1977/04/11 社会市民連合結成

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“江田連合”広がる波紋

 江田氏の行動を待ちかねていたように、地方議員、地方活動家にも脱党機運は急速に広がっている。それらの人たちは、江田氏に「触発された」というより、すでに“江田氏脱党決意”の段階から陰に陽に連携をとり、周到な準備を進めてきており、一斉ほう起の感が強い。

 これまでに脱党者が出ているのは北海道、千葉、埼玉、東京、神奈川、静岡、愛知、岐阜、京都、愛媛の十都道府県。いずれも数人が“先発隊”として社会党地方本部に脱党届を出し、あるいは各地方の社会市民連合準備会結成や独自の参院選闘争体制づくりで社会党に反旗をかかげている。

 中でもかつて江田派の活動家組織(現代社会主義運動研究会)のオルグが進んでいた北海道、東京、京都の動きが先行している。京都ではこの二日に京都社会市民連合準備会の旗揚げをすませ、三上隆府議が参院選京都地方区から立候補を表明したが、第二陣として九日、三百人の京都革新研のメンバーのうち六十七人が脱党、さらに約二百人が脱党準備を進めている。東京も倉持和朗・板橋区議らが脱党届を出し、二十日には東京準備会も発足、第二グループとして区議や三多摩地区二十数人が続く。倉持区議、あるいは埼玉県草加市の西浦賀雄市議ら先発グループは東京・四ッ谷の社会市民連合事務所(江田事務所兼用)に連日顔を見せ、ビジョンづくりや郵便発送、支持者の電話対応など新しい看板のもとでフル回転している。

 いまのところ脱党組はこの程度にとどまっているが、今後も“後続部隊”が相ついで出るものとみられている。というのは、各地方の議員はすでに社会党の参院選体制に組み込まれているためである。党の内外からの改革という建前もあり、将来の連携を考えれば、相手が党内最左派・社会主義協会系の候補でない限り、社会党候補の選挙戦をソデにすることはできない。そこで当面、それぞれの地域の社会市民連合派の議員・活動家は十分な討議を重ねたうえ、第一陣はできるだけ数をしぼり、身軽な小グループで、まず行動に移ることにしたわけだ。

 東京などで第一陣に続き第二のグループ脱党、地域社会市民連合準備会のおぜん立てが進んでいるのは、参院選地方区の候補かつぎ出しと絡んでいるためだ。候補予定者として東京では前区議、生活クラブ生活協同組合理事の岩根志津子、静岡では評論家、北沢方邦、愛媛では元社会党県本部書記長、上甲武各氏らの名前が上がっている。

 従って、社会党が決定的な危機状況を迎えるのは参院選後。現在のところ表だった直接行動を控えている大阪では、江田氏の側近、西風勲元代議士がおり、一時、大阪地方区から出馬の声が上がったほか、山田耻目、阿部昭吾氏ら現代革新研(旧江田派)幹部代議士のいる山口、山形も当面党内にとどまって党内からの社会党改革をするため、周辺にもブレーキをかけているだけのこと。

 中沢茂一前統制委員長(旧江田派)のいる長野や石川、愛媛などもいずれは分裂含みであり「参院選まで分裂的活動をしない」ことを確認した山梨にも一部江田シンパの動きがある。江田氏のおひざ元、岡山では江田派の秋山長造氏が社会党の公認で地方区から出馬を予定しているので、この当選に全力を尽くすが、全国区ではもちろん江田高位当選に全力投球の体制を進め、江田離党と同時に岡山県本部大会で前書記長が“下野”、次の行動への布石を打った。こうした底流は江田氏の影響力の比較的弱い九州にも及んでおり、労組依存の高い鹿児島県本部関係者ですら「参院選後何か動きがでるのでは……」とささやいている現状だ。

 これに対し、旧江田派以外が県本部を握るところでは参院選の防戦に必死。

 「党内結束を固め、参院選に総力をあげる」ことを申し合わせた福井県本部執行委、「江田氏離党は遺憾で、反逆者のらく印を押さざるを得ない」との声明を出した熊本県本部、先月末から支部ごとに党員集会を開いて意思統一し結束を固めた三重県本部など動揺を抑えるのにあの手この手。群馬県本部のように衆参両院議員計五人が「江田氏について脱党しない」と統一見解を出したところもあれば、成田委員長のおひざ元、香川県本部では三年前から「派閥争いを持ち込まない組織」づくりに着手する“手回しのよさ”で組織分裂を食い止めている。

 ただ、こうした新党運動、新政治集団の結成には、これまで党内左派に痛めつけられていた江田派の地方幹部、活動家の中から、この際、選挙に出馬して左派に一矢を報いたいとの思惑も出て来がち。大阪の西風、京都の三上氏らの名前が浮かぶのも、こうした事情がある。

 また、既成の政党のワクからはみ出していたさまざまの便乗組の接近もあるといわれる。江田氏自身「社会市民連合を旗印にする以上、思い切って過半数は新鮮な無党派候補とタイアップしたい」という考えを持っており、この辺の内部調整が一つの課題。東京のある区議も「自分は構造改革論を掲げてきた一人だが、こんど行動を共にする区議は全部がそうではない。いわゆる社会党の硬直した体質に反発したという共通点で結ばれただけで、彼らは“江田新党”でいこうというものではない」と指摘している。

(1977年4月11日「読売新聞」)


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