超えるわけです。組んで当選すれば自民党を上回る可能性があるんだから、組みましょうよと。そういったことをやって、菅さんと江田さんは社会党と同じ会派を組んで、阿部さんと楢崎さんは民社党と会派を組んで、二股会派を。お互いの情報を交換して。そういったことがさっき言ったように新進党になり、民主党につながっていった。ある面では菅さんが首相をやり、江田五月が参議院議長をやり、社民連が民主党を乗っ取ったんじゃないかと社会党や民社党の人から言われることもあったわけです。それだけ自民党を倒すという思いというのは強かったのです。菅さんは、さきがけで自民党と組んだことがあるが、江田五月は今まで一度も自民党と組んだことはありません。自民党という政治を消滅させなければいけないという思いが人一倍強いのです。社会党も自・社・さ政権というのがあって、公明党も自・公政権があって、そういう思いは江田五月の大事な政治活動を続ける動機になっている。社民連は喜んで発展的に日本新党と合併して、菅さんはその時、さきがけに合流してちょっと道は違ったけど、登ろうとするてっぺんは一緒だからという形で、それでまた民主党で合流しました。そういった歴史があります。
(学生)江田三郎というのは何才まで生きられたのですか。
(江田) 69 才。 2 年前江田五月が参議院選挙で再選したんですが、あの時が 69 才でした。お父さんが 69 才で志半ばで倒れて、民主党もここまできたんだから、やっぱりしっかりやらなきゃいけないという思いと、議長までやったんだから、もういいじゃないかという声もありましたが、そこは民主党をしっかり支えなければいけないという思いから、 69 才で江田五月は参議院選挙に出ました。
(学生)議員は政策と選挙をどういうバランスで日常考えているのか。
(江田)それぞれだと思います。政治家を志す理由はそれぞれありますよね。一つの側面からいうと自民党は族議員(業界・団体の代表として来ている人)がいますよね。参議院で一番、この国会をわかりにくくさしている参議院の国対の A さんという人は国土交通省出身なんですよ。国土交通省のやりたいことを国政の場を使ってやろうとしているのです。こんな中で国土強靭化法という、もう一回、公共事業をやろうという法案を虎視眈々と考えている、そういった省庁出身です。そのほかにも以前、 B さんという参議院議員がいたのですが、この人は東京電力の副社長だったのです。つまり業界団体の政策を進めようとする代表として国会議員になろうとしています。民主党も同じで、労働組合の代表がいますね。自治労であったり、自動車総連であったり。この人たちも業界団体のことをやろうとしている人たちが一ついます。それから市民派の議員というのがいるわけで、菅グループなんかがそうです。江田五月も裁判官出身ではあるけれど、どこのところからも基盤もたず、国民がやはりおかしいと思ったことを是正していこうとしています。国の中でもさっき言ったように、人権の問題でハンセン病とか、東ティールの問題なんかは選挙区にとっては全然関係ない話しですが、そういう世界の中での民族自決を支援していこう、日本が役割を果たしていく、とりわけ経済面で支援できるとか、ハンセン病の人たちが隔離されたことは誤りだということを認めていこう、こういうことをやらなければいけないと思って活動して国会議員の場を求めていく人もいるのです。
私は国会議員を目指す人は自分のやりたいことがなければなっちゃいけないと思います。それで一番やりたいことがないのになる代表が世襲議員なんです。今回、福田さんの息子だとか、中川さんの息子であるとか、その人たちは多分何もないわけではないけれど、結局は、そこの福田後援会とか中川後援会とかで仕事をしている人がいっぱいいて、そこで新しい人になったら、そこで生活している人たちがどうなるかわからない。だから、世襲議員というのはそういう人たちのために議員になるのです。やりたいことがない人間が候補者になると名前が売れているから当選はしますが、あまりいい仕事をしないというところがあります。
好きな政治家で誰かいますか。
(学生)外交のなかで大平さんが。
(江田)そうですね。中曽根康弘さんなんか、総理大臣をめざして、私なんかも傍でみていると、やはり世界の中での日本のあるべき姿を常に意識した中でいろんなことを考える。そういった人は中曽根さんとか、宮澤喜一さんとかはそういう迫力を感じましたけど。申し訳ないですけど、森さんとか麻生さんとかは世界の立ち位置より、自民党が残るためにこんなことやってやる程度しか見られなかった。実際、感心するような言葉は、あの人たちから自分の言葉で伝わることはなかったです。今は、森さんみたいな、僕はダメだと思っていた人が実は自民党の中でまともなことを言っている、そういう酷い状況になっています。民主党の若手の議員も凄く特異な分野が 2 割程あるが、実は 8 割はまだまだ未熟、経験不足なんです。ちゃんと就職して給料をもらって生活することがわからないとか、親の介護を経験したことがないとか、そういった人がいっぱいいるんですよ。若い人がダメだというのではなく、議員をやっているうちに、いろいろな階層の人と話すことによって、そういったことがわかればいいと思います。しかし、最近の人は自分のやりたいことだけをやりたくて、それ以外のことを無視してしまうところがあります。そういった形で日本の政治はもちろんが、世界の中の日本を考える癖がなくなり、そういったことが遅れ、外交も慌ててしまうという状況になっているのが現実だと思います。
だから大平さんの頃というのは、やはり、戦後の中で日米関係をどういうふうに考えていくのか、どうしていくのかを真剣に考えて、どうやったらやっていけるかという、そういう議論もまわりにもありましたし、本人自身も総理大臣として基本的な思いがあったのだと思います。安倍さんを見ていると、中国とか北朝鮮とかに舐められてはいけませんよ、だからはっきり言いなさいよではそこの国に愛国とかしかけかねないでしょう、相互理解できるような感じはなく、あれじゃうまくいくような感じはしないですよね。
(学生)専門的な議員は何年ぐらい務めればなれるのか。
(江田)自民党の場合は徒弟制度みたいに、当選回数何回かで必ず大臣になるであったり、発言権を部門会議にもうけ、その部門の責任者になるとかですが、何回か当選しないとなれなかったみたいです。民主党の場合はそうではなくて、個々の専門性がある方はやれます。だけど野党だと言うだけなんです。与党だと実際、国家の予算を使ってどうしようかというふうに関わる事ができ、官僚との付き合いの中で、官僚をシンクタンクとして、こういうことをやりたい、こういう法案を考えるということになると、実現するスピードは圧倒的に早いのです。野党でいくらいいことしても、跳ね除けられてしまうと実現できない。なので、それは何年ぐらいというより、それはいろんな方法があると思います。だからそういう先輩たちに、自分やらせて下さいではなく、その先輩たちにやりませんかとこういうことを吹き込むことはできます。なので、いろんな人が来てヒアリングをして、これはいいということをやるのを、別に長老がやっているわけではないのです。
(学生)民主党政権 3 年間で、いくらでも出直すチャンスがあったと思う。江田先生が党内を軌道修正するような役割を果たすことができなかったのか。
(江田)そうですね。これは大変残念なことだと思いますし、やっぱり与党慣れしていなかったと思います。与党になった時にどういうふうなやり方をすればよいのかが、実はわかってなかったというのがあったと思います。だから政治主導というのがぼわっと出て、もうお前ら何やってんだ、霞が関をみんな首にするという人がいたり、したわけです。自民党は自民党で野党慣れしていないから、ちょこちょこちょこちょこ悪いことになって、それが結局積み重なっていって、本当に協力してやらなきゃいけない話す場が全然なくなってしまった。それがよくわかるように、未だにぼろぼろ離党するような人で、実は固まっていた政党だったというが疑問が残ります。与党として 3 年間じっくり、あまり派手なことせずに、最初の 1 年間はずっと黙って点検をしましょう、そうしたら自民党がこれだけ悪いことをしたのがわかり、自民党はそれがわかるのが恐く、 2 年やるともうそれが明らかになるはずだったのです。しかし、それをする前に、八ツ場ダムはやめます、高速道路を無料化します、高校授業料を無料化します、みたいなことがぼんぼん出ちゃって、それがバラバラになって出ちゃったからどうするんですかと突き上げられてしまいました。もし、自民党がこんなことを隠していますとジリジリジリジリ出せば、こんなことにはならなかったと思います。それが我慢できずにここまで来てしまったのが本質のような気がします。
(学生)全体の調整役とか方向を指南する人とかはいなかったのか。
(江田)一つは江田五月が議長でなければもうちょっとできたかも知れませんでした。それと鳩山首相と平野官房長官がわれわれのイメージとは全く違う 1 年間にしてしまったのです。いわゆる普天間の話しみたいにどんどん、 どつぼにはまっていってしまいました。
(学生)党内の政策決定プロセスがうまくいっていない印象を受けたのですが。
(江田)今は最初のところに戻ったわけです。普天間基地は辺野古のところにいくしかない。他に案がないわけですから。その間に期待されていた分が収まらないのです。僕の意見は、自民党が決めたので、沖縄に鳩山さんが行って、申しわけないけれどこれはあの通りやらせてもらうと言えば、自民党も文句は言えず、あの問題は通り過ぎることができたと思います。しかしそれはできなく、あんなに大きくなってしまった後は、結局元に戻ってしまいました。だからオスプレイの話もジワジワ進んでいますし、防衛大臣は政治家だと問われるので森本敏防衛大臣、民間の人にやってもらって進めているというのが現実です。
(学生)八ツ場ダムも中止としながら着工して、元に戻ってしまいました。その舵取りというか、国政でこんなことをやっていいんですか。
(江田)それはマニフェストの間違いを認めなきゃいけないと思います。いつまでも突っ張ってしまうと、増税した分を違うところに使ってしまう形になってしまいます。やっぱり税金を使うことですので、やはり間違ったことは間違ったということを示す文化(後になってできないこと)を、ここで格好が悪くとも作っておくことを、やらなければいけないと思います。
(学生)政権交代して 4 年間というのは、期間的に短いのですか、それとも長いのですか。
(江田)基本は衆議院の任期が 4 年なんです。ここ 7 年間ですから、毎年代わるのは。小泉さんは 5 年やったわけだし、中曽根さん、佐藤栄作さんも長くやりました。アメリカの大統領は1期 4 年、中国は 5 年、だから世界の中で日本と話す時に、相手が一体誰と話さなきゃいけないのか、そういうこともあって、 4 年間の総決算で国民が選ぶことの方がいいのではないでしょうか。最近は問責だとか、ねじれがあって、やはり短いと思います。 1 年 1 年の予算では成果は見えにくいのです。最初に種をまいて水をやって芽が出て花が咲くところまでいかずに、種をまいたらあとはどんな芽が出るかわからずに、という話じゃないですか。世界的に先進国の指導者を考えても、 4 年は最低限必要です。ですが、今は 1 年ごとに総理大臣が代わり、大臣もそれに合わせて代わっているのが現状です。
(学生)マスコミについてはどうですか。
(江田)これは非常に残念ですよね。昔、横山ノックさんと青島幸夫さんが同時に、大阪府知事、東京都知事になったが、結局、 4 年間で何もできずに退陣していきました。ノックさんなんか不祥事を起こして退陣しています。だけど、東国原さんなんか、宮崎県の人は選んだわけですよ。 4 年経ったら、さっさと去って、東京都知事選挙に出て、 100 万票取ったんですよ。それはおかしいと思いませんか。宮崎が今良くなっているのだったら、そういうことを選んだ人は正しかったなと。そういうことは言わずに、又、都知事選に出るんじゃないかとマスコミが言って、そこに有権者も自分がやったことに対しての責任がマスコミと同時に一緒に動いちゃっていて、結果的に自分たちのことになっていない結果をつくってしまいました。
(学生)今回の解散もマスコミが煽ったこともある。マスコミの成熟と国民の成熟が一番必要なんかなと思う。
(江田)その通りですね。マスコミの人も凄いなと思う時があります。それは凄いややこしい法案を記事に書くんですよ。でもあの人たちはそのプロじゃないんです。学者の意見を聞いたりしてくるんですが、あの人たちはそこまで理解できなくて記事にしちゃって、それで国民に伝わっていくわけです。こんなんでいいのかなというのがいっぱいありますよね。朝日・毎日 VS 読売・産経みたいな感じだったのが最近入り乱れてきていて、一番冷静だと思っていた東京新聞が、実は早く解散しろという社説を出していました。昨日あたりは何、原発とか被災地を忘れているんだみたいな社説を書いて、同じ新聞とは思えないほど、混乱しているんです。だから全体的にタガが緩み、それぞれ書く人が違ったらということでいいのかなあ、とマスコミもいい状況じゃありません。東京スポーツと夕刊フジ、日刊ゲンダイに近づいてきているところがあります。今日なんか、日本維新の会と太陽の党はやっぱり難しいかなと言ったんだけど、一緒になったんですよ。昨日は太陽の党と減税日本が一緒になると記者会見しているんだけど、橋下さんが減税日本は入らないと言っているのです。それは情報として流れればいいのですが、こういうことで新しい第三極ができるというのは、そういう人たちを信じていいのかという話もあるわけです。しかしワイドショーはそれをまるで劇場型に河村は嫌いとか、面白そうな話になってしまっているのです。結果として、小泉さんがつくった小泉チュードレンは 5 人ぐらいしか残っていない、小沢さんがつくった、どこからでも引っ張ってきて当選してきた、新党きずなとかにいっている人は次の選挙で通らず、その人たちは結局、次も通らないということは、政策課題に足跡が残せてないですよ。だって、杉村太蔵さんは今バラエティーでやっているわけでしょ。自民党がいいと思った瞬間があるじゃないですか。それと同じで、橋下さんのところが、候補者が出てきていないからわかりませんが、それでも勢いで通ってきてしまったら、これこそ、ずうっとそういうのが続くと税金の無駄遣い、究極の無駄遣いですよね。そこいらを止めようというか、なしにするようになっていかないと日本の欠陥というか、続いてしまうんでしょうか。それがなかなか阻止できないというもどかしさは江田五月にはあると思います。
(学生)今回の解散は、野田さんとしては昨日、一昨日のタイミングしかなかったんでしょうね。延ばせば党内が持たない。
(江田)ただ野田さんは、去年菅さんから野田さんに総理大臣代わった時に、菅さんから野田さんに 3 つのことは是非やって欲しいと言われたのは、一つは消費税増税、税と社会保障の一体改革を仕上げて欲しいと。原発については脱原発の方向でちゃんとやって欲しいと。菅さんが言った TPP は交渉に入る、その3つはやって欲しいと。見事に野田さんは約束を果たしているんですよ。だからあの人は約束を果たしたのです。嘘つきと言われるのは本当に嫌だったと思うし、あのタイミングしかなかったし、あのタイミングで良かったと思います。
(学生) 1 年ごとに総理が代わるっていうのは、何か全体の動きが気に食わなかったら代えなきゃいけないというような声が総理にひしひしと伝われば何か手を打たなければいかんというこの議員の体質が短命な総理を生んでいるんじゃないですか。
(江田)その通りで、ねじれを国会議員自身が国民のために乗り越えていないんですよ。自民党はこの 3 年間で、自民党の派閥で一番多いのは落選議員なんです。落選議員が早く選挙してくれれば帰れるから、それをやってくれというのが実は自民党で一番大きなサイレントマジョリティーというか、それにずうっと自民党総裁は翻弄されてきたんです。だからああいうねじれの中で、特例公債を人質にとって通さないぞというイジメなんですよ。最初民主党がやっていたわけで、自民党が 300 議席持っていた時に参議院でそういうことをやっていました。それは国民にとっても全く酷い状態です。なので、今回、まあいろんな議論はあるけれど特例公債法は向う 4 年間できるという法案にしたわけで、ちょっと進んだということです。福田さんが参議院のねじれで嫌になって辞めた瞬間を私も見ていました。お宅の議員がちゃんと参議院でやってくれないから、嫌がっているみたいなことを言った瞬間、別に江田五月が悪いっていうわけじゃなくて結果としてそうなっているだろうと思いました。暫定税率をもう止めて廃止しようという議論の時で、これじゃ自分の思うような運営できないから辞めちゃおうという話になっていったんです。だから基本的にまともな議論ができないことになっているのは大変な状態なのです。今年の通常国会、今度の臨時国会にしても、江田五月は法務委員会に出たとしても、まともな法案審議・議論を今年はほとんどしていないのです。臨時国会も 11 月に始まってもう解散ですから、何もやっていないのです。僕なんか毎日議員会館に出勤しますが、政策立案の仕事に携われない、こんなんで給料をもらっていいのか、やりきれない気持ちの秘書がいっぱいいるんです。
(学生)国民が選んだ民主党、短命の内閣をつくった。国会議員の皆さんが政策論議をしっかりとやっていかないと。国民は 1 票で選ぶわけですけど、選ばれた皆さんがどうやって政策をやっていくんだということに切り替えてもらわないと。
(江田)その通りだと思うんです。ただ民主党になって僕が一番良かったと思うのは、最初民主党が野党の時にタカをくくって、財源が出てくると思ったけど出て来なかった。出て来なかったどころかもっと酷かったのです。有権者が自民党病院に行って「先生、体の調子が悪いんですけど」「いや、風邪かも知れないからまた来週みましょう、様子みて下さい」と言われる。民主党病院だと「先生、調子が悪いんですけど」「癌かもしれないから精密検査してみますか、その勇気を持ちますか。信じたらうちの病院に来て下さい」。というぐらい違いがあって、実際民主党病院が政権とって、開いてみるとこんな酷いことになっていたというのがわかりました。だから原子力発電所にしたって、こういう危ないということを全然やってなかったというのがわかりましたし、いろんな会計も特別会計みたいなところでこっそり使っていて、実際同じくらい特別会計があってどうもよくわからないかたちで使っているのがわかりました。自民党は一生懸命隠すそうとするわけです。それがわかってきただけでもまあよくなったと思います。今度はそれをわかったことを直すために消費税を上げる、自民党はやばいと思ったから賛成したわけですよね、民・自・公で。本当は自分たちでやったら選挙やばいけど、野田さんでやってくれるから、しめしめと思ったんですよ。本当にやばかったわけですから。
(学生)特別会計の議論が急に消えちゃったのは。
(江田)今、霞ケ関と闘う体力がなくなったのだと思います。残念ながら。財源あると思って戦おうとしたところが、そこらへんはもっと安定した時じゃないとメスが入れられなかった。
(学生)秘書からみて、有権者が国会議員を選ぶポイントはどういう点か。
(江田)国政選挙で参議院は比例と選挙区、衆議院の場合は選挙区だから、そこに出る人間を選ばなければいけないところがあるから。だけど、私はやっぱり、誰のために何をやろうとしているのか。私は娘がいるんですけど、娘のためにどうしよう。子供とか孫とかこれからの子供たちのためにどういう世の中をつくろうか。今まである問題点をいい方向に手掛けることをやろうとしている人を選ぶことが大事だと。これが信頼できる政治家だと。こういう政治をやっている人を増やしていけば無責任でなくて、こういう間違いは目をつぶっちゃいけない、だけど目のつぶり方はいろいろあると。先々にこういうことを実現するためにはちょっと緩めにする。何でもダメだダメだと言ってしまうと無理なんです。
(学生)民主党はマニフェストで掲げてきたものはどうなるのか。
(江田)それは大分進んできて実現できる、実現できないものではないマニフェストになりつつあるようです。消費税を上げること自体は、小沢さんでは消費税はやらない。年金について僕なんかは自分の親がもらっているから我慢しているけど、皆さんは年金の掛け金払っていますか、まだ特例で払っていないのかな。だけど何年かたてば払わなければなりません。でも今のままだともらえないかも知れない。それは酷い話じゃないですか。そういうのを直していこうとするべきです。自民党は血がでているのに見て見ぬふりしてきました。せめて絆創膏を貼るぐらいで、その内にちゃんと治療できる状態にすべきだった。今でもできていないのです。
(学生)特別会計に切り込むなど民主党の新鮮さはあったのだが。
(江田)全部ダメになっているわけではなくて、事業仕分けをやってきたわけですから。あれをやらなかったら、しめしめと悪いことする、復活させようとする人はいっぱいいるわけです。今回の復興にしたって、民主党は被災地で使うということをやっていたのをまわりが盛り上げないとよくならない、そうだといったって工場はすぐ稼働できません。あっちゃこっちゃ野党がそういうふうに言ったから、前に進めなきゃとやっていたことが結果的にああいうことに使われていた。反省しなければいけないところはいっぱいあります。
(学生)どういう基準で選挙で選ぶべきかと言った時に、示されたマニフェストが実際に運用する時に御破算になっていく、裏切られてしまう。物凄く新鮮だった提案が、良かれと思って国民が選んだのに。どういう基準で選べばよいのかがまた崩れちゃう。
(江田)だから今回経験したみんながちゃんと審判を、前以上に下さなくてはならんと思います。今度は軽々に格好いいこと言うのではなくて、あの時こうだったからこうだという説得力持つ人を育てていかないと。大阪の長尾さんというのが民主党から自民党にいくというような、それは議員でいたいからとしか思えないし、民主党で我慢し当選できそうなら民主党で出ただろうが、実はもともとは自民党の政策を持っていた人が民主だったとか。われわれも騙されました。そういうことを直さないといけません。
(学生)次にもし民主党が下野したとしても与党の経験を生かして、ねじれ国会でちゃんとした議論をして、足の引っ張り合い、子供の喧嘩みたいようなことにならなければいいなと思う。江田議員に期待したい。
(江田)有難うございます。私としても江田五月にもう少し、皆さんと同じで、遠慮せずにどしどし言いにくいことも言ってもらうように働きかけたいと思いますし、野田さんもそれは非常に良くわかっていて、自民党の政治に戻させるのではなくて、せっかく民主党がさっき言ったように悪いことを隠さない、隠せないような形になっているわけですから。それを今度直せるようなことを国会議員はやらなければいけないと思います。
2012年11月16日−第8回「政治家と秘書の日常」 | ホーム/講義録目次/前へ/次へ |