1979 第三十五回衆議院選挙(1979/10/07投票)

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 大平首相は、統一地方選で東京都知事選に勝利したり、東京サミットを無難に乗り切ったりで、すっかり強気になっていた。長期安定政権をめざすためにも衆院解散をと、全国遊説を開始した。

 大蔵官僚出身の大平は、選挙の争点を「財政」に求めた。福田内閣の赤字国債依存の財政を、一般消費税導入で再建しようとしたのである。消費者はもとより、商店主、中小企業経営者などから反対の声が上がった。すると大平首相は、「一般消費税がいやなら、今まで所得税の安かった階層に負担増をお願いするしかない」と国民に二者択一を迫った。

 総選挙後に突如増税政策を押しつけようとした後の首相に較べれば、選挙で国民に是非を問いかけた大平は正直だったといえる。

 しかし、この増税案は高飛車過ぎた。折から、鉄建公団の税金無駄使いが明るみに出た。社民連は早速運営委員会を開き、「首相は歳入のことばかり言っているが、歳出を減らす努力をせよ。行政改革と補助金の整理が先だ。公費天国絶対反対」と声明を発表した。

 八月十四日、中道四党の党首会談が開かれた。この席に、新自クの河野代表が振っ切れた表情で参加したのが印象的だった。

 これに先立つ七月十六日、新自クは手痛い分裂を経験していた。中道四党で選挙協力をしながら自民党を追い詰めようとする河野代表に対し、新自クの目的は保守の刷新と主張する西岡武夫幹事長はことごとにブレーキをかけていたが、七月十六日、ついに離党したのである。菊池・大成・大原の三議員も西岡に続き、新自クの衆議院の議席は十七から十三へと減った。

 河野代表は、中道四党協力にすべてを賭けている風であった。

 九月七日、野党が不信任案を提出すると、大平首相は直ちに解散権を行使。「一般消費税選挙」の火蓋が切られた。

 社民連は山形二区・阿部昭吾、東京二区・大柴滋夫、同四区・安東仁兵衛、同七区・菅直人、神奈川一区・田上等、京都一区・三上隆(無所属)、岡山二区・江田光子、福岡一区・楢崎弥之助の八人を立てた。

 中道四党の選挙協力は全部で三十二選挙区に及び、このうち二十一選挙区で勝利した。

 しかし、社民連は現職の大柴滋夫も含めて六人が落選。投票日の悪天候が、組織票を持たない社民連には痛かった。衆議院の議席は楢崎・阿部の二議席のみとなってしまった。

 総選挙の直後から、自民党の内紛は再燃した。世にいう“四十日抗争”の始まりである。「首相は大敗の責任をとって辞任せよ」という声がワッと噴き出した。

 中でも三木前首相の「ケジメをつけよ」という発言は重みがあった。前回の総選挙で三木が敗北の責任をとって辞めた際の議席数は二四九、今回は二四八なのだ。

 福田・大平会談では、福田が「今日はあなたがキリスト、私は神だ」と切り出せば、大平が「やめろということは死ねということか」と受けるという奇妙なやりとりもあった。

 しかし、大平は辞めない。結局、国会の首班指名選挙には、自民党から大平・福田の二人が立つ騒ぎとなった。

 十一月六日、首班指名選挙の結果、大平は福田に十票差をつけて勝った。いずれが勝つにしろ二、三票差といわれていたので、議場はどよめいたが、新自由クラブの四名が、第一回投票から大平に入れていたのであった。

 新自クは、この総選挙で一挙に衆議院では四議席の小政党になっていた。その小政党がとった捨身の戦術は「連立政権を狙ったもの」「田中軍団に支えられた大平を支持した」と世論の批判を浴びた。参議院の新自ク議員団も不満を表明し、円山雅也は離党した。河野代表は、総選挙の敗北と首班指名の大平支持の責任をとって辞任。後任に田川誠一幹事長が就任。田川の後任には山口敏夫国対委員長が就任。

 しかし、自民党が真二つに分かれた場合、野党が注文をつけて「よりまし候補」に投票するという新自クの実験は、各野党に刺激を与えたことは確かであった。


メーンスローガン

きりひらこう
 ―― 生活と環境の80年代を ――

あきらめないで
 腐敗と利権の根を断とう!

圧力団体の政治から
 自由の市民の政治へ!

自民党政治にピリオドを!

政権交代のできる野党をつくろう!


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